第2話:家探し
佐藤廉也――今はレンと呼ばれる少年は、森の中で椅子に座っていた。
聞こえてくる音は風が葉を揺らす音、鳥の鳴き声、それと静寂。
匂いは濃い緑の香りと湿っぽい土の香りが鼻をなでる。
何にも追いかけられていない、時間も、顧客も、義務も、責任も。
今までは、何かに駆り立てられるように生きてきたが、そんなものはどこにもない。
そんなことに気が付いた瞬間の事であった。
「……あ、あぁ…………っ」
涙が目からこぼれるのを抑えきることができなかった。
ようやく解放されたのだ。誰かのために自分を犠牲にして生きることから。
「いいんだ……。もう、自分の好きなようにしていいんだ……」
もう顧客、上司、部下、家族、誰かの顔色を伺わなくてもいい。
自分の為に時間を使い、自分がやりたいことをやっていい。
我慢することは何もなかった。
寂しくないといえば嘘にはなる。しかし、それ以上に解放感が勝っていたのだ。
彼は前世での人生を振り返り、ただゆっくりと、涙で何かを流すように泣き続けた。
* * *
ひとしきり涙を流した後、ふぅと息を吐いた。
レンは落ち着いて自分の体に意識を向けた。
肉体は若返っている。
頭痛も、腰痛もない、エネルギーに満ち溢れ、全力で走る事もできそうだ。
視力も回復している、いや、これは視力が戻ったのではなく、悪くないのか。
眼鏡やコンタクトレンズの必要はないな。
やはり気になるのは右手の甲の紋章であった。
これのお陰なのか、今なら何でもできるという万能感を感じる。
「よろしくな」
そう呟くと、紋章が淡く光った。
周囲を見回すと、見えるのは土、落ち葉、根、木の幹、枝、葉、空、だけ。
ひんやりとした森の空気が頬にあいさつをする。
そういえば、空気が冷たいのに寒くないな。
レンは自分の服装を見てみる。
その体に纏っているのは、見覚えのない奇妙な「衣装」だった。
アイボリーのインナーの上に気品のあるダークグリーンのロングコート。
ライトブラウンのズボンは動きやすく、かつ頑丈だ。
そして腰には、開拓者の万能剪定鋏を収めるためのベルトが巻かれている。
シンプルな装いなのはいいが、何というか、子供のころに、お母さんが買ってきた服を着させられているような、違和感があった。サイズや生地が自分にフィットしていないのである。
「―――やってみよう」
彼は魔力を服に注ぎ込んでみた。
すると、コートやズボンの繊維が調整され、より軽く、伸縮性のある服へと変化した。
「やっぱり思った通りだ」
自分の魔力を再確認するように両手を見つめる。
前世の彼は仕事といえばスーツであった。
ネクタイをしめることでビジネスマンとしてのスイッチをオンにしていたのだ。
しかし、今はもうそのスーツを着る必要はどこにもない。
この服は、自分のために自分で好きにできる、「自分自身として生きる」ための、自由の象徴だった。
* * *
気が付くと、腹のあたりから空腹感が襲ってきていた。
「お腹が空いたな―――森の理」
右手の甲の紋章が淡く光る。
レンは迷う事なくその場にしゃがみ、地面に手をつけた。
すると、地面の中から一本の茎が伸び、あっというまに大きな木に成長した。その枝からこぶし程度の大きさの黄色い実がいくつもぶら下がっている。
その実をもぎ取って恐る恐るかじりついてみた。
桃の芳醇さとマンゴーの濃厚な甘みを合わせたような、驚くべき果汁が口いっぱいに広がる。
「……!美味すぎる……」
黄色い実を見つめた。
これを大量に収穫して市場に持っていけば、どれくらいの売り上げになるのだろうか。
しかし、今はもうそんなことを考える必要はないと、自嘲気味に頭を振った。
次に、剪定鋏を取り出し、近くの大樹に巻き付いている蔓に向ける。
パチン。
蔓を剪定すると、そこからキラキラと澄んだ水が溢れ出した。
地中深くから吸い上げ、幾重もの繊維層で濾過した天然の浄水だ。
手で受けて飲むと、体の隅々までいきわたるのがわかった。
* * *
「ふう……次は寝る場所を何とかしないとだな」
まずは生活の基盤となる「家」をどうするか、という問題を解決する必要があった。
大きな選択肢は二つ。
一つは人がいる村や町を探して、そこで仕事を見つけて住む。
もう一つは、このまま森の中で一人で住む。
レンは腕を組み、椅子に座って考えていた。
人がいる場所を探すにしても、あまりにも情報が無さすぎる。ここがどれくらいの大きさの森で、その森のどこら辺なのかもまったくわからない。もしかしたら人間がいない世界に転生してしまった可能性もある。
それに、仮に町を見つけてそこに住むとしたら、結局は前世と同じような生き方になり、また過労死してしまうんじゃないか。そんな生き方はもういやだ。
そこまで考えると、レンは決意を固め、うんと頷いた。
「よし、森の中で暮らそう」
誰もいない所で一人、自分のペースで何にも束縛されず、自由に生きる事ができる。
この森の理の力があればそれが可能なんだ。
対人関係で疲れ切っていた彼は自然にそう考えていた。
寝床にできるような良い場所はないかと、数時間ほど森の中をさまよい歩いた。
最悪の場合は一から魔法で家を作ってしまうという事まで考えていた。植物を自在に操ることができる彼にとって、木材を組み上げることは造作もない事であったのだ。
しかし、彼はその場所に辿り着いた。
「これは……」
レンは下から上へと見上げる。
そこには、周囲の巨木すら圧倒するほどの、天を突く超巨木が立っていた。
自然の成長の過程でできたのであろう、巨大な「空洞」がぽっかりと口を開けている。
そして、その前は広大な空地となっており、庭と呼ぶのに相応しい。
「庭付き一戸建ての優良物件じゃないか……決まりだな」
驚くほど即決であった。
商談において必要以上に迷う事は商機を逸することもある。これだと決めた時のレンの判断は早かった。
空洞の中へ一歩足を踏み入れると、そこには広々とした、静謐な空間が広がっていた。少しカビ臭いような、しかし落ち着くような独特な木の香りが満ちている。
直径三十メートルはあろうかという巨木の中、その内側を見渡すレン。
そこは、理不尽な世界から完全に切り離された、彼だけの秘密基地だった。
「うん……。ここなら何も問題ないだろう」
彼は床に座り、仰向けに寝転んだ。
ここをどういう風な家にするかと考えると、ワクワクがとまらない。
まだ家具もない、ガランとした木の洞。
だが、彼にとってはどんな高級住宅よりも価値があった。
――そのとき、不意にレンの右手の『紋章』が鋭い疼きを放った。
「ん?……なんだ?……誰かが、困ってる……?」
何となく、洞から外、南の方角に顔を向けた。
ただの手の疼きではあるものの、自分ではない誰かの意志が宿っているような気持ち悪さを感じる。
先ほどまで美しく雄大に見えていた森が、今はまるで、底知れぬ真っ暗な口を開けて獲物を待ち構えているように見えた。




