星承高校の夏
十回裏。
スコアは――。
島大松江高校 7
星承高校 5
二点を追う星承高校。
タイブレークにより、二塁には八番・青山。
一塁には九番・瀧本。
そして打席には――。
一番・岡本颯太。
マウンド上。
玉木がゆっくりと息を吐いた。
ホームでは、さおりがミットを構えている。
あと三つ。
三つのアウトを取れば――。
甲子園。
だが。
島大松江の誰一人として、その言葉を口にはしなかった。
星承高校が、
簡単に三つのアウトを渡してくれる相手ではない。
それを誰よりも分かっているからだ。
岡本が打席に入る。
三塁の太一が一歩前へ出た。
一塁手も前進する。
当然――。
送りバントを警戒していた。
神谷アナウンサーが声を上げた。
「さあ十回裏! ノーアウト一、二塁! 一番・岡本君から始まります!」
球場全体が息を呑む。
「玉木君――第一球!」
玉木が投じた。
その瞬間。
岡本がバットを横に寝かせる。
「バントです!」
――コン。
乾いた音が響いた。
打球は三塁線へ。
速くない。
いや――。
絶妙なほど、遅い。
白球がファウルラインのすぐ内側を転がっていく。
切れそうで――。
切れない。
「鈴木君、前へ!」
太一が猛然とダッシュした。
素手でつかむ。
二塁走者・青山は三塁へ。
一塁走者・瀧本は二塁へ。
そして岡本は――。
一塁へ全力疾走。
太一が身体を流しながら腕を振った。
「一塁へ送球!」
白球が飛ぶ。
一塁手が身体いっぱいに腕を伸ばす。
岡本の足。
ボールがミットへ入る。
ほぼ――。
同時。
一塁塁審が大きく両腕を広げた。
「セーフ!」
神谷の声が跳ね上がった。
「セーフです! 岡本君も生きました!」
星承高校のスタンドが爆発した。
「ノーアウト満塁!」
大歓声。
ベンチの選手たちも一斉に立ち上がった。
岡本は一塁ベース上で拳を握った。
だが――。
笑わなかった。
その目には、
今とは違う球場が映っていた。
春。
センバツ準決勝。
十一回。
タイブレーク。
あの日も――。
岡本の前には走者がいた。
勝ち越すために求められた、
送りバント。
難しい作戦ではなかった。
いつも通りやればいい。
それだけだった。
なのに――。
――コン。
打球は転がらなかった。
ふわりと浮いた。
小フライ。
野手が捕球する。
飛び出していた走者も戻れない。
ダブルプレー。
そのプレーから、
星承高校は流れを失った。
そして――。
敗れた。
星承高校の春は、
そこで終わった。
試合後。
岡本は何度も自分を責めた。
あと少し。
バットの角度が違っていたら。
あと少し。
ボールの勢いを殺していれば。
もし――。
あのバントを成功させていたら。
何度考えても、
答えは出なかった。
過去は変えられない。
ならば――。
未来を変えるしかない。
センバツから戻った翌日。
岡本はバント練習を始めた。
そして――。
一日も欠かさなかった。
打撃練習のあと。
守備練習のあと。
身体が重い日も。
雨の日も。
誰も見ていなくても。
最後には必ず――。
バント。
十球。
二十球。
三十球。
何度でも。
もう二度と。
自分の一球で、
仲間たちの夏を終わらせないために。
そして今。
春に失敗した一球が――。
夏では。
仲間たちを生かした。
桑原が静かに口を開いた。
「神谷さん。これは大きいですよ」
「はい。送りバントが成功しただけではありません。岡本君自身も一塁に残りました」
「しかも岡本君は俊足です」
桑原の声が低くなる。
「島大松江高校に、ほんのわずかでも守備の乱れが出れば、一気に二人が還る可能性があります」
「そうなれば同点です」
「そして、その先には――」
神谷が言葉を継ぐ。
「逆転サヨナラ」
「十分あります」
ノーアウト。
満塁。
二点差。
そして――。
ここから星承高校の超強力打線。
島大松江高校は今、
星承高校の夏と――。
真正面から対峙していた。
桑原が一塁上の岡本を見る。
「ただね、神谷さん」
「はい」
「今のバントは、単なる送りバントじゃなかったと思うんです」
「と言いますと?」
「春に失敗したバントを、岡本君は毎日練習してきた。そして最も大切な夏の場面で成功させた」
一拍。
「失敗したから終わりじゃない」
岡本を見つめる。
「その失敗をした次の日から――」
桑原は静かに言った。
「今日の一球は、始まっていたんですよ」
神谷は黙って頷いた。
そして呟く。
「星承高校にも……星承高校の夏がある」
「そういうことです」
その頃。
インターネット中継――。
『高校野球.COM』
ライブ配信のチャット欄は、
もの凄い速度で流れていた。
《きたーーー!》
《ノーアウト満塁!》
《これは星承勝ちパターン》
《岡本うますぎ》
《玉木君ここまでだったか……》
《いやまだ分からん》
《星承が負けるわけない》
《逆転サヨナラあるぞ》
《しかしすげえ試合すんな》
《島大松江頑張れ!》
《玉木君抑えろ!》
そして――。
緊迫した試合とは少し違う書き込みまで流れていく。
《こなつちゃんアップ頼む》
《俺こなつ推し》
《いやいや、さおり様だろ》
《主将美人すぎる》
《お前ら野球見ろwww》
《でも両方頑張れ》
《この試合終わってほしくない》
全国から届く、
無数の文字。
島大松江を応援する声もある。
玉木を信じる声もある。
しかし――。
ノーアウト満塁。
そして、
これから続く星承高校の強力打線。
チャット欄を埋める言葉は、
次第に一方向へ傾いていった。
《星承逆転》
《これは決まったか》
《星承勝つだろ》
画面の向こうから見れば――。
島大松江は、
完全に追い詰められているように見えた。
だが。
グラウンドにいる選手たちは、
そんな文字を知らない。
彼らに見えているのは――。
目の前の白球だけだった。
島大松江高校ベンチ。
静かだった。
ノーアウト満塁。
一点なら一点差。
二点なら同点。
三点入れば――。
その瞬間、
試合は終わる。
鈴木監督は、
じっとグラウンドを見ていた。
慌てない。
腕も組まない。
ただ――。
選手たちを見つめている。
そして。
ゆっくり立ち上がった。
グラウンドへ視線を向けたまま。
背中越しに――。
一人の名前を呼んだ。
「山内隆一」
「はい?」
山内が顔を上げた。
鈴木監督はまだ振り返らない。
「待たせたな」
「え?」
「出番だ」
ようやく鈴木が振り向いた。
「伝令」
山内は自分を指差す。
「ぼ、僕ですか?」
「そうだ」
「僕が……伝令?」
「早く行きなさい」
山内は慌てて立ち上がった。
だが――。
二歩進んで止まる。
「監督」
「なんだ」
「何を伝えればいいんです?」
鈴木は即答した。
「皆に伝えろ」
そして。
一つずつ言葉を置いた。
「攻撃は最大の防御なり」
山内が聞く。
「守備は最高の攻撃となる」
そして――。
「守勢に回るな」
山内は続きを待った。
だが。
鈴木は何も言わない。
「……それだけですか?」
「ああ」
「それだけ?」
「それだけだ」
山内が目を丸くした。
「いやいや監督、ノーアウト満塁ですよ。もっと守備位置とか配球とか……何かあるでしょう」
「ない」
「ええ?」
鈴木監督が山内を見る。
「後は、隆一」
「はい?」
「お前の言葉だ」
山内の表情が固まる。
「僕の?」
鈴木はマウンドを見る。
「あいつらの力を――」
山内へ視線を戻す。
「お前の言葉で引き出してこい」
山内は首を振った。
「そんなの無理です!」
その瞬間。
声が飛んだ。
「無理じゃない」
和田八雲だった。
山内が振り向く。
「八雲……」
少し前まで、
この試合のマウンドを守っていたエース。
今は玉木へ――。
そのマウンドを託している。
八雲は山内を真っすぐ見た。
「お前ならできる」
一度言ったあと、
首を横に振った。
「いや」
山内を見る。
「お前にしかできない」
「僕に?」
「ああ」
八雲はグラウンドを指した。
「みんなが待ってる」
その言葉に続くように、
ベンチから声が飛び始めた。
「隆一、行ってこい!」
「頼んだぞ!」
「山内!」
「お前なら大丈夫だ!」
それでも――。
山内の顔から不安は消えない。
その時。
「隆ちゃん」
鈴木美佐子部長だった。
山内が振り向く。
「はい」
美佐子は立ち上がった。
「元アナウンサーの私から、一つだけ」
山内は黙って聞いた。
美佐子は自分の胸元へ手を置く。
「人はね」
ゆっくりと語り始めた。
「心の中にある想いを、そのまま相手へ渡すことはできないの」
山内が美佐子を見る。
「嬉しさも」
「悲しさも」
「愛しさも」
「後悔も」
美佐子は小さく首を振った。
「目には見えない」
ベンチが静かになる。
「だから人は――」
胸元から、
誰かへ手渡すように。
美佐子は右手を伸ばした。
「それを、言葉に託す」
山内の表情が変わった。
「言葉とはね――」
美佐子は微笑んだ。
「心から心へ渡される、小さな命なの」
八雲も。
ひまわりも。
選手たちも。
黙って聞いていた。
「上手に話そうとしなくていい」
「格好いいことを言う必要もない」
「隆ちゃんが今、みんなに伝えたいことを――」
優しく頷く。
「自分の言葉にして、渡してきなさい」
山内は唇を噛んだ。
隣でひまわりが、
何度も強く頷いていた。
「山内先輩」
「ん?」
「私も――」
ひまわりは微笑んだ。
「山内先輩には、その資格があると思います」
「資格?」
「はい」
それ以上――。
ひまわりは言わなかった。
山内はベンチを見る。
鈴木監督。
美佐子。
ひまわり。
八雲。
そして――。
仲間たち。
皆が、
自分を見ている。
山内は、
大きく息を吸った。
「……行ってきます」
八雲が笑った。
「行ってこい」
鈴木監督も頷いた。
そして、
ベンチ前へ出る。
「審判!」
球審が振り返った。
鈴木は右手を上げる。
「タイムお願いします!」
一拍。
「伝令です!」
背番号3。
山内隆一が――。
グラウンドへ走り出した。
「島大松江高校、ここで伝令です!」
神谷が実況する。
「山内君がマウンドへ向かいます!」
桑原が少し身を乗り出す。
「山内君ですか……」
「はい。現在はベンチに退いている山内君。鈴木監督、ここで彼を送りました」
内野陣がマウンドへ集まっていく。
さおり。
玉木。
太一。
慎之介。
仲間たちが――。
山内を待つ。
そして。
外野。
センターのこなつが、
ゆっくり前へ歩き出した。
レフトの芦田。
ライトの大和。
二人もセンター方向へ近づく。
三人が集まった。
芦田がマウンドを見る。
「ここで隆ちゃんか」
こなつが静かに答えた。
「隆ちゃんしかいないよ」
「え?」
こなつは、
幼い頃から知る山内の背中を見つめた。
「ここは」
その時だった。
応援席の音が――。
変わった。
星承高校応援団から、
新しい演奏が始まる。
二つの応援団が交わした約束。
今度は星承高校から申し出た――。
同時応援。
奏で始めたのは、
『インフィニティ』。
決して簡単な曲ではない。
まず、
星承高校応援団が奏でる。
そして――。
少し遅れて。
島大松江高校応援団が加わった。
最初は、
わずかに音がずれた。
しかし。
互いの演奏を聴く。
合わせる。
一つ。
また一つ。
音が重なっていく。
やがて――。
二校の演奏が、
一つになった。
球場から、
拍手が起こった。
最初は、
ぱらぱらと。
そして――。
大きな拍手へ。
星承高校だけへの拍手ではない。
島大松江だけへの拍手でもない。
難しい曲を、
敵味方を越えて一つにした、
二つの応援団へ。
そして。
これから何かが起こる。
そんな予感を感じた観客たちからの――。
期待の拍手だった。
ライトの大和が、
山内の背中を見つめた。
「そうだな」
芦田が振り向く。
大和は頷いた。
「隆一しかいない」
芦田も笑った。
「うん」
こなつも、
静かに微笑んだ。
「だって――」
二人がこなつを見る。
こなつは、
山内の背中から目を離さない。
「隆ちゃんは――」
一拍。
「私たちに、無限の力を与えてくれるから」
大和が笑った。
芦田も笑う。
三人は互いに顔を見た。
そして――。
手を重ねた。
センター・こなつ。
レフト・芦田。
ライト・大和。
三人の外野手が――。
一つになった。
その光景を。
ベンチの八雲が見ていた。
そして突然――。
鈴木監督を見る。
「鈴木監督!」
鈴木は振り向かなかった。
八雲は、
何かを尋ねようとした。
だが――。
その前に。
鈴木監督が、
静かに呟いた。
「これが――」
八雲が耳を澄ます。
鈴木は、
マウンドへ向かう山内を見つめていた。
「私のできる、最後の作戦だ」
八雲の表情が変わった。
最後の作戦。
それは――。
バントではない。
スクイズでもない。
守備シフトでもない。
配球でもない。
選手交代でもない。
鈴木監督が最後に選んだ作戦。
それは――。
一人の人間を、
仲間たちのもとへ送り出すことだった。
山内隆一。
速い球は投げられない。
ホームランを量産するわけでもない。
俊足でもない。
だが――。
誰よりも、
人の痛みを知っていた。
誰よりも、
人から愛されることを知っていた。
そして――。
人を大切にすることを、
知っていた。
八雲は、
山内の背中を見つめた。
自分は――。
玉木へマウンドを託した。
そして今。
鈴木監督は――。
山内へ、
仲間たちの心を託そうとしている。
八雲は小さく笑った。
「……そういうことか」
鈴木監督は何も答えない。
ただ――。
ほんの少しだけ。
笑った。
「隆ちゃん!」
「山内!」
「山内先輩!」
マウンドへ到着した山内に、
次々と声が飛んできた。
山内は、
少し照れたように笑った。
さおりが尋ねる。
「監督、何て?」
山内は全員を見る。
「まず――」
監督から託された言葉を伝える。
「攻撃は最大の防御なり」
玉木が山内を見る。
「守備は最高の攻撃となる」
太一。
慎之介。
さおり。
全員が聞いていた。
そして――。
「守勢に回るな」
山内は言った。
「以上が――監督の言葉です」
さおりが目を丸くした。
「以上?」
「うん」
「それだけ?」
「それだけ」
山内は苦笑した。
「僕も聞き返したよ」
ほんの一瞬。
小さな笑いが起きた。
極限まで張りつめていた空気が――。
少しだけ緩んだ。
しかし。
山内の表情が変わる。
「でも」
全員が、
もう一度山内を見る。
「ここからは――」
山内は胸元へ手を伸ばした。
「僕の言葉で、みんなに伝えたいことがあります」
そして。
ゆっくりと――。
一つの御守りを取り出した。
全員の視線が、
その小さな御守りへ集まった。
山内は、
手のひらに乗せた。
少し古びた――。
小さな御守り。
だが。
山内にとっては、
何ものにも代えられないものだった。
スタンド。
山内の母親は――。
自分が作った、
もう一つの御守りを握っていた。
弟が指を差す。
「母ちゃん!」
「ん?」
「兄ちゃんだ!」
父親も立ち上がる。
「隆一……」
母親は、
手の中の御守りを、
強く握りしめた。
一つは――。
スタンド。
もう一つは――。
グラウンド。
二つの御守り。
二人の母。
そして。
その二つの愛を受け取って――。
ここまで生きてきた、
一人の息子。
遠くでは、
両校の応援が鳴り響いている。
星承高校。
島大松江高校。
二つの学校が――。
同じ旋律を奏でている。
外野では。
こなつ。
芦田。
大和。
三人が、
手を重ねている。
ベンチでは。
鈴木監督。
美佐子。
ひまわり。
八雲。
そして――。
仲間たちが、
マウンドを見つめていた。
山内は、
手のひらの御守りを見る。
そして。
ゆっくりと――。
仲間たち一人一人の顔を見た。
美佐子の言葉が、
胸の中で蘇る。
――言葉とは、心から心へ渡される、小さな命。
山内は、
大きく息を吸った。
もう――。
迷っていなかった。
「みんな」
さおり。
玉木。
太一。
慎之介。
全員が、
山内を見る。
山内は――。
御守りを、
仲間たちへ差し出した。
「これは――」
一度。
御守りを見つめる。
自分が生きてきた時間。
母から受け取ったもの。
もう一人の母から受け取ったもの。
喜び。
悲しみ。
感謝。
そして――。
愛された記憶。
その全てを、
言葉という小さな命へ変えて。
山内隆一は――。
ゆっくりと、
仲間たちに語り始めた。
球場には今も、
両校が奏でる同じ曲が響いていた。
その応援曲の名は――。
『インフィニティ』。
そして、
その言葉を日本語に訳せば――。
「無限」。




