第8話:暴走猪
その平穏は、何の前触れもなく破られた。
水色の小動物たちの耳が一斉にピンと立ち上がり、震え上がっている。
「ん?みんなどうした?」
レンは急な異変に気づき、声をかける。
彼らの中に、ありありと緊張感がみられた。
「キュゥゥ……ッ!」
彼らはレンの後ろに集まり、隠れるように身を縮めた。
明らかに怯えている。
「……っ!今度は何だ!?」
レンの右手の紋章が急に痛いほどの熱を帯びた。
植物の伝言を通じて、レンの脳内に直接流れ込んでくる情報。
巨大な生物が複数、こちらに向かって勢いよく走ってきている。
ドスン!ドスン!ドスン!ドスン!
遠くから地響きのような足音が聞こえ、だんだんと近づいてくるのがわかる。
木々の隙間から姿を現したのは、巨大な猪だった。
体長三メートルを超える巨躯。
その全身を、硬く鋭い剛毛で覆った『暴走猪』だ。
何のためらいもなく、一直線にこちらへと突進してきている。
そして、その「暴走特急」の直線上にあるのは――レンが午前中に作り上げた、あの『自動菜園』だった。
「……まずい……っ!」
突然の出来事にパニックになる。
どうしよう。
このまま家の中に逃げてやり過ごすか、だがそれだと菜園がめちゃくちゃになってしまう。
しかし、自分にできるのか?
魔法の力で何とかできそうな気はするが確信は持てない。
だが、その時。
彼の右手の紋章が、迷う彼を後押しするように熱くなり、光りだした。
前世での出来事を思い出す。
『佐藤課長!このままでは納期に間に合いません!ご決断をお願いします!』
レンの瞳から、一切の迷いが消えた。
営業マンとしての腹をくくった時のモードに瞬時に切り替わる。
――「やるしかない、俺が何とかしてみせる」
こうと決めたら徹底的に動く、そうやって前世では様々な修羅場を潜り抜けてきた。
これがレンの処世術の一つであった。
しかし、そう決断した時には暴走猪はもう既に数メートル先に迫っていた。
レンは腰から開拓者の万能剪定鋏を抜き取り、無我夢中で上から下にボアの足元めがけて振り下ろした。
「くらえ!―――暴れる蔓!」
ガシャン!
重厚な金属音が響くと同時に、暴走猪の足元から大きな蔓が一気に生え、その巨大な体に何重にも巻き付いて空中に持ち上げた。
ボアは締め付けられ苦しむと共に抵抗を見せているが、ほどかれるような力ではないことがレンにはわかった。
「よし、思った通りだ」
想像した通りの魔法が行使され、ほっと胸を撫でおろした。
ふと手元を見ると、剪定鋏の刃の部分が長くなっており、まるで片手剣のような形状へと変化している。先程の金属音の正体はこれであった。
「なっ、こんなギミックがあるなんて……でも、使いやすいぞ、これ」
試しに振ってみる。
魔力の向ける先が強くイメージできる。
なるほど、素早く魔法を使うならこの片手剣モードだな。
「それにしても……」
レンは思わず声を漏らした。
大きな魔法を使う事でもっと体力や精神力を大きく消費することになるのではないかと覚悟していた。
しかし、実際のところは指先を少し曲げるのと変わらない感覚であったのだ。
右手の甲に刻まれた紋章を見つめ、改めて自分の力に驚いていた。
そして、上を見上げると、ボアは蔓に締め付けられ、そのまま白目を剥いて気絶していた。
「……ふう、うまくいった」
レンは安心し、ボアをゆっくりと地面におろし、軽く息を吐いた。
すると、後方から二頭目、三頭目と森の中からこちらに向かって走りこんできていた。
ドスン!ドスン!ドスン!ドスン!
「大丈夫だ、落ち着け。同じようにやれば、できる」
パチン、パチン。
レンは自分を落ち着かせるように片手剣モードの剪定鋏を鳴らす。
倒れた仲間の巨体を乗り越え、続く二頭目、三頭目が怒り狂って突っ込んでくる。
しかし、今のレンの冷徹な視界には、それはもはや恐ろしい猛獣の群れではなくなっていた。
「――暴れる蔓!」
ヒュッ!ヒュッ!
レンが剣を振り下ろすたび、猪たちの足元から大きく太い蔓が飛び出し、彼らの四肢を絡め取った。
空中でピタリと静止した猪たちは、蔓による圧倒的な締め付けによって瞬時に白目を剥き、あっさりと気絶して地面へドスンと転がされた。
「うん、完璧だ。この剣のおかげで魔法のイメージも湧きやすいぞ」
片手剣へと変化した剪定鋏の使い心地に満足する。
レンにとってこの行為はもはや戦闘という特別なものではなく、当たり前に淡々とこなす事務作業同然であった。
だが、タスクがすべて片付いたかに見えたその時。
最後の一頭――背中に奇妙な角のような突起を持つボス格の個体が、いつの間にかレンのいるすぐ近くまで来ていた。
そして、地面に気を失って転がっている仲間を踏み台にして高く跳躍し、レンに飛びかかろうとしていたのだ。
しかし、レンに焦りはなかった。
そもそも植物の伝言の力によって周囲の状況は肉眼で見なくとも把握していたのだ。
「残念だけど、クレーマーにはお帰りいただくよ」
レンは冷静に、しかし素早く一歩下がると同時に剣を逆手に持ち直す。
「――吸命の根!」
レンは片手剣の切っ先を、足元の地面に深く突き立てた。
瞬間、ボアの真下の地面から、数えきれないほどの細く強靭な根が出現し、空へ向かって噴き出した。
空中で網のようになった根は巨大なボアを完璧に捕縛した。
ボアは抵抗し、なんとか網を破ろうともがき、暴れている。
そんな必死の猛獣の魔力と体力を、絡まった根がポンプのように一気に吸い上げた。
「……おやすみ」
パチンッ!
レンが手元の鋏を鋭く鳴らす。
ボス個体が完全に気を失ったのを確認し、地面に下した。
静寂が、再び森に戻った。
レンは自分でも驚きを隠せなかった。
この二日間であらゆる魔法を使い、感覚は掴んでいた。
しかし、襲ってくる生き物を相手に魔法を使ったのは初めてであった。
前世では、トラブルがあったとしても、謝罪や改善で切り抜けたことはいくらでもあった。
今回はそれとはまったく違う、暴力的ともいえる力で解決をしたのだ。
「……信じられないな。俺が、こんなことをするなんて……」
それは後悔の言葉ではなかった。
力で解決するという、初めての経験からくる戸惑いであった。
レンはゆっくりと深く息を吐き、片手剣を元の手のひらサイズに戻してホルスターに収める。
周囲をぐるりと見渡し、自動菜園も小動物たちにも傷一つついていない事に安堵した。
足元では、水色の小動物たちがこちらを見上げている。
「……キュゥ、キュゥ!」
まるでお礼を言っているかのように聞こえた。
よかった。全てを守ることができた。
「もう大丈夫だよ」
レンは安心し、彼らに笑顔を見せる。
その瞬間、一気に肩の力が抜け、現実に戻された。
「……生きててよかった。一歩間違えれば、もう一度死んでいたかもしれないな……」
改めて生への実感をしたが、恐怖心が頭にこびりつき、離れない。
まだ胸の鼓動を強く感じる。
「怖かった……」
魔法の力で暴走してきた巨大な猪を無力化することはできた。
被害を出さずに済んだとはいえ、極限状態に置かれた事実に変わりはないのであった。
そもそも何でボアたちは暴走していたのだろうか。
レンにはまったくわからなかったが、一つだけ嫌な想像ができた。
それは、先ほど感じた複数の人間達が原因なのではないだろうか。
もしそうだとすると、レンにとってそれ以上迷惑なことはなかった。
「勘弁してくれよ……。せっかく一人になれたんだ……」
レンはテラスに作った椅子に座り、何をするでもなく目をとじた。
そこには、英雄の姿など微塵もない。
ただ理不尽なトラブルに震え、安全な場所に一人で閉じこもりたいと願う、一人の臆病な男の小さな背中があるだけだった。
外界の脅威を退けた彼だが、その「静寂」が長くは続かないことをまだ知る由もない。
少しずつではあるが、真の脅威が迫っているのであった――。




