第11話:森の悲鳴
カラン……。
乾いた音が夜の静寂に響き渡った。
テーブルの上を転がるスプーン。
それを見つめたまま、凍り付くレン。
「えっ……」
つい先ほどまで、前世で大切にしていた家族の事を思い出し、後悔し、孤独感に苛まれていた。
そんな矢先、右手の熱と共に一気に現実に戻されたのだ。
『……だめ、もう……。……誰か……助けて……』
間違いなく誰かが救助を求めている。
思い返せば、植物の伝言を通して昨日の夜から異変を感じていた。
「……何だよ。待ってくれよ」
突然の事に頭の中は整理しきれない。
レンは震える手で、疼く右腕を強く抑えつけた。
視界の端には、光る水族館が、魔法の力で幻想的な光を放っている。
「助けてって言われても……」
自分に何かできるのだろうか。仮にできるとしても、トラブルに巻き込まれたくはない。
せっかく手に入れた自由な時間。
自分の為に存在する自分だけの場所。
それらを失う可能性だってあるのだ。
一歩外に出れば、そこに何が待ち受けているのかわからない。
森が続いているのか、山があるのか、実は人里が近いのか。
周辺の散策もまだ充分にしていなかった。
こんな状況で救援にいって自分は無事でいられるのか。しかも夜だ。
不安ばかりが次々と頭をよぎり、足が勝手に貧乏ゆすりを始める。
突然降って湧いた時間外での大型クレーム案件。
対処できるのは自分しかいないし、相手も自分を求めている。
ここで動かなければ一生後悔するであろうことは頭では理解していた。
しかし、簡単に決断することもできなかった。
別に無理に行かないで放っておいても……。
仮にここで動かずにスルーしても不利益になるようなことは何もないとは思う……。
多少は後悔するかもしれないけど、そんなことはいくらでもあるし、時間が解決してくれる……。
レンは一度頭を縦に振り、自分自身に言い聞かせた。
それでも迷いと葛藤は続く。
面倒事から逃げたい気持ち、誰にも気を遣わない自由気ままな生活を続けたい気持ちに、一切の嘘はない。
でも、自分がやらなければ、という気持ちも胸の奥から顔を出し始めている。
そして、右手の紋章はどんどんと熱くなっていく。
反対に、植物の伝言から伝わってくる「声」はどんどんと弱くなっている。
……だめだ……放っておけない……。
レンは声が聞こえる南の方角を見た。
「……わかったよ」
そう呟いたレンの瞳には、覚悟の色が宿っていた。
結局のところ、何もしないで後悔するのは耐えられないし、助けを求められたら無視はできなかった。
そうやって数々のトラブルを鎮静化させてきた前世での実績も、彼の背中を後押しした。
そうと決まると、椅子から立ち上がり、声を感じる方へと歩き出す。
「まずは状況確認から」
どんな案件もまずは何が起きているかを確認するところから。
何もわからないうちに、ああだこうだと心配しても意味はない。
現場を見て、顧客のヒアリングからスタートするのが鉄則だと信じていた。
「大丈夫。何かあっても、俺にはコレがある。頼んだぞ……」
レンは歩きながら右手を見る。
そして、一つ大きな深呼吸をし、森の中へ足を踏み出した。
夜の森は予想以上に暗かった。
足元に注意しながらも、急ぎ足で歩いていくレン。
少しずつ弱くなっていく助けを求める声が、彼を急がせる。
焦燥感に追いかけられていた。
昼間に小動物と出会った場所を抜けると、そこは、先ほどまでの快適な拠点とはまったく違う顔を見せていた。
湿った土と腐葉土の匂いが立ち込める、原始のままの夜の森。
月明かりが原始林の葉のすき間から降り注ぎ、地面をわずかに照らしている。
積み重なる落ち葉、地面からせり出した大きな木の根、剥き出しの土、腐っている倒木、様々な表情を見せていた。
「わっ」
足元ばかりを見て歩いていると、低木の枝に顔が引っかかった。
思わず驚き、手で枝を払いのける。
道なき道を進むにつれ、レンは森に違和感を感じていた。
森の奥へと進むほど、植物たちの元気がないように見える。
昼間の猪たちが暴れ回った影響だろうか。
異世界の森の事はよくわからないが、何かしらの異常事態であることは察知した。
「……大丈夫か?……」
誰にということもない、レンは森全体に話しかけた。
植物たちの葉は変色し、力なく垂れ下がった蔦は黒く枯れかかっている。
植物たちの悲鳴が、紋章を通じて休む間もなく流れ込んでくる。
レンは歩きながらホルスターから剪定鋏を取り出した。
パチン。
周囲の草木に魔力を流し込み、可能な限りの緊急蘇生を施していった。
「……よし、頑張れよ。悪いが、今は先を急ぐぞ」
暗い森の中、彼の通った周辺の植物は元気を取り戻し、生命の灯に溢れていた。
しかし、南へ進むほどに何かに汚染されているかのようであった。
地面を這う蔦は黒く変色し、触れるだけでボロボロと崩れ落ち、枯れ始めている樹木の数が目に見えて増えている。
「おい、しっかりしろ……!」
レンは思わず足を止めた。
そして、枯れかけた巨木の根に手をあてた。
魔力が流れ込み、一瞬だけ生命の輝きが戻る。
だが、すぐに消えてしまった。
この森に何かの異変が起きている。
その確信が、レンの背中を冷たく撫でた。
右手の紋章が熱くなり、警鐘を鳴らすように淡い明滅を繰り返している。
その時、植物の伝言を通して頭に流れ込んできた。
(……痛い……だれか……おねがい……もう、足が動かないの……)
繊細な命の灯が消えかかっている。刻一刻を争う事態であった。
そして、それはすぐ近くからであった。
「……あっちだ」
レンは足を速めて木々を駆け抜けた。
そこには、高さ数メートルの巨大な防壁――境界の茨が、そびえ立っていた。
茨の防壁は、転生してから無意識に使っていた魔法であり、レンの家である巨木がある森を大きく取り囲んでいた。
誰にも気を遣わず、一人の時間を満喫したいというレンの心の奥の願望が具現化していたのだ。
しかし、その茨の防壁の一部に穴が開いていた。
「嘘だろ……。俺の茨が……」
太い茨が焼き切られている。
その穴から、松明を持った複数の人間がこちらへ向かって入ってくるのが見える。
『――突入完了! エルフのガキを探せ!』
大きな声が夜の森に響き、松明の光が散開する。
その声を聴いた瞬間、レンの頭の中で昨晩からの違和感が一つに繋がった。
そしてゴクリと唾をのみ込んだ。
一体何なんだ……エルフの子供を追いかけまわしているのか?
その時、
カサ……
弱々しい音がレンのすぐ近くから漏れた。
そこは兵士たちが散開しつつある正面ルートから僅かに外れた死角。
一本の巨木の裏側であった。
「助けて……」
息を呑んで巨木の影へ回り込んだ。
そこにいたのは、泥にまみれた一人のエルフの少女だった。
数十メートル先で松明を掲げる人間達から身を隠すように地面の上で丸まっている。
それを見てレンは一気に緊張した。
彼らが捜しているのはこの少女で間違いない。
俺に助けを求めていたのはこの子だ。
レンは自分を落ち着かせようと、手に持っていた剪定鋏を、震えながらも静かに、ゆっくりと鳴らした。
パチン……パチン……
松明の炎がゆらめく暗闇の森の中、エルフの少女を目の前にしたレンの右手の紋章が、安心したように淡く輝いていた。




