第2話 図書室のふたりと、触れ合う熱
放課後の図書室は、校舎の北側に位置していることもあって、独特の静けさと冷気が漂っていた。新開真央は、古い紙とインクの匂いが満ちる空間で、ひとり貸出カウンターの椅子に腰掛けていた。
(よし、今日の当番はこれで終わりだ。葵のやつ、部活が長引いてるみたいだし、さっさと帰るとするか……)
真央が荷物をまとめかけたその時、図書室の重いスライドドアが勢いよく開いた。
「す、すまん真央! 部活のミーティングが長引いちゃって……遅くなった!」
息を弾ませながら滑り込んできたのは、陸上部のユニフォームの上にジャージを羽織った蓮見葵だった。額には汗の粒が光り、健康的で引き締まった身体から熱気が伝わってくる。
「……別にいい。作業はほとんど終わらせたから、蓮見は帰っていいぞ」
真央は努めて冷ややかな声を意識しながら、葵と視線を合わせないように荷物を抱え直した。しかし、葵は「そんなわけにいかないって!」と距離を詰め、真央の隣に並んで身を乗り出してきた。
「俺も図書委員なんだから、手伝うよ。あ、この高い棚の整理がまだ残ってるんじゃないか?」
葵が指さしたのは、壁際に並ぶ古典文学の大型本が詰まった本棚だった。真央が断る間もなく、葵はひょいと手を伸ばして一番上の棚の資料に手をかける。だが、その背表紙が隣の大型図鑑と引っかかり、ズラリと並んだ重い書籍がバランスを崩して真央の頭上へと落ちてきた。
「あ、危ない!」
葵が咄嗟に真央の肩を引き寄せ、己の身をかぶせるようにして抱きかかえる。
ドサドサッと鈍い音を立てて本が床に落ちるのと同時に、真央は葵の胸の中にすっぽりと収まっていた。
「……っ!」
鼻腔を突いたのは、甘さを一切排した、汗と爽やかな石鹸の匂い。
そして背中と胸元からダイレクトに伝わってくる、男子高校生特有の圧倒的な体温と鼓動の振動だった。
「ふぅ……間一髪。怪我なかったか、真央?」
葵が顔を覗き込んでくる。その距離、わずか数センチ。
葵の大きな瞳に、赤くなって目を見開いた自分の姿が映り込んでいるのが見えた。
(なんだこれ……なんでこんなに心臓がうるさい……!?)
前世の記憶では、男同士で肩を抱き合ったり、揉み合ったりすることなんて日常茶飯事だった。それなのに、いま体感しているこの「抱擁」は、脳の奥底を痺れさせるような、まったく別の質の緊張感を伴っていた。
(俺は男だ……男なんだから、男に抱きしめられて動揺するな……!)
「だ、大丈夫だ! 触るな!」
真央は叫ぶように言い放つと、葵の胸を強く押し返した。
勢い余って葵は後ろへよろけ、真央は肩を上下させながら葵を睨みつけた。
「……なんだよ、その顔。俺は別に助けてなんて頼んでない!」
荒い息をつきながら、前世の粗野な口調を隠そうともせずに突っぱねる。女子高校生らしからぬ態度に、葵は一瞬だけ呆気にとられたように目を丸くした。
怒られるか、気まずく思われるか——真央が身構えたその瞬間、葵の表情がふっと柔らかく緩んだ。
「あはは、ごめんごめん。でも、無事でよかったよ」
葵は頭の後ろを掻きながら、床に散らばった本を拾い集め始めた。そして、ぽつりと呟くように言った。
「真央ってさ、たまにすごく男っぽい言葉使うよな。でも……そういう強がりなところも、なんか素の真央らしくて俺は好きだけど」
「っっ……!?」
『好きだけど』という言葉が、落雷のように真央の頭を撃ち抜いた。
(な、何を言ってんだコイツは……!?)
葵に悪気がないことは分かっている。単なる友人としての親愛、あるいは「面白いヤツ」という程度の意味合いだろう。だが、女子としての身体と、男としての自尊心が激しく交錯する真央の胸には、あまりにも毒が強すぎた。
「ば、バカかお前は! くだらないこと言ってないで、さっさと片付けて帰るぞ!」
真っ赤になった顔を隠すように、真央はかがみ込んで本を拾い集めた。
指先が震えているのを、葵に見られないようにしながら。
男としての意地を張り続ける自分。
それなのに、葵の温もりや言葉に揺れ動いてしまう、女子としてのこの身体。
葛藤の渦の中で、真央は自分の心の境界線が少しずつ、だが確実に削り取られていくのを感じていた。




