サクラの影と、三十歳の残像
春の風が校庭の桜を激しく揺らし、ピンク色の花弁が雨のように降り注いでいた。
新開真央は、校舎の二階にある一年生用の教室の窓辺で、自分の両手をじっと見つめていた。
白く、細く、小さな手だ。爪はほんのり桜色に透け、手首は驚くほど細い。前世の自分が持っていた、タバコと缶コーヒーの匂いが染みつき、長年のデスクワークで腱鞘炎気味だったゴツゴツした男の手とは、似ても似つかない。
「……新開さん? どうしたの、ぼーっとして。もうすぐ始業式が始まるよ」
隣の席の女子生徒——確か名前は小林といったか——が、覗き込むように声をかけてきた。真央はハッとして顔を上げ、小さく首を振る。
「あ、いや……なんでもない。ちょっと考え事をしてただけだ」
「ふふ、やっぱり緊張するよね。高校生だもんね」
小林は親しみやすい笑顔を浮かべると、自分の席に戻っていった。
真央は小さく息を吐き、机の下でスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
(……違和感が消えねえ)
胸の中で、男の口調で毒づく。
真央の前世は、三十代半ばのしがないシステムエンジニアだった。連日のサービス残業と徹夜作業の末、深夜の帰り道で居眠り運転のトラックにはねられ、あっけなく人生を終えた。
……はずだったのだが。
目が覚めると、真央は病院のベッドの上で産声を上げていた。
最初はただの夢だと思っていた。だが、成長するにつれて周囲の言葉が理解できるようになり、鏡に映る自分の姿を見るに至って、受け入れざるを得なくなった。
自分は生まれ変わった。しかも、前世の記憶を丸ごと持ったまま。
そして何より問題だったのは、新しい身体が「女子」だったということだ。
戸籍上の性別は女。両親からは「真央」と名付けられ、可憐で素直な少女として育てられた。
しかし、精神の核にあるのは三十年間「男」として生きてきた自負と記憶だ。
幼少期から、周囲の女の子たちが好むおままごとやピンク色の服には馴染めず、かといって男の子たちの輪に混ざろうとすれば「女の子なのにすごいね」と扱われる。どこに行っても居場所がないような異物感を抱えたまま、真央は成長し、この県立高陵高校に入学したのだった。
「新開真央、か。名前くらいは男っぽくてよかったよな……」
ボソリと呟いた言葉は、体育館へ移動を促すチャイムの音にかき消された。
体育館へ向かう渡り廊下は、新入生たちの熱気と遠慮がちな話し声で満ちていた。
制服のスカートが膝をくすぐる感覚に、真央はいまだに慣れない。できることなら男子制服のスラックスを着たかったが、特に深い理由もないのに性別と違う制服を希望する度胸も度量もなく、結局こうして女子用のブレザーを着用している。
「おい、葵! 急ぐなよ、体育館は逃げねえって!」
「だって早く並ばないと、後ろの方になって先生に見つかるだろ?」
背後から、朗らかな男子生徒たちの声が近づいてきた。
振り返る間もなく、誰かが真央のすぐ脇をすり抜けていく。その瞬間、爽やかな石鹸の匂いと、春風よりも温かい熱気が真央の肌を掠めた。
「あっ、ごめん! ぶつかりそうになった!」
立ち止まり、振り返ったのは一人の男子生徒だった。
背が高く、引き締まった体躯。少し長めの黒髪が汗で額にへばりつき、健康的に日焼けした肌によく映えている。何より印象的なのは、光を吸い込んだように輝く大きな瞳だった。
「……あ、いや。大丈夫だ」
真央が咄嗟にそう答えると、少年——蓮見葵は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。女子にしては少し低く、どこかす気のない真央の発声に引っかかったのかもしれない。
「そっか、よかった! 俺は1組の蓮見葵。よろしくな!」
葵は屈託のない笑顔を見せると、白い歯をこぼして手を振った。そのまま友人たちに背中を押されるようにして、体育館の闇へと消えていく。
真央はその背中を、ぽかんと見送っていた。
そして次の瞬間——ドクン、と胸の奥が激しく脈打った。
(……な、なんだ?)
顔が急速に熱くなっていくのがわかる。鼓動が速くなり、息がうまく吸えない。
手のひらにじんわりと汗が滲む。
(待て、落ち着け。俺は何に動揺してるんだ? あんな、ただのクソガキ相手に……っ!)
真央は己の胸を強く叩いた。
前世の自分は、根っからの異性愛者だった。可愛らしい女性が好きで、街ですれ違う綺麗な人に目を奪われるような、ごく普通の男だったはずだ。
男子に胸をときめかせるなんて、あり得ない。絶対に、あり得ないはずなのだ。
(これは身体の反応だ。この身体は女だから、ホルモンバランスとか、そういう生物的な仕組みで反応しただけだ。俺の心がアイツを男として意識したわけじゃない……!)
脳内で必死に言い訳を組み立てながら、真央は激しい自己嫌悪に苛まれていた。
男としての自尊心が、「男にときめく自分」を絶対に許さない。しかし、一度跳ね上がった鼓動は、体育館の冷たい床に脚を運んでも、しばらくの間収まることはなかった。
入学式が終わり、教室に戻ってからの自己紹介や書類の配布は、真央にとって苦痛でしかなかった。
「はい、じゃあ次は部活の紹介と、委員会決めな」
担任の冴えない中年男性教師が黒板に文字を書き走らせる。
高校生活を静かに、誰とも深く関わらずにやり過ごそうと考えていた真央は、一番負担の少なさそうな「図書委員」に真っ先に挙手した。幸いにも希望者は他に誰もおらず、真央の委員就任はあっさりと決まった。
(よし……これで放課後は図書室で一人、静かに本でも読んで過ごせる)
心の中で小さくガッツポーズをした、その時だった。
「先生! 図書委員、もう一人必要ですよね? 俺、やります!」
けたたましい声とともに上がった手に、クラス中の視線が集まった。
真央が目を見開いてそちらを見ると、そこには先ほど渡り廊下で遭遇した少年——蓮見葵が立っていた。
「お前、蓮見。陸上部に入るんだろ? 委員会なんてやってる暇あるのか?」
「大丈夫ですよ! 図書委員なら当番制だし、部活のオフの日に合わせてもらえればできますから!」
葵は悪びれる様子もなく、ニヒッと笑った。
担任は「まあ、やってくれるなら助かるが」とつぶやき、黒板の「図書委員」の欄に、真央の名前のとなりに「蓮見葵」と書き加えた。
(……嘘だろ)
真央は頭を抱えたくなった。
なぜよりによって、あの苦手な(というか、胸が騒いで直視できない)相手と同じ委員会になってしまうのか。
「よろしくな、新開さん!」
放課後、帰りのホームルームが終わると同時に、葵が真央のデスクの前にやってきた。上から覗き込むような角度で、太陽のような笑顔を向けてくる。
「……ああ。よろしく、蓮見」
真央は努めて冷淡に、目を合わせないようにして答えた。
男同士のフランクな付き合いなら得意だったはずだ。前世では後輩の男を連れて飲みに行ったり、バカ話に花を咲かせたりしたことも一度や二度ではない。
だが、今の自分は「女子生徒」であり、葵は「魅力的な男子高校生」なのだ。
一歩間違うと、先ほどのような謎の胸騒ぎが襲ってくる。
「あれ、新開さんってさ」
「な、なんだよ」
「なんか、すごく落ち着いてるよな。同級生っぽくないというか、大人の人みたい」
葵は真央の顔をじーっと観察するように覗き込んできた。
至近距離に迫る綺麗な肌、ほのかに香る汗と制服の匂い。真央の心臓が、またしても「ドクン」と嫌な音を立てた。
「な、なんだよ! 人の顔をジロジロ見るな!」
真央は思わず椅子をガタッと引いて立ち上がり、声を荒らげてしまった。
男っぽい荒々しい口調。教室に残っていた数人のクラスメイトが「えっ」という顔でこちらを振り返る。
しまった、と真央は冷や汗をかいた。女子高校生らしくない態度をとってしまった。
しかし、葵は怒るどころか、ぽかんとした後に「あはは!」と楽しそうに笑い出した。
「ごめんごめん! 怒らせるつもりじゃなかったんだ。ただ、なんか面白くてさ」
「……何が面白いんだよ」
「新開さんって、見た目はすごく可愛いのに、喋り方がちょっと男気あるっていうかさ。ギャップがあっていいなって」
「っ……!」
『可愛い』という言葉が、真っ直ぐに刺さった。
前世の自分なら、絶対に言われることのなかった言葉。男として生きてきた自分に対する、最大の否定であり、同時に——今のこの身体にとっては、とてつもなく甘美な響きを持って響く言葉。
真央は顔が火照っていくのを隠すように、鞄を引っ掴むと、早足で教室を飛び出した。
「あ、新開さん! 明日の放課後、図書室で当番の引継ぎあるからなー!」
背後から聞こえる葵の声を無視して、真央は廊下を走った。
階段を駆け下り、校門を抜けるまで、一度も振り返らなかった。
春の生暖かい風が、真央のスカートを無慈悲に揺らしていた。
(俺は男だ。俺は、三十歳の男なんだ……!)
心の中で幾度となく唱える言葉は、夕暮れの街並みに虚しく消えた。
初投稿です
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