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栄冠は君に輝く  作者: konatsu


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60/65

星承高校の夏

十回裏。

スコアは――。

島大松江高校 7

星承高校   5

二点を追う星承高校。

タイブレークにより、二塁には八番・青山。

一塁には九番・瀧本。

そして打席には――。

一番・岡本颯太。

マウンド上。

玉木がゆっくりと息を吐いた。

ホームでは、さおりがミットを構えている。

あと三つ。

三つのアウトを取れば――。

甲子園。

だが。

島大松江の誰一人として、その言葉を口にはしなかった。

星承高校が、

簡単に三つのアウトを渡してくれる相手ではない。

それを誰よりも分かっているからだ。

岡本が打席に入る。

三塁の太一が一歩前へ出た。

一塁手も前進する。

当然――。

送りバントを警戒していた。

神谷アナウンサーが声を上げた。

「さあ十回裏! ノーアウト一、二塁! 一番・岡本君から始まります!」

球場全体が息を呑む。

「玉木君――第一球!」

玉木が投じた。

その瞬間。

岡本がバットを横に寝かせる。

「バントです!」

――コン。

乾いた音が響いた。

打球は三塁線へ。

速くない。

いや――。

絶妙なほど、遅い。

白球がファウルラインのすぐ内側を転がっていく。

切れそうで――。

切れない。

「鈴木君、前へ!」

太一が猛然とダッシュした。

素手でつかむ。

二塁走者・青山は三塁へ。

一塁走者・瀧本は二塁へ。

そして岡本は――。

一塁へ全力疾走。

太一が身体を流しながら腕を振った。

「一塁へ送球!」

白球が飛ぶ。

一塁手が身体いっぱいに腕を伸ばす。

岡本の足。

ボールがミットへ入る。

ほぼ――。

同時。

一塁塁審が大きく両腕を広げた。

「セーフ!」

神谷の声が跳ね上がった。

「セーフです! 岡本君も生きました!」

星承高校のスタンドが爆発した。

「ノーアウト満塁!」

大歓声。

ベンチの選手たちも一斉に立ち上がった。

岡本は一塁ベース上で拳を握った。

だが――。

笑わなかった。

その目には、

今とは違う球場が映っていた。

春。

センバツ準決勝。

十一回。

タイブレーク。

あの日も――。

岡本の前には走者がいた。

勝ち越すために求められた、

送りバント。

難しい作戦ではなかった。

いつも通りやればいい。

それだけだった。

なのに――。

――コン。

打球は転がらなかった。

ふわりと浮いた。

小フライ。

野手が捕球する。

飛び出していた走者も戻れない。

ダブルプレー。

そのプレーから、

星承高校は流れを失った。

そして――。

敗れた。

星承高校の春は、

そこで終わった。

試合後。

岡本は何度も自分を責めた。

あと少し。

バットの角度が違っていたら。

あと少し。

ボールの勢いを殺していれば。

もし――。

あのバントを成功させていたら。

何度考えても、

答えは出なかった。

過去は変えられない。

ならば――。

未来を変えるしかない。

センバツから戻った翌日。

岡本はバント練習を始めた。

そして――。

一日も欠かさなかった。

打撃練習のあと。

守備練習のあと。

身体が重い日も。

雨の日も。

誰も見ていなくても。

最後には必ず――。

バント。

十球。

二十球。

三十球。

何度でも。

もう二度と。

自分の一球で、

仲間たちの夏を終わらせないために。

そして今。

春に失敗した一球が――。

夏では。

仲間たちを生かした。

桑原が静かに口を開いた。

「神谷さん。これは大きいですよ」

「はい。送りバントが成功しただけではありません。岡本君自身も一塁に残りました」

「しかも岡本君は俊足です」

桑原の声が低くなる。

「島大松江高校に、ほんのわずかでも守備の乱れが出れば、一気に二人が還る可能性があります」

「そうなれば同点です」

「そして、その先には――」

神谷が言葉を継ぐ。

「逆転サヨナラ」

「十分あります」

ノーアウト。

満塁。

二点差。

そして――。

ここから星承高校の超強力打線。

島大松江高校は今、

星承高校の夏と――。

真正面から対峙していた。

桑原が一塁上の岡本を見る。

「ただね、神谷さん」

「はい」

「今のバントは、単なる送りバントじゃなかったと思うんです」

「と言いますと?」

「春に失敗したバントを、岡本君は毎日練習してきた。そして最も大切な夏の場面で成功させた」

一拍。

「失敗したから終わりじゃない」

岡本を見つめる。

「その失敗をした次の日から――」

桑原は静かに言った。

「今日の一球は、始まっていたんですよ」

神谷は黙って頷いた。

そして呟く。

「星承高校にも……星承高校の夏がある」

「そういうことです」

その頃。

インターネット中継――。

『高校野球.COM』

ライブ配信のチャット欄は、

もの凄い速度で流れていた。

《きたーーー!》

《ノーアウト満塁!》

《これは星承勝ちパターン》

《岡本うますぎ》

《玉木君ここまでだったか……》

《いやまだ分からん》

《星承が負けるわけない》

《逆転サヨナラあるぞ》

《しかしすげえ試合すんな》

《島大松江頑張れ!》

《玉木君抑えろ!》

そして――。

緊迫した試合とは少し違う書き込みまで流れていく。

《こなつちゃんアップ頼む》

《俺こなつ推し》

《いやいや、さおり様だろ》

《主将美人すぎる》

《お前ら野球見ろwww》

《でも両方頑張れ》

《この試合終わってほしくない》

全国から届く、

無数の文字。

島大松江を応援する声もある。

玉木を信じる声もある。

しかし――。

ノーアウト満塁。

そして、

これから続く星承高校の強力打線。

チャット欄を埋める言葉は、

次第に一方向へ傾いていった。

《星承逆転》

《これは決まったか》

《星承勝つだろ》

画面の向こうから見れば――。

島大松江は、

完全に追い詰められているように見えた。

だが。

グラウンドにいる選手たちは、

そんな文字を知らない。

彼らに見えているのは――。

目の前の白球だけだった。

島大松江高校ベンチ。

静かだった。

ノーアウト満塁。

一点なら一点差。

二点なら同点。

三点入れば――。

その瞬間、

試合は終わる。

鈴木監督は、

じっとグラウンドを見ていた。

慌てない。

腕も組まない。

ただ――。

選手たちを見つめている。

そして。

ゆっくり立ち上がった。

グラウンドへ視線を向けたまま。

背中越しに――。

一人の名前を呼んだ。

「山内隆一」

「はい?」

山内が顔を上げた。

鈴木監督はまだ振り返らない。

「待たせたな」

「え?」

「出番だ」

ようやく鈴木が振り向いた。

「伝令」

山内は自分を指差す。

「ぼ、僕ですか?」

「そうだ」

「僕が……伝令?」

「早く行きなさい」

山内は慌てて立ち上がった。

だが――。

二歩進んで止まる。

「監督」

「なんだ」

「何を伝えればいいんです?」

鈴木は即答した。

「皆に伝えろ」

そして。

一つずつ言葉を置いた。

「攻撃は最大の防御なり」

山内が聞く。

「守備は最高の攻撃となる」

そして――。

「守勢に回るな」

山内は続きを待った。

だが。

鈴木は何も言わない。

「……それだけですか?」

「ああ」

「それだけ?」

「それだけだ」

山内が目を丸くした。

「いやいや監督、ノーアウト満塁ですよ。もっと守備位置とか配球とか……何かあるでしょう」

「ない」

「ええ?」

鈴木監督が山内を見る。

「後は、隆一」

「はい?」

「お前の言葉だ」

山内の表情が固まる。

「僕の?」

鈴木はマウンドを見る。

「あいつらの力を――」

山内へ視線を戻す。

「お前の言葉で引き出してこい」

山内は首を振った。

「そんなの無理です!」

その瞬間。

声が飛んだ。

「無理じゃない」

和田八雲だった。

山内が振り向く。

「八雲……」

少し前まで、

この試合のマウンドを守っていたエース。

今は玉木へ――。

そのマウンドを託している。

八雲は山内を真っすぐ見た。

「お前ならできる」

一度言ったあと、

首を横に振った。

「いや」

山内を見る。

「お前にしかできない」

「僕に?」

「ああ」

八雲はグラウンドを指した。

「みんなが待ってる」

その言葉に続くように、

ベンチから声が飛び始めた。

「隆一、行ってこい!」

「頼んだぞ!」

「山内!」

「お前なら大丈夫だ!」

それでも――。

山内の顔から不安は消えない。

その時。

「隆ちゃん」

鈴木美佐子部長だった。

山内が振り向く。

「はい」

美佐子は立ち上がった。

「元アナウンサーの私から、一つだけ」

山内は黙って聞いた。

美佐子は自分の胸元へ手を置く。

「人はね」

ゆっくりと語り始めた。

「心の中にある想いを、そのまま相手へ渡すことはできないの」

山内が美佐子を見る。

「嬉しさも」

「悲しさも」

「愛しさも」

「後悔も」

美佐子は小さく首を振った。

「目には見えない」

ベンチが静かになる。

「だから人は――」

胸元から、

誰かへ手渡すように。

美佐子は右手を伸ばした。

「それを、言葉に託す」

山内の表情が変わった。

「言葉とはね――」

美佐子は微笑んだ。

「心から心へ渡される、小さな命なの」

八雲も。

ひまわりも。

選手たちも。

黙って聞いていた。

「上手に話そうとしなくていい」

「格好いいことを言う必要もない」

「隆ちゃんが今、みんなに伝えたいことを――」

優しく頷く。

「自分の言葉にして、渡してきなさい」

山内は唇を噛んだ。

隣でひまわりが、

何度も強く頷いていた。

「山内先輩」

「ん?」

「私も――」

ひまわりは微笑んだ。

「山内先輩には、その資格があると思います」

「資格?」

「はい」

それ以上――。

ひまわりは言わなかった。

山内はベンチを見る。

鈴木監督。

美佐子。

ひまわり。

八雲。

そして――。

仲間たち。

皆が、

自分を見ている。

山内は、

大きく息を吸った。

「……行ってきます」

八雲が笑った。

「行ってこい」

鈴木監督も頷いた。

そして、

ベンチ前へ出る。

「審判!」

球審が振り返った。

鈴木は右手を上げる。

「タイムお願いします!」

一拍。

「伝令です!」

背番号3。

山内隆一が――。

グラウンドへ走り出した。

「島大松江高校、ここで伝令です!」

神谷が実況する。

「山内君がマウンドへ向かいます!」

桑原が少し身を乗り出す。

「山内君ですか……」

「はい。現在はベンチに退いている山内君。鈴木監督、ここで彼を送りました」

内野陣がマウンドへ集まっていく。

さおり。

玉木。

太一。

慎之介。

仲間たちが――。

山内を待つ。

そして。

外野。

センターのこなつが、

ゆっくり前へ歩き出した。

レフトの芦田。

ライトの大和。

二人もセンター方向へ近づく。

三人が集まった。

芦田がマウンドを見る。

「ここで隆ちゃんか」

こなつが静かに答えた。

「隆ちゃんしかいないよ」

「え?」

こなつは、

幼い頃から知る山内の背中を見つめた。

「ここは」

その時だった。

応援席の音が――。

変わった。

星承高校応援団から、

新しい演奏が始まる。

二つの応援団が交わした約束。

今度は星承高校から申し出た――。

同時応援。

奏で始めたのは、

『インフィニティ』。

決して簡単な曲ではない。

まず、

星承高校応援団が奏でる。

そして――。

少し遅れて。

島大松江高校応援団が加わった。

最初は、

わずかに音がずれた。

しかし。

互いの演奏を聴く。

合わせる。

一つ。

また一つ。

音が重なっていく。

やがて――。

二校の演奏が、

一つになった。

球場から、

拍手が起こった。

最初は、

ぱらぱらと。

そして――。

大きな拍手へ。

星承高校だけへの拍手ではない。

島大松江だけへの拍手でもない。

難しい曲を、

敵味方を越えて一つにした、

二つの応援団へ。

そして。

これから何かが起こる。

そんな予感を感じた観客たちからの――。

期待の拍手だった。

ライトの大和が、

山内の背中を見つめた。

「そうだな」

芦田が振り向く。

大和は頷いた。

「隆一しかいない」

芦田も笑った。

「うん」

こなつも、

静かに微笑んだ。

「だって――」

二人がこなつを見る。

こなつは、

山内の背中から目を離さない。

「隆ちゃんは――」

一拍。

「私たちに、無限の力を与えてくれるから」

大和が笑った。

芦田も笑う。

三人は互いに顔を見た。

そして――。

手を重ねた。

センター・こなつ。

レフト・芦田。

ライト・大和。

三人の外野手が――。

一つになった。

その光景を。

ベンチの八雲が見ていた。

そして突然――。

鈴木監督を見る。

「鈴木監督!」

鈴木は振り向かなかった。

八雲は、

何かを尋ねようとした。

だが――。

その前に。

鈴木監督が、

静かに呟いた。

「これが――」

八雲が耳を澄ます。

鈴木は、

マウンドへ向かう山内を見つめていた。

「私のできる、最後の作戦だ」

八雲の表情が変わった。

最後の作戦。

それは――。

バントではない。

スクイズでもない。

守備シフトでもない。

配球でもない。

選手交代でもない。

鈴木監督が最後に選んだ作戦。

それは――。

一人の人間を、

仲間たちのもとへ送り出すことだった。

山内隆一。

速い球は投げられない。

ホームランを量産するわけでもない。

俊足でもない。

だが――。

誰よりも、

人の痛みを知っていた。

誰よりも、

人から愛されることを知っていた。

そして――。

人を大切にすることを、

知っていた。

八雲は、

山内の背中を見つめた。

自分は――。

玉木へマウンドを託した。

そして今。

鈴木監督は――。

山内へ、

仲間たちの心を託そうとしている。

八雲は小さく笑った。

「……そういうことか」

鈴木監督は何も答えない。

ただ――。

ほんの少しだけ。

笑った。

「隆ちゃん!」

「山内!」

「山内先輩!」

マウンドへ到着した山内に、

次々と声が飛んできた。

山内は、

少し照れたように笑った。

さおりが尋ねる。

「監督、何て?」

山内は全員を見る。

「まず――」

監督から託された言葉を伝える。

「攻撃は最大の防御なり」

玉木が山内を見る。

「守備は最高の攻撃となる」

太一。

慎之介。

さおり。

全員が聞いていた。

そして――。

「守勢に回るな」

山内は言った。

「以上が――監督の言葉です」

さおりが目を丸くした。

「以上?」

「うん」

「それだけ?」

「それだけ」

山内は苦笑した。

「僕も聞き返したよ」

ほんの一瞬。

小さな笑いが起きた。

極限まで張りつめていた空気が――。

少しだけ緩んだ。

しかし。

山内の表情が変わる。

「でも」

全員が、

もう一度山内を見る。

「ここからは――」

山内は胸元へ手を伸ばした。

「僕の言葉で、みんなに伝えたいことがあります」

そして。

ゆっくりと――。

一つの御守りを取り出した。

全員の視線が、

その小さな御守りへ集まった。

山内は、

手のひらに乗せた。

少し古びた――。

小さな御守り。

だが。

山内にとっては、

何ものにも代えられないものだった。

スタンド。

山内の母親は――。

自分が作った、

もう一つの御守りを握っていた。

弟が指を差す。

「母ちゃん!」

「ん?」

「兄ちゃんだ!」

父親も立ち上がる。

「隆一……」

母親は、

手の中の御守りを、

強く握りしめた。

一つは――。

スタンド。

もう一つは――。

グラウンド。

二つの御守り。

二人の母。

そして。

その二つの愛を受け取って――。

ここまで生きてきた、

一人の息子。

遠くでは、

両校の応援が鳴り響いている。

星承高校。

島大松江高校。

二つの学校が――。

同じ旋律を奏でている。

外野では。

こなつ。

芦田。

大和。

三人が、

手を重ねている。

ベンチでは。

鈴木監督。

美佐子。

ひまわり。

八雲。

そして――。

仲間たちが、

マウンドを見つめていた。

山内は、

手のひらの御守りを見る。

そして。

ゆっくりと――。

仲間たち一人一人の顔を見た。

美佐子の言葉が、

胸の中で蘇る。

――言葉とは、心から心へ渡される、小さな命。

山内は、

大きく息を吸った。

もう――。

迷っていなかった。

「みんな」

さおり。

玉木。

太一。

慎之介。

全員が、

山内を見る。

山内は――。

御守りを、

仲間たちへ差し出した。

「これは――」

一度。

御守りを見つめる。

自分が生きてきた時間。

母から受け取ったもの。

もう一人の母から受け取ったもの。

喜び。

悲しみ。

感謝。

そして――。

愛された記憶。

その全てを、

言葉という小さな命へ変えて。

山内隆一は――。

ゆっくりと、

仲間たちに語り始めた。

球場には今も、

両校が奏でる同じ曲が響いていた。

その応援曲の名は――。

『インフィニティ』。

そして、

その言葉を日本語に訳せば――。

「無限」。

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