第3話 雨の日の迷いと、等身大の距離
図書室での出来事以来、真央は意図的に葵と距離を置こうとしていた。
休み時間に葵が「真央、購買にパン買いに行こうぜ」と誘ってきても、「用事がある」と適当な理由をつけて断り、図書委員の仕事も葵と重ならないよう手早く終わらせて逃げるように帰る日々が続いた。
(これでいいんだ。変な勘違いをしないためにも、余計な関わりは持たないのが一番だ)
自分にそう言い聞かせながらも、真央の視線は無意識のうちに葵を追っていた。
グラウンドで誰よりも速く駆け抜ける姿。クラスの男子たちとバカ話をして弾けるように笑う顔。女子生徒から差し入れをもらって照れくさそうに頭を掻く仕草。
そのひとつひとつを目にするたび、胸の奥がキュッと締め付けられるような痛みを覚える。
(俺は男だ。……なのに、どうしてあいつの姿を見るだけで、こんなに胸がモヤモヤするんだ?)
男としての自尊心が「見るな」と警告を発する一方で、女子として育まれた心身が「もっと知りたい」と囁きかけてくる。真央は己の中でせめぎ合う二つの感情に苦しめられていた。
——そんな折り、季節は梅雨に入り、激しい雨が降る日のことだった。
放課後、真央は忘れ物を取りに教室へ戻った。誰もいないはずの教室のドアを開けると、そこには窓の外の雨模様を眺めている葵の姿があった。
「……あ」
逃げ出そうとした真央の足が止まる。葵が振り返り、少し驚いたあと、どこか寂しげな笑みを浮かべたからだ。
「真央か。最近、なんか俺のこと避けてないか?」
ストレートな問いかけに、真央は喉を詰まらせた。
「べ、別に避けてなんか……ただ忙しかっただけだ」
「嘘だな。俺、何か嫌われるようなことしたか? 図書室で急に抱きついたから怒ってるのか?」
葵は真っ直ぐな瞳で真央を見つめてくる。その瞳には誤魔化しが効かない強い意志が宿っていた。
「……違う。蓮見が悪いんじゃない」
真央は視線を落とし、握りしめた手に力を込めた。
「俺が……私自身が、よく分からなくなってるだけだ。男っぽく振る舞おうとする自分と、周りから見られている自分のギャップに……どう付き合えばいいのか、混乱してるんだよ」
前世の話などできるはずもない。真央なりの精一杯の自己開示だった。
葵は黙って真央の話を聞いていたが、やがてゆっくりと歩み寄り、真央の少し手前で立ち止まった。
「真央が男っぽかろうが、言葉遣いが荒かろうが、俺は気にしないよ。真央は真央だろ」
「……え?」
「言葉遣いがどうとか、男っぽいとか女っぽいとか、そんなのどうでもいいんだ。俺は、嘘をつかないで自分の言葉で喋る真央のことが、すごく話しやすくて好きなんだよ」
葵の言葉には、一片の飾る気もない真面目さがこもっていた。
「女子としての自分」でもなく、「男としての前世」でもなく——ただの「新開真央」という存在そのものを認められたような気がした。
ドクン、と大きく跳ねる胸の鼓動。
だが今回は、先日のような自己嫌悪や恐怖は湧いてこなかった。代わりに、冷え切っていた胸の奥にじわじわと温かい熱が広がっていくのを感じていた。
(ああ……そうか。俺が葛藤していたのは、『男か女か』っていう枠にとらわれすぎてたからなのか)
どちらの性別かではなく、いまここにいる「自分」として葵と向き合えばいい。
そして自分が葵に感じていた恋心は、性別がどうあれ、一人の人間として葵に強く惹かれているという動かしがたい事実なのだと、真央は初めて受け入れることができた。
「……お前、ほんとバカだな」
真央は照れくささを隠すように、少し口角を上げた。
「何だよ、真面目に答えたのに!」
「ふふっ……ありがとな、葵」
初めて名前で呼ばれた葵は一瞬目を見開き、それから耳まで真っ赤にして「な、なんだよ急に……」と視線を泳がせた。
雨の音だけが響く夕暮れの教室で、二人の距離は、これまでよりも確実に近づいていた。




