託球
「玉木、来い」
さおりはミットを軽く叩いた。
七対五。
十回裏。
ノーアウト満塁。
打席には川口智也。
怪我を乗り越え、再びこの舞台に立った星承高校の強打者が、左打席で静かにバットを構えている。
玉木が振りかぶった。
初球――。
外角へのカットボール。
川口のバットが鋭く出た。
――チッ!
ボールが後方へ弾ける。
「ファウル!」
神谷の声が球場に響いた。
「初球は外角への得意のカットボール! 川口君、ファウルチップ! まず玉木君がファーストストライクを取りました!」
桑原がすぐに言葉を重ねた。
「しかし、さすが川口君です。初球から振ってきました。しかもタイミングは合っています」
ノーアウト満塁。
スクイズなら本塁はフォースプレーになる。
しかも川口は左の強打者。
「セオリーで考えれば、ここでスクイズは考えにくいでしょう。星承高校は打たせてくるはずです。まさに真っ向勝負です」
さおりは川口を見つめた。
――合っている。
初球から、タイミングが合っている。
だが、さおりはそれを逆にチャンスだと考えた。
この場面。
川口は内野ゴロを打ちたくない。
最低でも外野フライ。
できれば長打。
そして、今のスイングを見る限り――。
――カットボールか、ストレート。
おそらく、それを待っている。
カウントを悪くすれば、満塁だけにこちらの選択肢も狭くなる。
ならば――。
ここだ。
玉木。
二球目で、賭ける。
さおりがサインを出した。
「さあ、サインに頷いた玉木君。第二球――投げた!」
緩い。
「カーブだ!」
川口は動かなかった。
岡野球審の右手が上がった。
「ストライク!」
「決まったあ! 島大松江高校バッテリー、わずか二球で強打者・川口君を追い込みました!」
さおりはマスクの奥で玉木を見る。
――いいぞ、玉木。
隆ちゃんの言葉で覚醒したのか。
目が違う。
鋭くなってる。
ふとセンターを見る。
こなつが大きく手を振っていた。
何を言っているのかまでは分からない。
たぶん――。
『打球、飛んで来い』
そんなところだろう。
――ほんと、うちのメンバーはすごいわ。
さおりは小さく笑った。
だが、すぐ川口へ視線を戻した。
追い込んだ。
ここからだ。
さおりがサインを出す。
――カットボール?
玉木が首を横に振った。
――じゃあ、スライダー?
また横に振る。
さおりの目が細くなった。
――何を投げたいんだ、玉木。
一瞬考え、もう一つのサインを出した。
――まさか、これ?
玉木が頷いた。
「追い込みましたからね。ここは一球見せ球を使って、その次で勝負するでしょう」
桑原が予想する。
「おそらくカットボールでしょう。球を動かして、川口君の目線をずらしてくると思います」
「一球一球、目が離せません!」
その時だった。
玉木が突然、一塁へ振り向いた。
牽制球。
「おっと! ここで一塁へ牽制!」
岡本が素早くベースへ戻る。
「なるほど」
桑原が頷いた。
「一塁走者をきちんと警戒しているぞ、と星承高校に示しました。何せ一塁は俊足の岡本君ですからね」
さおりは玉木を見た。
――サインなしで牽制した。
やるじゃない。
そして、その意味に気づいた。
川口に考える時間を与えた。
『何か仕掛けてくるのか?』
そう考えさせるために。
再び玉木がセットポジションに入った。
川口がバットを構える。
「さあ第三球――」
玉木の右腕が振られた。
「投げた!」
真ん中。
「ストレート、ど真ん中だ!」
川口が振った。
完璧なタイミングだった。
――来た!
さおりの目が見開く。
だが――。
ボールは川口のバットの直前で沈んだ。
空を切る。
「いや、ストレートじゃありません!」
桑原が叫んだ。
「スプリットです!」
岡野球審の右腕が高々と上がった。
「ストライク!」
三振。
球場が爆発した。
「空振り三振――!」
玉木が思わず右拳を握る。
さおりはすぐに手を出した。
――まだだ。
玉木も気づき、拳を下ろした。
ワンアウト満塁。
まだ、何も終わっていない。
だが、さおりの背中には冷たいものが流れていた。
もし、今の球がストレートだったら。
おそらく――。
持っていかれていた。
そう思わせるほどのスイングだった。
三振を奪った喜びよりも、川口という打者の凄さに鳥肌が立つ。
そして――。
次も強打者。
水木蓮司。
さおりは立ち上がった。
「ワンアウト!」
大きな声で仲間を鼓舞する。
その時。
「……すまない」
川口の声が聞こえた。
水木に向かっていた。
「大丈夫だ、川口」
水木は静かに答えた。
「お前が怪我をしてもチームに尽くしてきたことを、みんな知っている。誰もお前を責めないよ」
川口が顔を上げる。
水木は笑った。
「要は、俺が打てばいいだけだ」
そしてバットを握った。
「俺に任せろ。お前の悔しさを打球に乗せるから」
少し間を置いて、
「その分、打球は倍伸びるぞ」
川口が笑った。
さおりは黙って二人を見ていた。
――最高の言葉だな。
敵なのに。
いや。
敵だからこそ――。
改めて敬意を感じた。
水木が左打席へ入る。
さおりは珍しく、自分から声をかけた。
「水木君」
「ん?」
「いい勝負しようね」
水木が笑った。
「ああ」
そして――。
「竹内さん。初球、狙うよ」
「……え?」
さおりは一瞬、戸惑った。
なぜ言う?
そんなことを。
本当なのか。
それとも――。
考えさせるためなのか。
ワンアウト満塁。
できればボールから入りたくない。
少しでも有利なカウントを作りたい。
初球はカットボール。
そう決めていた。
なのに――。
水木の一言で、迷いが生まれた。
――多分、本気だ。
この男は正々堂々と勝負してくる。
ストレート。
カットボール。
当然、狙っている。
だが逆に、スライダーやカーブを待っている可能性だってある。
――サインを出すのが怖い。
さおり自身が驚いた。
こんなことは初めてだった。
――玉木。
外角ストレート。
ボール球で様子を見るぞ。
そう決めかけた時だった。
さおりはベンチを見た。
みんなが立っていた。
そして――。
手をつないでいた。
その列の中に、一着のユニホームがあった。
竹下大樹。
大和の兄。
美佐子が片方の袖から腕を入れていた。
ひまわりが、もう片方の袖から腕を入れていた。
ユニホームの中で――。
二人の手が、固く結ばれていた。
まるで。
大樹も一緒に、みんなと手をつないでいるようだった。
さおりは前を向いた。
――違う。
今の私は勝負を避けた。
逃げた。
キャッチャーボックスの地面を見る。
そこには、まだ残っていた。
無限
さおりの目が変わった。
――水木君。
初球勝負。
受けて立つよ。
玉木を見る。
――行くぞ。
初球で打ち取る。
お前の一番得意な球を投げてこい。
内角。
カットボール。
勝負だ。
サインを出した。
玉木が頷く。
「竹内先輩」
玉木が小さく言った。
「絶対に打ち取ってみせます」
さおりがミットを構える。
「最高の球を――あなたのミット目掛けて、思いっきり投げます」
「来い」
水木は動かない。
「サインが決まったようです」
神谷の声が低くなる。
「バッターは星承高校の強打者、水木君。大きな体で左打席に立ち、玉木君の投球を待ちます」
「水木君、ものすごい集中力です」
桑原も息を潜める。
「構えが動きません。玉木君だけを見ています」
玉木が足を上げた。
「玉木君――」
右腕が振られる。
「水木君への初球、投げた!」
――ナイスボール。
さおりがそう思った、その瞬間だった。
動かなかったはずの水木が――。
動いた。
ベース寄りに構えていた身体が、わずかに移動する。
さおりの目が見開いた。
――しまった。
狙われていた。
水木のバットが一閃した。
――カァン!
快音。
白球が右中間へ一直線に伸びていく。
「打ったあああ!」
神谷が立ち上がった。
「水木君の打球! 右中間へ伸びていく!」
ライトの大和。
センターのこなつ。
二人が同時に走り出した。
「竹下君! 石川さん! 二人が懸命に追う! 抜ければ長打です! 同点――いや、逆転まである!」
こなつが白球を追う。
――すげえ。
水木。
打球が――。
伸びてくる!
「もっと速く!」
自分の足に叫ぶ。
「もっと速く走れ! 私の足!」
大和も走る。
ただ一つ。
白球だけを見て。
――絶対に捕る。
俺の後ろには行かせない。
「竹下君、石川さん、まだ追う!」
星承高校の走者たちも、塁付近で打球の行方を見つめている。
大和がさらに加速した。
そして――。
「竹下君!」
神谷が絶叫した。
「追いついたあああ!」
その瞬間。
葬儀場。
テレビの前に集まった親族たちが、一斉に手を合わせた。
画面の中。
大和がグラブを伸ばす。
――兄ちゃん。
追いついた。
捕れる。
捕球でき――。
大和の表情が変わった。
「えっ……」
白球は、さらに伸びた。
大和が跳んだ。
右手をいっぱいに伸ばす。
兄から託されたグラブ。
その先端に――。
白球が当たった。
すべてが止まったように感じた。
だが。
白球はグラブの中には収まらなかった。
大きく跳ね上がった。
そして――。
大和の後方へ。
「兄ちゃん……」
大和が着地する。
膝から崩れた。
「兄ちゃん……ごめん」
「抜けたああああ!」
神谷の絶叫。
球場が爆発する。
だが――。
大和には何も聞こえなかった。
遠くに見える星承高校ベンチ。
人が動いている。
走者が走っている。
逆転だ。
――終わった。
心が、無になった。
大和の目に、三塁走者が本塁へ向かう姿が映った。
そして二塁走者。
一塁走者――。
……。
大和の目が止まった。
――走って……ない?
二人は本塁へ向かっていない。
逆に――。
ベースへ戻っている。
タッチアップ。
その時。
大和の後ろから声がした。
「大和!」
聞き慣れた声。
振り返る。
こなつだった。
芝生の上に倒れ込んでいる。
そのグラブの中に――。
白球があった。
大和のグラブを弾き、大きく跳ね上がった打球。
そのさらに後ろまで走り込んだこなつが――。
スライディングしながら地面すれすれで捕っていた。
白球は、落ちていなかった。
「アウト!」
右中間にアウトの判定が示される。
「捕っている! 石川さん捕っています! 竹下君のグラブから弾かれた打球を、その後方から石川さんがスライディングキャッチ!」
大和が呆然とこなつを見る。
こなつが立ち上がった。
「間に合ったよ、大和!」
三塁走者がタッチアップ。
二塁走者もスタートを切った。
こなつが叫ぶ。
「ランナー、タッチアップしてる!」
そして――。
捕った白球を大和へトスした。
「大和!」
白球が飛んでくる。
「バックホームを頼む!」
大和が受け取った。
その瞬間――。
記憶が蘇った。
幼い頃。
兄と二人でやったキャッチボール。
大和は何度も暴投した。
道端へ。
草むらへ。
時には、近くにいた人のところまで。
そのたびに誰かが拾ってくれた。
笑顔で。
「はい」
そう言って、返してくれた。
大樹はいつも頭を下げていた。
「ありがとうございます」
幼い大和は兄に謝った。
「兄ちゃん、ごめん」
大樹は笑っていた。
「いいんだよ、大和」
「でも、また暴投した」
「大丈夫」
大樹はボールを握った。
「ボールがそれてもな、それを拾ってくれる人がいる」
「どうして?」
「その人が、僕たちのキャッチボールを見てくれてたからだよ」
そして大樹は、弟へボールを投げた。
「だからな、大和」
白球が飛んでくる。
「僕たちの後ろには――」
大和が捕る。
「誰かがいることが多いんだ」
――兄ちゃん。
大和は現在へ戻った。
目の前に、こなつがいる。
大和の後ろにいた。
「大和!」
こなつが叫ぶ。
「私の夢を、お前に今、託す!」
大和が立ち上がった。
「頼んだぞ!」
こなつが笑った。
「だって私たちは――」
大和が白球を握る。
「無限の力を引き出せるからな!」
「こなつ――!」
大和がステップを踏んだ。
本塁を見る。
遠い。
涙で、さおりのミットが滲んでいた。
――兄ちゃん。
俺の右腕に力を貸してくれ。
これは兄ちゃんだけの夢じゃない。
こなつの夢。
さおりの夢。
八雲の夢。
玉木の夢。
みんなの夢。
俺の――夢だ。
でも。
涙でミットが見えない。
その時だった。
大和の中で、兄の声がした。
――大和。
それは本当に兄の声だったのか。
大和自身の心が、大樹の声を借りて自分を奮い立たせただけなのか。
分からない。
ただ――。
はっきり聞こえた。
――心眼だよ。
大和の動きが止まった。
――心の眼は、ホームを捉えている。
大和が歯を食いしばった。
――届いてくれ。
――間に合ってくれ。
白球を握り締める。
「俺は――」
右腕を振り抜いた。
「無限だああああ!」
白球が放たれた。
矢のような送球。
一直線に――。
さおりのいる本塁へ。
「三塁から青山君がタッチアップ!」
神谷が叫ぶ。
「ホームイン! 七対六!」
星承高校応援席が爆発する。
「そして二塁走者、俊足の瀧本君もタッチアップ! 三塁を蹴った! 本塁へ向かう!」
七対六。
一点差。
瀧本が走る。
「ホームへ突っ込む!」
同点の走者。
その遥か後方から――。
白球が飛んでくる。
桑原が立ち上がった。
「これは――!」
神谷も絶叫した。
「ライトから信じられない送球がホームへ向かってくる!」
さおりがミットを構える。
「来い! 大和!」
白球。
瀧本。
本塁へ――。
二つが同時に迫る。
瀧本が頭から飛び込んだ。
さおりが身体を伸ばす。
白球がミットへ――。
土煙が舞い上がった。
岡野球審が、その中を覗き込む。
誰も声を出さなかった。
島大松江高校ベンチ。
星承高校ベンチ。
二つの応援席。
葬儀場。
県議会。
テレビの前。
そして――。
グラウンドにいるすべての選手。
誰もが、ただ一人を見つめていた。
岡野球審。
土煙の向こうで――。
その身体が動いた。
球場が、
静まり返った。




