第1話:過労死からの有給休暇
自分以外に誰もいない自宅のリビング。会社から持ち帰ったノートパソコンの液晶が冷たく光を放っている。
時刻は深夜二時。
中堅メーカーの営業課長、佐藤廉也は、自宅で仕事の続きと格闘していた。
もう無理だ。
何より眠いし、疲れて体が重い。
今日はここまでにしよう。
なんとか資料は形だけは作り終えた。チェックする余裕も作りこむ気力も体力ももうそこには残されていない。
ただ、もしかすると顧客に威圧的に怒鳴られるのではないかと想像し、胸が苦しくなる。
「……仕方がない、やれるだけの事はやったさ」
モニターに映るシャットダウンのマークをクリックした。
ここ数ヶ月、まともな休日など一日も取っていない。
家族のため、会社のため、自分が頑張れば皆が幸せになるんだ。
自己犠牲―――それが彼の誇りであり、世の中の理不尽から身を護る盾だった。
家に帰っても家族の団らんとは無縁であった。
持ち帰った仕事を体力の続く限りこなし、シャワーを浴びてベッドに入る、そして起きたらまた会社へと行く、その繰り返し。
家族の為を想い、人一倍の仕事量をこなしている。なのに、その家族との時間は減り、心も体もすり減っていくようだった。
廉也は足の重さを感じながら、よっこいしょと立ち上がった。
リビングにある水槽を覗いてみる。
夜のためか魚たちは寝ており、ポンプの稼働音だけが静かに唸りを上げていた。
次に、水の入ったコップを持ってベランダへと出る。
夜風がまどろんだ脳を覚ますように頬を撫でた。
栽培しているトマトのプランターに水をやる。
暗い中、よく見ると数枚、病気なのか色が黒くなっている葉があった。
廉也は部屋から小さな園芸用の剪定鋏を持ち出し、その枯れた部分に刃を当て、丁寧に切り落とした。
『パチン、パチン』
深夜のベランダに、小気味良い裁断音が響いた。
「……よし。これでまた、元気になるぞ」
満足げにトマトの株全体を見つめる。
――その瞬間、視界がぐにゃりと大きく歪んだ。
ドクンッ!!
激しい動悸。
胸全体に経験したことのない激しい痛みが広がる。
「……っ、あ……」
声を出そうとしたが、出なかった。
そのままベランダの床に倒れ込む。
助けを求めようとしたが、体から既に自由が奪われていた。
急速に薄れゆく意識の中で、廉也は思った。
(……ああ。やっと、堂々と休むことができる……)
それが、四十五年続いた「佐藤廉也」という男の、人生の最後に頭に浮かんだことであった。
* * *
「ん……ここは?……??」
気が付けば、真っ白な空間にいた。
眩しいようで眩しくはない、強いて言うならば何もない空間である。
胸の痛みはない。
そして、それは唐突に目の前に現れた。
天を突き、宇宙までも届きそうなほどに巨大な、輝く樹木。
東京にあるどのビルよりも大きく、高い。いや、ビルと比較する方が馬鹿馬鹿しくなるサイズ感なのだが、他に比べるものも思い当たらなかった。
そして、数えきれないほどの枝から、一枚一枚の葉がエメラルドの光の粒子を降らせている。
「なんだ、これ……木、なのか?」
突然の出来事に、思考が追いつかない。
『――お疲れ様。よく頑張りましたね』
頭の中に、優しく、それでいて厳かな響きが直接届いた。
「……?どういうことだ?」
声の発信元はどこだろうと、キョロキョロと周囲を見渡す。しかし、真っ白な空間と巨大な樹木以外は何もない。
これは夢の中で、夢の世界にいると自覚するあのパターンなのか、と廉也は思いを巡らせる。
『私は、あなたの目の前にいます。あなたには巨大な樹木に映っているでしょう。そして、私はこの樹海の理を紡ぐ者。佐藤廉也……あなたの魂は、あまりに長く、自分を削りすぎてしまいました』
「え……?……あ……はい」
話の内容がよくわからず、力のない返事をする。
やっぱり夢で間違いないだろうと、結論を出し始めていた。
『あなたは命を終えました。ですが、あなたの植物を愛でる清らかな心、そして誰かのために尽くし続けた献身を、私は惜しいと感じました。……どうか、私を助けてほしいのです。この樹海を、あなたの力で』
「命を終えた?ま、待ってください。私は死んだのですか?」
廉也は胸がざわつき、思わず自分の手を見る。これは夢であり、決して死後の世界ではないと思いたかった。
『あなたにとっては残念なことかもしれませんが、前の世界でのあなたはもういません』
「そんな……ん?前の世界での、あなたは?」
メモもとれず、内容の整理ができないまま、話は続いていく。
『そうです、あなたに新しい肉体と命を授けました。名はレン。今度は、好きなように生きなさい。納期も、数字も、誰かへの謝罪も……もう必要ありません。これは、あなたへの長い有給休暇なのですから』
廉也は困惑した。そんな漫画やアニメのような事があるものかと。
ただ、長い有給休暇という響きに魂が反応する。
その時、樹木から降り落ちる光の粒子が、一瞬だけ、髪の長い少女の形に見えた。
『この世界には、理不尽な嵐の中で泥に塗れ、今にも散ろうとしている”孤独な花”があります。あなたのその優しい手で、どうか救ってあげてください』
「……花?」
『あなたがこの樹海で生きられるよう、力を与えます。レン、あなたであれば決して私利私欲のためにその力を使う事はないでしょう。』
どんどん話が進んでいく。
「不勉強で申し訳ありません。大変恐縮なのですが、もう一度ご説明をお願いできますでしょうか?」
夢だとは思いつつも、あまりにリアルな感覚もある。不安を抑えきれず確認をしようとした。
『まずは傷ついた心と体を癒やしなさい。そして、もう一度だけお願いします。どうか、私たちを、樹海を助けてください……』
有無を言わさぬ温かな光の奔流が、廉也の全身を包み込む。
「え?ちょっと待ってください。まだよく理解できていないのですが――」
声は光の中に吸い込まれ、彼の意識は再び、深く穏やかな闇へと落ちていった。
* * *
深い眠りから意識が少しずつ戻ってくる。
さて、今日も頑張らないと。昨日の資料を一回見直さなきゃ。
当たり前のように今日のスケジュールを考え始めながら、目を開ける。
「……え?」
絶句した。
そこは見渡す限り一面の森の中であったのだ。
大人の背丈ほどもある巨大なシダ、極彩色の毒々しい花。
頭の上を見上げると大きな樹木から無数の枝が入り組み、葉という葉の隙間からわずかな木漏れ日だけを地上に落としている。
「も……し……かして……」
先ほどの出来事を思い出し、疑いながらも自分の手のひらを見てみる。
四十五年の人生で刻まれたはずの皺、細かなシミも、すべてが綺麗に消えている。
代わりに、白く瑞々しい「少年の手」があった。
そして、右手の甲に見慣れない紋章が刻まれていた。
「何だ……これ?」
不思議に思いながらも、次に周囲を確認し、近くの大きな黒い葉に溜まった水たまりをおそるおそる覗き込む。
そこに映っていたのは、整った顔立ちと艶やかな黒髪を持つ、高校生程度の見知らぬ少年だった。
「……マジか……別の人間になってる」
震える手で自分の頬を叩く。痛い。
あれは夢ではなかったのだ。
そして、絶望に襲われた。
「俺……死んだのか……」
あまりに想定外の出来事で、何も考えることができなかった。
少しの間、呆然と立ち尽くすレン。
やがて、体の中に今までにない感覚があることに気付いた。
彼の本能に、新しい第六感ともいえるような何かが存在している。
何となくできるような気がして、試しに、目の前の巨木にそっと手を触れてみる。
「森の理」
自然と言葉が口をついて出てくる。
その瞬間、右手の紋章が淡く光り、脳内に膨大な情報が流れ込んだ。
この巨木の大きさ、根の深さ、内部の構造、今どれだけの水分を保持しているか。
そういった物理的な情報だけではなかった。
『自分の力でこの巨木がどう操れるか』までをも感じ取っていた。
「そういうことか……」
巨木から手を離し、自分の手を見つめた。
力を与えると言っていた言葉を思い出し、納得する。
その力は、呼吸をするのと同じくらい当たり前の「本能」だった。
この森の中であれば、植物に関することであれば何でもできる、それを誰に教えられたわけでもなく、確信した。
* * *
事態を飲み込み、あの白い空間で言われたことを思い出す。
花、力、助けてほしい、そんな言葉だけが出てくるが、意味がわからない。
ふと気が付くと、とてつもない「静寂」に包まれていた。
電話の着信音も、クレームのメールも、部下の言い訳も、車の走行音すらもしない。
聞こえるのは、風に揺れる葉の音と、遠くで鳴く得体の知れない生物の声だけ。
「……誰も、いない」
その事実に、レンの心に一抹のさみしさと、言いようのない解放感が広がった。
胸の奥に小さな疼きが走る。
家族たちはどうしているのだろうか。妻、娘。
仕事に追われて家族との時間を犠牲にしてしまったけれど、愛していたことだけは事実だった。
「……ありがとう。そして、ごめん……」
レンは胸から想いが込み上げ、涙を堪えながら震える声で口にした。
とても受け入れがたい事実ではあったが、言葉にすることで少しでも楽になりたかった。
ふと、腰に重みを感じて手探りすると、革製のホルスターに一丁の美しい鋏が収まっていた。
引き抜いた瞬間、脳内に直接、情報の断片が流れ込んでくる。
「開拓者の万能剪定鋏……」
見た目には普通の剪定鋏だが、魔法使いの持つ杖のようであった。
先ほどの魔法と同様、初めから知っていたように自然に感じ取れる。
「……面白そうだな、この森の中なら何でもできる気がする」
レンは周囲をぐるりと見渡した。
前世で趣味の一つだったガーデニング。あのベランダのプランターとは比較にならない、無限の「緑」がここにはある。
「よし……まずは、安全の確保」だ。死んでまで納期に追われるのはごめんだからな」
彼は、目の前を塞いでいた太い蔓にその剪定鋏を添えた。
「――森の理」
再び右手の紋章が光を放つ。
パチン。
心地よい裁断音。
鉄のように硬そうな蔓が、紙細工のように容易く切り落とされた。
切り口から溢れ出した緑色の魔力が、レンのイメージ通りに地面を這い、周囲の草木を瞬時に編み上げ始めた。
数秒後。
そこには座り心地の良さそうな小さな「椅子」が完成していた。
「……ははっ、すごいな」
試しに座ってみる。完璧なフィット感だ。
レンはそのまま、背もたれに深く体を預けた。
四十五歳、佐藤廉也としての責任や重荷は、この深い森のどこにも落ちていない。
「……いいだろう。世界樹だか何だか知らないが、この有給休暇、ありがたく使わせてもらう」
食料は森の果実を育てればいい。飲み水も魔法で浄化すればいい。
人混みも、社交辞令も、目標数字もいらない。
「ここで、俺だけの理想の庭を造って、今度こそ静かに暮らしてやる」
レンの右手の甲にある『接ぎ木の紋章』が、彼の決意に応えるように淡く輝いた。
――不器用な元営業マンによる、有給休暇が、今始まった。
レンはまだ想像もしていなかった。
この先、一人のハイエルフの少女と共に世界を救う運命にあることを……
「そういえば、助けてほしいとか言ってたっけ……」
その瞬間、再び紋章が輝いた。




