第14話:勘違いの始まり
柔らかな朝の木漏れ日が、障子を通して室内へと挨拶に来ていた。
室内には、心を落ち着かせるハーブの香りが微かに漂っている。
その寝室のベッドの上で、リィネはゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
(……ここは……天界……?)
ぼやける視界の中で、リィネは最初にそう思った。
彼女は人間達に追われ、毒矢を射られ、痛みに耐え、意識が朦朧としながらも隠れていたところまでしか覚えていない。
確か、温かい魔力をすぐ近くに感じ、そこへたどり着けば何とかなると、そんな淡い期待に全てを賭けていたのだ。
しかし、現実は甘くなかった。人間達の追跡からは逃れられなかったのだと、そう思っていた。
にも関わらず、どういうわけか、何事もなかったかのように温かいベッドの上で寝ていた。
これが人間達の牢屋なのだろうか。
想像していた固い、冷たい床ではなく、今感じているのは圧倒的な温かさだった。
「あれ……え……?」
ふと、体がとても軽いことに気が付いた。
長時間の逃走で足は重く、全身に茨の傷で激痛が走り、毒のせいで視界が歪んでいるはずだった。
それが、全てなくなっている。
寝ている間に悪夢でもみていたのだろうか。
いや、そんなはずはない。
確かに覚えているし、ここは見知らぬ部屋である。
傷だらけで痛々しかった腕や足を見ると、傷の跡すらない。
乾いた泥や血の汚れも初めからなかったようだ。
多少の拭き残しはあるが、間違いなく洗い清められている。
ふと思い出し、おそるおそる右肩の背中に手をあてる。
―――何もない。
記憶の中ではそこに矢が刺さっており、想像を絶する激痛を放っていた。
どれだけ右肩を触ってみても、やはりそこには何もなかった。
視界を歪ませ、意識をさらっていった毒は一体どこへいったのだろうか。
視界はクリアだし、意識もはっきりとしている。
そして、澄み切った魔力が体の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
「どういうこと?……ここは一体?」
リィネは状況が把握できず、軽い混乱に陥っていた。
「あ、起きた?」
その時、部屋に一人の青年が入ってきて、リィネに声をかけた。
若々しく瑞々しい黒髪。
それでいて、深淵な森の奥底のような、ひどく静かで落ち着いた空気を纏った青年。
「ひっ……!」
リィネは反射的に身を強張らせ、シーツを強く握りしめた。
人間だ。また人間がいる。
やはり自分はあの人間達に連れ去られたのだと、瞬時にそう判断した。
「や……やめてください!それ以上近づいたら、攻撃します!」
ベッドの上で座ったまま後ずさり、リィネは青年を睨む。
そして、その小さな手を前に突き出して魔力を込めた。
彼女はまさに必死だった。
ここでやらなければ、一生奴隷として働かされるか、薬の実験台にされるか、はたまた見世物にされると、そう思っていたのだ。
次はどんな残酷な仕打ちが待っているのか。
激しい不信と恐怖が、彼女の全身を駆け巡る。
だが、青年の肩が目に見えて「ビクッ!」と大きく跳ねたのを見て、彼女の恐怖に困惑が混じった。
「……えっ?……いや、騙されませんよ。私をこんなところに誘拐してどうするつもりですか?」
リィネは青年の気弱な姿を見て、青年は怖がっている演技をしているのだと思った。
青年としては予想外の反応であった。
まさか敵意を向けられるとは思ってもいなかったのだ。
少女の行動が予想外であっただけでなく、敵意を向けられたことで緊張し、思考が回らなくなっていた。
「い、いや……別に……」
想定外の出来事に、歯切れの悪い返事を返してしまう青年。
まっすぐ睨んでくるリィネに、思わず目をそらしてしまった。
「別に……なんですか?やっぱり目的は私の体ですか?」
リィネは更に問い詰めた。
ここで油断してはならないと、青年に向けて魔力を込めた手に力が入る。
「いや……そんな……何もする気はないよ」
レンは思ったままに素直に答える。
両手を胸の前に出し、その手のひらを左右に振った。
「嘘をつかないでください。とてつもない魔力があなたから溢れてます。その、途方もない、まりょ……く……が……?」
リィネはそこで気が付いた。
ずっと追っていた、あの温かい魔力がすぐそこにあったのだ。
「あれ?あの……ええっと」
リィネはそこでようやく思い至った。
もしかして、この人が私を助け、介抱してくれたのではないか、と。
「ごめん。怖いかな。君の悪いようにするつもりはないんだけど」
そんなリィネを目の前に、自分が何か悪いことでもしてしまったのかと気を遣う。
どんな時でも丁寧に接するプロの営業マンの矜持を感じさせた。
「……あの……その……?」
今度はリィネがパニックに陥っていた。
リィネの中で人間はすべからく悪い生き物である、という概念が事態の理解を阻んでいる。人間は絶対悪のはずであった。
「確かに魔法は使えるけど、そんなに怯えるようなものじゃないよ。―――ほら」
レンは彼女を安心させようと、部屋の床に手を付き、小さく白い花を群生させた。
「……っ!!」
リィネはその力に驚き、言葉を失った。
このような魔法は見た事も聞いた事もない。
それを当たり前のようにやってのける。
彼女は青年を上から下まで見回した。
「自分でもすごいなと思うけど、力は使い方次第だよ。はい、プレゼント」
レンは今しがた発生させた花を一輪摘み、彼女に渡そうとした。
特に深く考えたわけではなかったが、彼は知らなかった。
この世界において、白い花を異性に贈るのは特別な意味を持つと言う事を。
「なっ!……わ、私にですか!?……やはり何か企んでいるのですか?」
レンの差し出した花を見た瞬間、リィネの顔が真っ赤に染まる。
明らかに動揺しているのが見て取れた。
「え?あ、花は好きじゃなかったかな?そんな、何も企んでなんかいないよ。……もう傷は痛くない?」
レンはリィネの態度に何か間違った事を察し、慌てて話題を変える。
緊張し、花を持つ手がわずかに震えていた。
「痛みどころか、傷自体がなくなっているようですし、なんなら魔力も溢れ、あなた一人を吹き飛ばすくらいは余裕ですよ。……もしかして、あなたが治療をしてくださったのですか?」
リィネは警戒をしつつ、先程からうすうすと感じていた疑問を投げかける。
「うん、あんまりにも酷い傷だったから……。ちゃんと回復できたみたいで良かった」
レンは心から安心した。
ほっと息を吐き、表情が緩む。
「あ……ありがとうございます。―――どうしてここまでしてくださるのですか?それに、あの人間達は……?」
リィネは手に込めた魔力を引っ込め、警戒を解いた。
目の前の青年は人間ではあるが、悪い存在ではないと感じ始めていた。
「そうだね、別に理由なんてないよ。目の前に困っている人がいたら手を差し伸べるのは当たり前だし、それに……『 助けて』ってお願いされたら……うん……断れないよ」
リィネは何も言い返せず、ただ口を少し開けたまま、確認するように青年の方を見ていた。
この青年は間違いなく自分が追っていた魔力の持ち主で、願いを聞き届け、助けに来てくれたのだ。
「あ、言うのが遅くなってごめん。あの卑劣な男達は魔法で檻に閉じ込めたよ。これを先に言うべきだったかな。不安にさせて本当にごめん」
リィネはようやく全てを理解した。
この青年があの人間達から自分を救い出してくれた、命の恩人であると。
……やっと会えた。
「あ……あ……ああ……」
リィネのエメラルドの瞳から、大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちた。
村では厄介者扱いされ、ついには村から追い出され、恐怖の中で人間達に追い回され、矢を射られ、傷だらけになり、意識が朦朧として、もう全てが終わったと思っていた。
ところが、そうではなかった。
自分に向けられた純粋なやさしさに、生まれて初めて感じる温かみに、自然と涙が止まらなかった。
「あ……そ、そんな、泣かないでよ」
レンは彼女を泣かせてしまったことに焦った。
こんな時にどう対処をするべきなのか、マニュアルを持ち合わせていなかったのだ。
なんとか場を取り繕おうと前世でもよく使っていた営業スマイルを見せる。
渾身の作り笑顔、愛想笑いであった。
だが、リィネの潤んだエメラルドの瞳には、単なる笑顔には映らなかった。
(なんて慈悲深い笑み。全てを受け入れ、静かに笑いかけてくださるなんて……。もしやこのお方はこの森の……)
一方でレンの焦りはついに頂点に達した。
「あ、あの……。名前を、聞いてもいいかな……?」
リィネは慌てて姿勢を正し、ベッドの上で深く首を垂れた。
「……私はハイエルフのリィネと申します。私を救い、清めてくださり……心より感謝申し上げます」
「僕は……レン、と言います。ただの……ここで静かに隠居生活をしている者ですよ」
レンは自分の事をどう説明してよいかわからなかった。
目を宙に泳がせながら、申し訳なさそうに身を縮める。
だが、リィネにとってその自己紹介は、ある疑念を希望へと塗り替えていた。
(これほどの魔力を持っているにも関わらず、『ただの隠居』だなんて。間違いない、伝説の『森の守護者』……!)
「リィネさん、気分はどう?本当にもう痛いところは、ない……?」
その質問は、レンとしては単なる気遣いでもあり、まだ治療が必要なところがあれば処置をしておきたいだけであった。
しかし、リィネにはそう聞こえてはいなかった。
自分の身を案じ、無償の愛を捧げてくれる森の守護者からの慈愛であった。
「……もったいないお言葉です。痛みはもう、貴方様の完璧な処置の前に全て消え去りました。このリィネ、身体から一切のけがれが無くなっています」
何か、盛大な勘違いをされている気がする。
レンは違和感を感じながらも話を続けた。
「……こんな何もない木の洞で申し訳ないね。ちゃんとしたベッドも、おもてなしの準備もできていなくて……」
それは、何てことのない、素直な準備不足への謝罪だった。
一方、リィネは雷に打たれたように目を丸くした。
(何もない、などと……! この神聖な祭壇を、あえて『何もない』と表現されるなんて、なんという無欲なる精神……!)
「め、めっそうもございません! このような静謐で神聖なお部屋で休ませていただき、感謝の気持ちに堪えません。―――レン様はこちらで何をやっていらっしゃるのですか?」
「え?ああ……うん。ただ……なんていうか色々あって、前にいたところからここに移って、休んでいるだけだよ」
レンの説明はどうしても歯切れが悪かった。
そもそも、過労で死んで別の世界から転生したと言っても信じてはもらえないだろうし、かといって適切な言葉も浮かばなかった。
ただそれだけだった。
だが、リィネの『信仰フィルター』はそれを神託へと昇華した。
「……なるほど。愚かな人間達に愛想を尽かし、この森で隠居生活をしながら静かに見守られているのですね」
レンは違和感を感じ、営業スマイルが引きつり始めていた。
なんか……うまく伝わってない気がする……。
けどまあ……なんとか誤解は解けたようだ。
ホッと安堵した笑みは、リィネの目には、全てを受け入れる笑みとして解釈された。
不器用な元営業マン。
彼を「森の守護者」だと盲信し始めたハイエルフの少女。
二人の、あまりにも噛み合わない、しかし奇跡的なまでに調和した共同生活が、今ここに静かに幕を開けたのである。




