第10話:水面に映る孤独
すっかり日が落ち、月明かりがテラスを照らしていた。
清潔なトイレ、冷えた冷蔵庫、そして心地よいチェアー。
文明の利器を魔法で見事に再現し、ようやく人心地ついたレンは、次なる「心の復興事業」に着手していた。
それは、図らずも前世から持ち込んでしまった願望の一つ。
いつか自宅の庭に作りたいと願っていた夢。
――「観賞池」の建設である。
朝、川の水を自宅の前まで引き込んだ時、アイデアは既に出来上がっていた。
今日はもう疲れていたが、残業ならお手のものだった。
「今の俺なら、簡単にできる」
前世であれば、予算と工期の見積もりだけで心が折れていただろう。
DIYでやるにしても、休日の数時間じゃ到底終わらないし、業者に頼めば目玉が飛び出るような金額になる。
しかし、今は違う。
レンは大樹の根元、少し開けた低地に立ち、開拓者の万能剪定鋏を構えた。
「目標は、本格的な池だ」
パチン、と鋭く鋏を鳴らす。
まずは土台作りからだ……。
直径四メートル程度の円状の土が、うねうねと抉り取られていく。
瞬時に見事な池の器が完成した。
これだけの土を人間一人で掘ろうと思ったら、果たして何日かかるか。
時間だけなく、体力だって持たないかもしれない。
想像しただけでうんざりするような作業量である。
レンは改めて自分の魔力に感謝した。
器は出来たが、単純に土を掘っただけでは水は地中に染み込んでしまう。
「次は防水処理だな」
レンが池の底に手をかざした。
すると、ワックスを塗ったような光沢を持つ特殊な苔が、隙間なく地表を覆い尽くした。
防水処理も一瞬で終わらせる。
そこへ、用水路からの清浄な水を細い蔓で静かに引き込んだ。
ジャアアアアア……。
池と用水路の高さを同じにし、池の水が減った時には川から水が入るように作り込んだ。
「……ここからが、集大成だ」
レンの瞳に、職人特有の熱い光が宿る。
ただ水を引き込むだけでは、すぐに水質が悪化してしまう。
池作りで最も重要なのは、完璧な『生物濾過システム』の構築だ。
レンは魔力を地面に流し込み、池の底に、バクテリアを定着させるための多孔質の石を絶妙なバランスで配置していく。
さらに、水中の不純物を吸収してくれる様々な水生植物を群生させた。
「濾過システム……起動」
石に住み着いたバクテリアが、植えられた水生植物が一気に活動を始める。
水はグングンと透明になっていった。
思っていた以上に順調に水が出来上がり、レンの頬が緩む。
「よし、水質は完璧だ。次は、この魚たちだな」
レンは近くの川から金魚によく似た魚を保護していた。
赤く長い尾びれをゆらゆらと揺らしている。
「お魚さん、待たせたね」
そう呟き、そっと池に放流した。
魚たちは水の中を気持ちよさそうに泳ぎ始める。
「最後は、完全オリジナルの幻想的な光景を――光る水族館」
レンは、池の縁に手をつくと、池を泳ぐ金魚のような魚たちに、微かな魔力の光を纏わせた。
それだけではなかった。
手のひらの上に、光を放つ浮き草――発光浮遊草を生み出した。
それをそっと水面に放つ。
水面には星屑を散りばめたような淡い光が広がった。
月夜の明かりに照らされたレンの目の前で、魔法の池が真の姿を現した。
「……うわぁ……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
透き通った水の中で、発光浮遊草がゆっくりと明滅し、淡く輝く魚たちがゆったりと泳ぐ。
前世では絶対に見ることのできない、圧倒的で幻想的な光景だった。
ちょっとした思いつきと、前世からの願望、魔法と理想が接ぎ木され、まるで夢のような世界を作り上げていた。
「……これ、本当に俺が作ったのか?」
思っていた以上の出来栄えに、自分の成し遂げたことだと思えなかった。
ゆっくりとこの光景に浸ろうと、レンは冷蔵庫から冷えたスープ・メロンを用意し、テラスの椅子にかける。
だが、その極上の味とは裏腹に、胸に大きな穴がぽっかりと空いたような感覚に襲われ、苦しくなった。
(……これ、あいつらにも見せたかったな……)
思い出したのは前世に残してきた家族であった。
仕事に追われ、ストレスが溜まり、家族との団らんの時間は減っていた。
しかし、家族を愛していた事には間違いはなかった。
仕事に疲れ、家で隣にいても話すことが少なくなっていた妻。
十四歳になり、塾や部活で忙しく、小さい時のように寄ってこなくなっていた娘。
仕事が忙しいのも家族のためだと、言い訳を自分に言い聞かせていた。
「ああ……」
思わず深いため息をつく。
「……みんな、ごめんな」
思えば、こんな幻想的な風景ではなくても、家族にできた事はもっとあったはずだ。
もっと一緒に美味しいご飯に連れて行ってあげればよかった。
もっと家族で旅行に行けばよかった。
もっと娘と遊んであげればよかった。
もっと一緒に……
……
レンの瞳から一筋の涙が頬にこぼれる。
今更になって後悔していた。
「本当に、バカだな……俺……」
今、自分の目の前には、当時の自分が喉から手が出るほど欲しかった「時間」も「余裕」も「理想の庭」もある。
しかし、それを一番見せたかった人々は、もうここにはいない。
―――こんなにも力があるのに、前世をやり直す魔法だけは存在しなかった。
自分の時間だけが止まっているようだった。
「……こんなに、綺麗なのに……なあ……」
独り言が、夜の静寂に吸い込まれていく。
完璧であることが、かえって一人であることを残酷に映し出していた。
ゆっくりと光る浮き草が、水面をゆったりと漂っている。
レンはただただ一人で眺めていた。
ゆくあてもなく池をさまよう浮き草が自分と重なり、今の自分は一体何をしているのだろうと疑問が浮かぶ。
「……一体、何をやってるんだろう……」
自嘲気味に笑い、最後の一切れのスープ・メロンを口にする。
満たされているはずなのに、何かが決定的に足りない。
その正体が孤独だと、認める勇気がなかった。
認めてしまっては、今までの自分を否定するようで怖かったのだ。
これが、本当に自分のやりたかった事だったのだろうか。
そんな問いが頭をよぎり、深い溜息をついた。
――っ!?
風の音に混じって、右手の紋章が鋭く、熱く脈動した。
それは今までになく強烈な植物の伝言を介した「悲鳴」だった。
いや、それは悲鳴というよりも、魂の最後の一滴が絞り出されるような、掠れた願い。
アクアリウムの光が一瞬全て消え、森に静寂がおとずれる。
『……だめ、もう……。……誰か……助けて……』
気のせいではなかった。
遠くないところにいる。救助を求めている。
「うっ……」
右手の紋章が、明らかに反応して輝いている。
レンは、手に持っていたスプーンを落とした。
カラン、と乾いた音がして、テーブルの上を転がっていく。
夜の静寂を切り裂いて届いた「助けて」の声。
光る水族館の幻想的な光が、レンの青ざめた横顔を静かに照らし出していた。




