第9話:文明の利器
太陽が傾き始めた頃、先ほどの光景が、まるで最初から存在しなかったかのように、森はしんと静まり返っていた。
レンはテラスにある椅子に座り、先ほどの巨大な猪との戦闘の余韻から抜け出せずにいた。
「……はあ、思い出すと心臓に悪いな」
自分の指先が、意志に反して小刻みに震えている。
前世で、大幅な納期遅延が発生し、激怒した顧客に怒鳴られた後の感覚に似ている。
大きなストレスや恐怖に取りつかれ、体が反応しているのだ。
圧倒的な力で猪を無力化させ、被害をゼロに抑えたはずなのに。
平常心が取り戻せないままでいた。
「……怖かった。そうだ、まずはそれを素直に認めよう」
自分にはどうすることもできないのに恐怖から逃げようとするから、余計に怖くなるのだ。
前世においてもそうだった、自分のできること、できないことを受け入れる、そうやって割り切ることでストレスを最小限に抑えてきた。
「でも、完璧に対処ができたじゃないか」
同じようなことがあれば、また同じように対応すればいい。
新しいマニュアルが完成したと思えばいいのだ。
少しずつ落ち着きを取り戻し、気が付けば手の震えは無くなっていた。
よし。レンは自分自身を強引に奮い立たせるように、パンパンと両頬を両手で叩いた。
こんな時は趣味に没頭して嫌なことを忘れるのが一番だ。
そう思い至り、何か新しいものでも作ろうかと思考を巡らせる。
顎を上げ、空を見つめた。
「今度の目標は『生活環境の改善』にしよう」
まずは、自動菜園で収穫した実を腐らないよう長持ちさせるアレ。
そして次は……トイレだな。
いつまでも掘った穴に用を足しているわけにもいかない。
現代人としての意地とプライドがかかっている。
明確な目標を設定したことで、レンの瞳に職人としての確かな光が戻る。
彼は家に戻り、リビングルームへと入った。
そして、どこに設置しようかと想像をめぐらせ壁を見つめながらうろうろと歩く。
「この辺がいいかな」
レンは満足げに小声で呟き、首を縦に振った。
そして、腰から開拓者の万能剪定鋏を抜き取り、打ち鳴らす。
パチン。
鋭い鋏の音と共に、壁一面に、冷気草の蔓が這い上がった。
壁面に青白い氷の結晶のような極小の葉がびっしりと茂る。
パチン。
次は、その壁面のやや手前の床から木の板がせり上がる。
壁からも板が突き出てきて、レンと背丈と同じくらいの、縦に長い直方体の木の箱ができあがった。
水平な床や仕切り壁を作った時の技術を応用することで、板状のものは簡単に作り出すことができるようになっていた。
「そして――進化の接ぎ木!」
冷気草の蔓が、中を四角くくり抜かれた分厚い木の箱に、何重にも緻密に巻き付いていく。
レンはそこに魔力を流し込み、数千枚もある葉からの蒸散を一気に促し、蔓に触れるものの温度を下げた。
「よし。……冷蔵庫の完成だ」
レンが持つ前世の知識がなせる技であった。
試しに分厚い木の扉を開け、手を中に入れてみると、前世の冷蔵庫と変わらない程度にひんやりとしていた。
レンはよし、と思わずガッツポーズをする。
「これで収穫したスープ・メロンは長持ちするし、何よりいつでも冷えたグレイン・ウォーターメロンを楽しむことができるぞ」
レンは顔がにやけ、夜の楽しみが一つ増えたことに喜びを隠せなかった。
踊るような足取りでテラスからグレイン・ウォーターメロンを持ってきて、早速冷蔵庫に放り込んだ。
やはり仕事終わりの一杯は冷えていないとな……。
夜が待ち遠しい気持ちをおさえ、次に小さな個室を家の隅に作り上げた。
「次は、文明人の誇りをかけて作らせてもらう」
レンはまず小部屋の中央の床面に手をつき、大きな窪みを作る。
次に、その窪みに魔力を流し込み、びっしりと苔を生やした。
この苔は、あらゆる有機物を無害な水と炭酸ガス、そして上質な肥料へと分解する微生物を共生させたものである。
そして、剪定鋏をパチンとならすと、その窪みを囲むように木の板がせり出し、座面に穴の空いた椅子が作り出された。もちろん座面はやすりをかけたようにツルツルだ。
「よし。これで、安心して家の中で用を足せるぞ」
流すための水も要らない節水型のトイレであった。
しかも、分解された成分は、そのまま大樹の栄養になる。
魔法を使った、世界に一つの持続可能なエコトイレであった。
「今日の作業はこんなものかな……」
作業に没頭するうちに、猪とのことは過去の出来事になっていくのを感じた。
知恵とこだわりで新しいものを作り上げ、満足する。
今のレンにほしかったのは「自己肯定感」かもしれなかった。
レンは夕日が差し込むテラスで椅子に座っていた。
朝から用水路を引き込み、菜園を完成させ、昼には小動物を助け、猪の暴走を止めた。
冷蔵庫とトイレを作ったところで日が暮れる。
魔法を色々と使えるようになったのは良いが、そのお陰で良くも悪くも前世ではありえないほどに充実した一日であった。
「……ああ、今日は疲れたな」
一日を振り返り、レンは「ふうぅ」と長いため息をついた。
それにしても、あの人間達の気配は何だったんだろうか。
猪達の暴走と関係があるのかどうかは定かでないが、森への侵略者であり、森の植物たちはそれを嫌がっているのは確かだった。
「……まあいいか」
わからないことを考えてむやみに不安になることもない。
先ほどの猪の暴走のような、命がけの騒動はもう二度と起きてほしくはないが、魔法の力でなんとかなるだろうという感覚もあった。
それに、最悪の場合はこの家に引きこもっているという選択肢もある。
心からそう思える絶対の聖域を自力で作り上げた事実が、いざという時に助けになる保険として機能していた。
――だが、彼が取り戻したその完璧な平穏の裏で、植物の伝言は再び「新しい波紋」を捉えていた。
「……あ。また……」
右手の甲を見つめるレン。
彼は昼下がりに感じた「あの感覚」を鮮明に思い出した。
あの時は、まだまだ遠く南の方であった。
しかし、今は確実にその距離が近くなっていた。
植物の伝言が伝える情報の密度が、刻一刻と増していく。
複数の足音。
そして、それらから少し離れてこちらに向かう一人の足音。
「こちらに向かって誰かが逃げてきている……孤独な……花?」
決して確証があるわけではない。
ただ頭に流れ込んでくる情報を整理していき、その結論に到達した。
そして、南の方角に顔を向けた。
レンは戸惑っていた。
その気配は明らかにこちらへ向かってきているように感じる。
この世界で生まれ変わってまだ三日目だ。
自分のことを知っている人間などいるはずがない。
なのに一歩ずつ自分の元へと近づいてきている。
「……そんなこと、あるはずがない。気のせいだ」
レンはそれを強引に自分に言い聞かせた。
嫌なことを忘れるようにエナジー・ベリーとスープ・メロンを収穫し、その場で口にした。
しかし、その瞳の奥には、無意識のうちに自分と同じ「孤独な波長」を持つ存在への、もはや消し去ることのできない強い関心が、確かに芽生え始めていた。




