第34話:噂話
森の上空には青空が広がり、朝の太陽からは温かい陽射しが降り注いでいる。
レンは今日もお気に入りの池を眺めていた。
噴水から噴出した水が水面を打ち付ける音がテラスに響き渡り、少し離れたところからはゴブリンの子供たちとクロが遊んでいる声が聞こえる。
「お魚さんたちは元気かな。……あっ、浮草が増えている、環境に合ってきたみたいだな」
池の生き物たちが順調に成長していることを実感し、充実感に満たされるレン。
特に何もすることのない一日の始まりに、ボーっとできる幸せを噛みしめていた。
「レン様。冷たいハーブティーをお持ちしました」
後ろからリィネがハーブティーをお盆に乗せ、レンに向かって歩いてくる。
「ありがとう、リィネさん」
その時。
ドン!
「きゃっ!」
ゴブリンの子供たちと遊んでいたクロが勢いよくリィネにぶつかる。
その拍子でお盆に乗っていたハーブティーが、そのカップごとレンのコートに降り注いだ。
「あ……」
森が一瞬静まり返る。
「はわわわわわっ!も、申し訳ございません、レン様!その神の羽衣とでも言うべきお洋服にハーブティーが!死をもってお詫びしますぅぅ!」
「いやいや!待って!大丈夫!洗えば平気だから!死なないで!」
レンは落ちたカップを拾い、「どうせ私なんか」と地面に座って落ち込んでいるリィネを励ます。
「レン様は本当にお優しいのですね。私のような未熟者にまで手を差し伸べてくださる。やはりレン様は森の守護者に違いありません!」
拳に力を入れて前に出し、ふんと鼻息を鳴らすリィネ。
元気が戻った姿を見て、レンはホッとした。
リィネはハーブティーを入れ直し、テラスのテーブルで待つレンにカップを手渡した。
そして、リィネもテーブルにつき、二人でゆっくりと穏やかな時間を過ごす。
森の奥から、ガサッ、ガサッと音が聞こえ、だんだんと近づいてくる。
レンは植物の伝言で少し前から気づいていた。
そして、それは頭上の大樹の枝へと辿り着いた。
「……ニャ?朝からイチャイチャしてるニャ。まったく妬けるのニャ」
シャノアであった。
「おかえり、シャノア。十日ぶりだね。外の様子はどうだった?」
大樹を見上げるレン。
「ただいまニャ。樹海から人間の街までの偵察任務は無事に完了したのニャ。……報告の前にちょっといいかニャ?」
シャノアは木の枝からピョンとレンの隣に降りると、座っているレンを抱きしめ、その胸元に自らの首筋をスリスリと擦つける。
「レン様!もう我慢の限界ニャ!やっぱりこの匂いが一番落ち着くニャ!」
「ま、マズイ……」
その時、温かったテラスが一瞬で絶対零度まで冷え込んだ。
リィネから異常なまでの殺気が放たれる。
「何度言えばわかるのですか。この泥棒猫……」
リィネは、疾風の茨弓に矢を番え、ギリギリと引き絞る。
「ニャ!?ちょっとぐらいいいニャ!少しは大目にみるニャ!この意地悪エルフ!」
「だめだめ!シャノア!リィネさんを挑発しないでっ!」
遠くから鳥のさえずりが聞こえる。
なんとか場を落ち着かせ、改めて報告を聞く。
シャノアも席につき、ハーブティーを口に含んだ。
「……って、そうニャ!外の世界で面白いことになっているのニャ!」
「ん?何があったの……?」
レンは悠長にハーブティーをすすりながら、シャノアの方に顔を向ける。
「あちこちで、レン様の噂が立っているニャ!」
「……え?」
レンは首を傾げた。
噂になるようなことなど何もしていないはずだ。
ここでずっと引きこもっているだけなのに。
さては以前招き入れた人間が約束を破ったのか。
いや、それともリィネさんを襲ったやつらか……。
「レン様、人間の街や亜人たちの間で、こう呼ばれてるニャ。――『森の奥には、万物を操る神のごとき緑の聖者がいる』って!」
ブフッ!!
レンは、口に含んだハーブティーを思わず噴き出した。
「それは正にレン様のことで間違いありませんわね。ようやく下々の者たちにもレン様の偉大さが伝わり始めたということなのですね」
リィネは噂の内容を微塵も疑わず、むしろ深く頷き、同調している。
「ちょ、ちょっと待ってよ!神のごときって、いくらなんでも大袈裟でしょ!」
「でも、嘘じゃないニャ!なんでも『瀕死の重傷を一瞬で治した』だの、『獰猛な魔獣を手なずけている』だの、一部で噂になってるのニャ!」
確かに無くもない。
火のない所に煙は立たず、というが……。
「ああ……そういうことか……」
レンは腕を組み、顎を上げて空を見上げる。
それであれば確かに心当たりはあった。
傷ついた小動物たちに薬草を与えてあげ、テラスの隅に寝床を作り、一緒に生活している。そこで遊んでいるゴブリンの子供たちも森で困っているところを保護し、食料を分け与え、今は同じ敷地で一緒に生活している。
元気いっぱい遊んでいるクロに至っては、黒枯れに汚染された狼であった。
「困っている人たちをただ助けただけなのに……噂になるんだな……」
かと言って、レンは嫌な気はしていなかった。
特に後悔しているわけではないし、聖者として噂されているなら決して悪評ではないのだ。
「当然の事です」
リィネが誇らしげに胸を張った。
「レン様の御力は、神にも等しい奇跡そのもの。まして慈悲の深さはどんな神々にも類をみない程です。この素晴らしさが世界中に轟かないはずがありません!」
「リィネさん、そう言ってくれるのは嬉しいけど、あんまり噂が広まっても良くないんだよ」
そう、先日から黒枯れに汚染された魔物が、実際に襲撃にやってきているのだ。
「変に誇張された噂が広まると、助けを求める人とか、僕の力を利用しようとする人がいっぱい来ちゃうかもしれない」
レンは前世の営業マン時代の頃を思い出していた。
新規事業の立ち上げの際、どこからか情報が漏れ、噂となり、様々な業者からひっきりなしに売り込みが来た事があった。
「ああ……困ったなぁ……」
ハァッとため息をつき、目を閉じて呟くレン。
「レン様!このリィネにお任せ下さい!噂をもっともっと広め、レン様の御前に全ての人間が跪くようにしてみせます!」
「いやいや!その方向性は違くない!?完全に神様じゃないか!」
レンは両手を前に出して大きく振る。
「でも、もう遅いニャ。この噂、とっくに人間の国のお偉いさんや、ヤバい奴らの耳にも届いちゃってるニャ」
「ええっ……!」
レンは絶句し、それ以上は何も言えなかった。
平和で誰にも邪魔されないはずの『隠居生活』に、人間社会という最も恐ろしい『リスク』が、牙を剥き始めた瞬間だった。
* * *
視点は変わり、自由交易都市「ヴェルゼル」。
自由な商売ができる、欲望の都市。
樹海の南部に位置し、三カ国の国境が交わる「中央平原」の真ん中に位置していた。
とある大きな屋敷の一室。
豪華なシャンデリアがぶら下がり、高価な壺や絵画などがギラギラと光を反射している。
「ふむ、今回も大儲けだったな。これだから商売はやめられんわい。ぶわはっはっ!」
ぶくぶくに肥え太った大きな体をふかふかのソファに沈め、商売の成功に高笑いをしている男が一人。
彼の名はバルトロ。
彼はこの自由交易都市で一番の豪商。
各人間諸国の軍部とも深い関係を築いており、その兵站をも裏で取り仕切っている実力者である。
儲けるためならどんな汚い仕事でも引き受ける、拝金主義を象徴するような男であった。
「さて、次はどの案件に手をつけようかな……」
テーブルに摘まれた書類を一枚ずつ拾い上げ、大きな宝石が嵌められた指で目を通す。
その時、コンコンと部屋をノックする音が聞こえた。
「……入れ」
「失礼します……旦那様。例の樹海の件で、報告が上がっております」
小ぎれいな洋服に身を包んだ清潔感のある男が一人、ドアを開けて入り、バルトロの前で深々と頭を下げた。
「確か最近噂になっている『緑の聖者』の件か?本当にそんなものがいるとは思えんがな」
バルトロはテーブルに書類を置き、ふんぞり返ってジロリと男をねめつける。
「はい、私も初めはそのように思っておりましたが……どうやら、本物のようです」
「まさか、そんなはずはないだろう。どんな怪我でも瞬く間に治すだの……。ありえん……」
葉巻に火をつけ、煙をくゆらすバルトロ。
部屋の空気はピンと張りつめている。
「し、しかし、密偵からの報告では、その聖者とやらが住む森の奥深くには、清浄な水が次から次へと湧く泉があるとか……」
「ふん、それは聖者の力ではなく、泉のそばに聖者が住んでいるというだけであろう。ただ……清浄な水か……」
バルトロはニヤリと笑った。
昨今の人間の都市周辺においては、技術の進歩による工業化の推進により、深刻な水質汚染が進行していた。
そのままでも飲める程の澄んだ水は、大きな価値を持つようになりつつある。
男は言葉を続けた。
「更に……その聖者は『魔法』を使っており、種を土に蒔いた瞬間、すぐに成長し真っ赤な果実を実らせていたそうです」
「なに?それは……本当なのだろうな?虚偽の報告だったらただでは済まされないぞ……」
バルトロの葉巻を持つ手がピタリと止まり、目を細めて男を睨みつけた。
「確かに、噂の内容と密偵の報告では差がありますが、その聖者とやら、何かしら特殊な力を持っている事には違いありません」
「無限に湧き出る清浄な水」を持ち、「瞬時に実る魔法を使える」存在。
それはバルトロの興味を強く引き付けた。
「ぶわはっはっ!それが間違いなければ、世界を支配できる存在じゃないか!聖者どころか神にもなれるぞ!」
バルトロは歓喜に震え、ソファから立ち上がる。
「その『緑の聖者』……ほしいな……」
バルトロの目の奥がギラリと輝いた。
水と食料の生産を独占し、各国に売りつければ、いくらでも儲けることができる。
それも魔法の力が使えればリソースには困らない。
バルトロには『緑の聖者』が無限に金を生み出す存在に映っていた。
「おい!」
バルトロは男に向かって指をさし、欲望に濁った目を向ける。
「『隠密部隊』を出動させろ!その『緑の聖者』とやらを捕獲してくるんだ!報酬はいくらでも弾んでやる!」
「はっ、承知しました。……万が一抵抗してきた場合、死体を持ち帰るのでもよろしいでしょうか?」
バルトロは男に向かって大声で怒鳴りつけた。
「生け捕りに決まっているだろ!……絶対に殺すな。魔法さえ使えれば、どうなっても構わんがな……ぶわはっはっ!」
バルトロの狂気に満ちた笑い声が、部屋に響き渡る。
人間の限りない強欲と、腐敗した社会の欲望。
それらが今、泥沼のような悪意となって、平穏な隠居生活を望むレンのもとへ、ヒタヒタと忍び寄ろうとしていた。




