第5話:逃走
暗くて、深い樹海の中を、一人の少女が何かに向かって歩いていた。
―――ハイエルフの少女、リィネ。
彼女が村から追い出された時、その手に持たされたのは粗末な弓矢と数日分の干し肉、わずかな水だけであった。
「……あっ」
なんでもない木の根につまずき転ぶリィネ。
彼女は先ほど起きた出来事に理解できず、苦しんでいた。
(なんで……。なんで私が……!)
リィネの瞳は「エメラルドグリーン」、ハイエルフには決して現れない不吉な色であった。
忌み子。不吉の象徴。
幼い頃からそう呼ばれてきた。
そう、それだけならまだ良かった。
この数年で近隣の森の木が黒く枯れ始めた。
それは次第に村の内部の樹木にも浸食してきていた。
『あの忌み子の不吉な瞳が、木々の生命力を吸い取っているのだ!』
リィネ自身はもちろん何もしていない。自覚もなかった。
そんな時、決定的な事がついに起きた。
数日前のこと、村の信仰の中心である神木が、突然黒く枯れたのである。
『森の怒りを鎮めるために、あの子を村から追放するしかない!』
誰の言葉だったのかは、もう覚えていない。
ただ、誰もリィネを庇おうとはしなかった。
血の繋がった両親でさえも、静かに目を伏せ、彼女から顔を背けたのだ。
こうして彼女は、広い樹海へと一人投げ出された。
これからどうしようか……。
どこにも行く当てはない。でも、このまま死んでいくなんて嫌だ。
とりあえず、村の近くにいれば、また受け入れてもらえるかもしれない。そうしよう。
その瞬間、樹海の遥か遠くの方から、異質な魔力を感じた。
「……え?」
リィネは樹海の南の奥深くへと視線を向けた。
そこからはとてつもなく大きく、今まで感じたことのない魔力が漂ってきていたのだ。
初めてのことで何が何だかわからない、だけど……。
「あたたかい……」
不思議なことだった。
未知の異質な魔力であるはずなのに、なぜかリィネの魂を慈愛で包むような波動に満ちていたのだ。
(よし……あそこに行ってみよう)
リィネは迷う事なく行き先を決め、足を動かし始めた。
しかし、運命はまたもや残酷な試練を彼女に与える。
何時間歩いたのかはわからない。
夜になり、すっかり辺りが暗くなっていた。
不意に、木々の向こうに幾つもの松明の明かりが見え、声が聞こえた。
「おい! あそこを見ろ! 誰かいるぞ!」
野太い男の声。
リィネはビクッと肩を震わせ、息を呑んで足を止めた。
「女だ……いや、待て。あの尖った耳、エルフじゃないか!?」
「マジかよ! もしかしたらハイエルフかもしれないぞ!」
大きな声を出しながら、数名の男たちがこちらに向かって歩いてくる。
軽装ではあるが、腰に剣をぶら下げていた。
彼らは、帝国アイゼンベルクからこの樹海の調査に派遣された『ヴォルフ調査隊』の先遣隊である。
何も出てこない森の調査に飽き、退屈を持て余していた彼らは、刺激を求めていたのだ。
「おい、生け捕りにしようぜ!もしハイエルフだったら貴族の連中に高く売れるぞ!!」
「それは名案だな!傷をつけないように気をつけろよ!」
リィネは人間に出会ったのは初めてであったが、村では嫌というほど聞かされていた。
人間とは悪魔の成り代わり。
血も涙もない魔物以下。
ここで捕まるわけにはいかない。
「……っ!」
リィネは一切迷う事なく、弾かれたように夜の樹海へと駆け出した。
「逃げるんじゃねえ!!」
地獄のような逃走劇の幕開けだった。
月明りに照らされる森の中を、リィネはあの魔力の方角に向かってひたすらに走った。
何度となく転倒し、枝や木の肌に体をぶつける。
それでも何事もなかったように立ち上がり、がむしゃらに走った。
背後からの声はやがて怒号へと変わり、走るほどに少しずつ遠ざかっていった。
どうにか、追跡を振り切った。
しかし安心はできなかった。
彼らは足跡や方角を頼りに追いかけてくる可能性もあった。
暗闇の中を時間も忘れて走り続け、ついに太陽の光が森の木々の間から差し込んできた。
リィネは巨大な倒木の洞を見つけ、その中へと逃げ込んだ。
息は乱れ、心臓は破裂しそうである。
少しでも回復させるべく、手で近くの蔓をちぎり、流れ出る水を口に注ぐ。
持たされた干し肉を食べようかとも考えたが、走り続けた後の体がそれを拒否した。
日中は動きづらかった。
明るいというだけで彼らに見つかりやすいと思われた。
それだけではない、走り続けた疲労感、すでに思い通りに動かない足が、今から再び走って逃げ続けるという選択肢を拒んでいた。
リィネは休息と潜伏を兼ねて、薄暗い洞の中で膝を抱え、ただひたすらに息を殺した。
時折、遠くから人間の男たちの声が聞こえた。
万が一にも見つかった時は、魔力を一気に放出し、その隙に走って逃げるつもりでいたが、幸運にも声が近づいてくることはなかった。
しかし、いつ見つかるか分からない恐怖に耐え続ける時間は、永遠にも感じられた。
やがて、太陽が西へ傾き、再び樹海が暗くなり始める。
(もう人間達も諦めたかもしれない。そろそろかな……)
洞を出て、あの魔力に向かって再び歩き出した。
だが、丸一日ろくに寝れていない身体は、想像以上に重かった。注意力まで散漫になっていた。
―――パキッ!
「あ……」
迂闊にも枯れ枝を踏み抜いてしまい、静かな森に響き渡った。
そして、不運なことに、ヴォルフ調査隊の先遣隊はまだ近くをうろついていた。
「おい! 今向こうで音がしなかったか!?」
茂みをかき分ける複数の足音が、猛烈なスピードでこちらへ殺到してくる。
しまった。見つかった。
リィネは再び全力で走り出した。
昨晩とは違い、疲れが溜まっているせいか、人間達を引き離すことができない。
走っても走っても、後ろから声が聞こえてくる。
どれだけ逃げていたのかわからないが、気が付けば辺りは完全に暗くなっていた。
次第に人間達は苛立ってきていた。
「はあっ……はあっ……いつまで逃げるつもりだ。」
「こうなったら遠慮はしねえぞ!」
人間達の声に続いて、ヒュッ、という風を切る音。
直後、背を向けて走り続けるリィネの右肩に、鋭い痛みが走った。
「うあっ……っ!」
矢が突き刺さったとすぐにわかった。
しかし、それだけではなかった。
激痛とともに視界がぐにゃりと歪み、地面に倒れ込む。
それは、森の動物を狩るときに使う毒矢であった。
「よしっ、当たったぞ! エルフは初めてだが、まあ死にはしないだろう」
もう……だめかもしれない。
誰か……助けて。
視点が定まらない。
このままでは、捕まってしまう。
しかし、温かな魔力を少し先から感じる。
確実に近づいてはいるのだ。まだ諦めるには早い。
リィネはふらつきながら前へと進む。
しかし、数歩進んだ先で、リィネは絶望に目を剥いた。
「え……」
行く手を阻むように、無数の鋭い刺を持った巨大な茨の壁がそびえ立っていたのだ。
見上げるほど高く、左右を見渡しても迂回できるような隙間はない。
完全な行き止まりだった。
「さあ、年貢の納め時だな。おとなしく捕まってくれ」
人間達の足音が近づいてくる。
この茨の壁の向こうから魔力を感じる。
そこに希望がある、そう信じて疑わなかった。
リィネは迷わず覚悟を決めた。
再び体に力をみなぎらせる。
そして、身体を無理やり茨の壁のわずかな隙間へとねじ込んだ。
「ゔっ、あぁっ……!」
茨の棘が衣を裂き、肌をえぐる。
茨の中を動くたびに鋭く鋭利な棘が全身を容赦なく襲う。
「うあああぁっ!」
全身から血が流れだす。
あまりの痛みに意識がなくなりそうな感じすらしてくる。
それでも彼女は、血まみれになりながら、ついに茨の向こう側へとたどり着いた。
「なんだ、あのエルフ!頭おかしいんじゃねえか!? 回り道を探せ!」
毒が回り、立って歩くこともままならなくなっていた。
リィネはそのまま地面を這いつくばり、巨大な倒木の陰へと隠れこんだ。
(……痛い……だれか……おねがい……もう、足が動かないの……)
ようやく振り切ったと思ったが、彼らはまだ諦めていなかった。
茨の壁を突破してくる人間達の声が聞こえてくる。もう時間の問題だろう。
だんだんと視界が暗くなっていく。
絶望感が強くなる。
(まだ死にたくない……それとも、彼らの前に出て命乞いでもしようか……)
この世には神はいないのか、森は私を見捨てるのか。
諦めとともに、震える唇を動かした。
「助けて……」
一筋の涙が頬をつたう。
リィネは静かに目を閉じた。
最後に感じたのは、すぐ近くまで迫っていた、あの優しく温かな魔力の気配。
――ザクッ、ザクッ。
誰かが来る……
パチン……パチン……
(ああ……温か、い……)
そこで、リィネの意識は完全に途切れた。




