第6話:自給自足
障子から白い光が優しく差し込み、朝を告げる。
レンはベッドの上で重たい瞼をゆっくりと押し上げた。
「ふあ……あ……朝か……」
もう昨日のように勘違いし、寝坊だ遅刻だと焦る事はない。
頭の中はこの世界へと更新が完了していた。
しかし、何かが頭の中で引っかかっていた。
それは昨晩、眠りに落ちる間際に感じた焦燥感であった。
前世でも、寝る前にふと仕事を思い出し、不安になることはあった。
よくあることだ、考えても仕方ないと無理やり思考を切り替えた。
「今日は何をしようかな……」
今日やるべきタスクを思い描き、優先順位を考える。
巨大な樹木の洞をリフォームし、快適な居住空間は手に入れた。
「うん、まずは水、それから食料の確保だな」
レンは家を出て、森の朝の清浄な空気を吸いながら、ゆっくりと歩く。
気持ちがいい……空気って美味しいんだな……。
彼は何度も深呼吸を繰り返し、朝の新鮮な森の空気を肺の中いっぱいに吸い込んだ。
もう焦らなくても、急がなくてもいい、決まった電車に乗るために時間を気にする必要はなかったのだ。
少し歩くと、一本の川に辿り着いた。
一昨日、家になる場所を探していた時、拠点とした大樹から少し歩いた場所に、緩やかに流れる川を見つけていた。
「よし、やるか……」
腰のホルスターから開拓者の万能剪定鋏を抜き取り、パチンと鳴らす。
川の縁から家の方角に向かって線を引くように地面が次々と掘り下げられ、用水路が出来上がっていく。
レンは歩いて家の前まで戻りながら用水路を繋いでいった。
そして、家の前まで来たところで、川の下流に向かってさらに用水路を伸ばし、元の川に戻す。
川の上流から分岐した支流が家の前を経由して川の下流に戻っていく、所謂バイパスが出来上がった。
「……これをそのまま飲むのは怖いな」
前世において海外の出張先でうっかり水を飲み、三日間ホテルのトイレから出られなくなった地獄のような記憶がフラッシュバックする。
家の前まで戻り、再び剪定鋏をパチンと鳴らした。
用水路の上流から家の前までが細かい砂利で埋め尽くされ、苔、そして水生植物がびっしりと生い茂る。
前世の趣味の一つであったアクアリウムの知識を最大限に活用していた。
「よし、生物濾過システムの出来上がりだ。これできれいな水になったかな……後は仕上げだ」
パチン。
用水路の中から木が一本生え、あっという間に成木へと成長した。
レンの胸の高さにある枝を剪定すると、断面から水がポタポタと落ち、そのまま「水受け」に、ポタポタと溜まっていく。
「……っ!? なんだこれ、飲みやすいぞ……」
前世で飲んでいたミネラルウォーターとも違っていた。
嫌な臭いや抵抗が一切感じられない、すっと体の中に自然に吸収される、いくらでも飲める「生きた水」がそこにあった。
これ、売ったら大儲けできるんじゃ……いや、よそう。
営業マンの悪い癖が頭をよぎったが、この世界には関係のないことであった。
水の確保は成功した。
レンは再び水を口にし、満足げに一息つくと、周囲を見渡した。
「次は、こっちだな」
レンは大樹の根元、家の正面にある日当たりの良い面を見つめ、不敵に笑った。
「まずは土作りからだ」
パチン。
鋏の音と共に、土が生き物のように大きくうねり、ふかふかな畑の土へと一瞬で変貌していく。新鮮な生き生きとした土の匂いが辺りに立ち込めた。
レンは試しに土を一握り手に取り、揉んでみた。
「おおっ……」
想像以上に柔らかく、水はけがよい土に自分でも驚きを隠せなかった。
これなら、何でも育てることができそうだ。
次に、レンは魔法で性質を書き換えた種を等間隔に埋め込んだ。
全部で三種類。
一粒食べるだけで一食分のビタミンとカロリーが完璧に補給される、濃厚で甘酸っぱい「エナジー・ベリー」。
果肉を噛むと中から最高級の温かいコンソメスープのような芳醇な果汁があふれ出す「スープ・メロン」。
そして、「グレイン・ウォーターメロン」。
その果汁は酵母により発泡し、多少のアルコールが含まれており、麦の香りが感じられる。仕事終わりの自分へのご褒美として欠かせなかった。
パチン。
地面から芽が出てくるや否や一瞬で成長し、色とりどりの実をつける。
試しにエナジー・ベリーを一粒摘み取り、おそるおそる口に入れてみる。
「……うん、美味しい……」
予想以上の出来に、思わず笑みがこぼれた。
一口食べただけで十分な栄養が補給され、元気が湧いてくる。
レンは次に、先ほど作った川から畑に向かって蔓を伸ばす。
土が乾燥すると蔓を通して川の水が給水される「自動灌水システム」を構築したのだ。
世界で唯一の「自動菜園」が完成していた。
「……よし。これで、テラスに出ればいつでも水と食糧が手に入るぞ」
一仕事を終えたレンは、完成したばかりの菜園を見渡し、深い安堵のため息をついた。
前世の知恵と魔法をどう組み合わせて「持続可能な仕組み」を作るか、それは最高に知的で充実する作業だった。前世の趣味、仕事経験、魔法の力のシナジー効果に自己満足を極めていた。
三LDK相当の広大な居住空間。
ふかふかのカーペットに床暖房、自分にピッタリなベッドとテーブルセット。
いつも新鮮で甘い水が湧き出ている水場。
そして、何もしなくても実が成り続ける自動菜園。
「……完璧だ」
それ以上の言葉が見つからなかった。
レンは、テラスにもテーブルセットを作り出し、もぎたての甘いスープ・メロンを味わいながら森を眺めた。
自分の力で作り上げた世界に誇りと満足感がある。
しかし、同時に足りないものも感じていた。
それは、成果を共有し、分かち合う相手が一人もいないということであった。
前世では、誰かに喜んでもらうことが原動力だった。
今は誰の為でもない、自分の為である。
これ以上の贅沢はないはずなのに……。
「あいつらにも、この綺麗な景色を見せてやりたかったな……」
自然と前世の家族を思い出し、胸が痛くなる。今はもう自分一人しかいないんだ、レンは自分に言い聞かせるように優しく呟いた。
衣、食、住。
そのすべてが、前世の知恵と今世の魔法によって、最高級のクオリティで整った。
異世界に転生してわずか二日。
元営業課長・レンの第二の人生の生活基盤が今ここに完成した。
しかし、この完璧に思えた孤独な隠居生活が、森を追われたエルフの少女との劇的な出会いによって、早くも終わりを告げようとしていることを――この時のレンは、まだ知る由もなかった。




