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栄冠は君に輝く  作者: konatsu


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それぞれの夏

「さあ、試合は7対5。島大松江高校が二点をリードしています」

神谷誠一アナウンサーの声が、真夏の球場に響き渡った。

「その二点――いや、甲子園出場を懸けて、十回裏、星承高校の攻撃に入ります」

スコアボードには、

島大松江 7

星承高校 5

の数字が刻まれている。

「タイブレークですので、八番・青山君が二塁。九番・瀧本君が一塁。そして打席は一番・岡本君から始まります」

神谷はグラウンドを見渡した。

「島大松江高校が守り切り、甲子園初出場を決めるのか。それともセンバツベスト4の星承高校が逆転するのか」

一拍。

「星承高校は、少なくとも二点を取らなければ試合を続けることができません」

球場の空気が張りつめる。

「まだドラマが待っているのか。それとも島大松江高校が、この試合を締めくくるのか――」

解説の桑原修司は、すぐには答えなかった。

グラウンドを見つめたまま、ゆっくり口を開いた。

「分かりませんよ」

「分かりませんか」

「ええ」

桑原は微笑んだ。

「この試合、序盤は島大松江高校が、星承高校の好投手・小林君、角君から、なんと五点を奪いました」

試合を一つ一つ思い返すように続ける。

「そこから星承高校が追い上げた。小林君のホームラン。そして九回裏、ツーアウトから石破君の起死回生の同点ホームラン」

神谷が頷いた。

「まさに死闘です」

「そうなんです。どちらかが一方的に押しているわけではない。両校が真正面からぶつかっている」

桑原は両校のスタンドへ視線を移した。

「そして――あの応援です」

「応援団ですね」

「はい。選手だけではありません。スタンドも一緒にこの試合を戦っている」

桑原は小さく息を吐いた。

「だから、まだ分かりません。この試合、本当に最後まで何が起こるか分かりませんよ」

その頃、スタンドの一角。

「オー! オー! これは!」

バーンズが突然、携帯電話を見ながら大きな声を上げた。

隣の松田が苦笑する。

「バーンズさん、どうしたんです?」

二人の間では、自動翻訳機が今日も忙しく働いている。

バーンズが携帯の画面を松田へ向けた。

「ライナーズのオーナーからメールです!」

「ライナーズ?」

「この試合、ネットで見ています」

「えっ?」

「感動しているそうです」

バーンズの顔がほころんだ。

「そして、『ミスター鈴木は、やはり優れた指揮官だ』とも伝えてきています」

松田も笑顔になった。

「それは良かったですな」

「それだけじゃありません」

バーンズは胸を張った。

「私も来年から、ライナーズのヘッドコーチに正式決定しました」

「おお! それはおめでとうございます」

「ただし、『早く帰ってこい』とも書いてあります」

松田が笑った。

「ははは。大変ですな」

だが突然、バーンズが真顔になった。

「ミスター松田」

「はい?」

「あなたも英語の勉強を始めてください」

「……え?」

松田の笑顔が止まった。

「ライナーズが待っています」

「私を?」

「メンタルコーチとして」

松田は一瞬、言葉を失った。

「ありがたいお話ですが……目の不自由な私には、メジャーリーグの仕事など――」

「ノー」

バーンズが遮った。

「あなたにはあります」

「何がです?」

バーンズは自分の胸を指した。

「心眼」

そして、少し得意そうに付け加えた。

「ハート・アイ」

松田が笑う。

「また、それですか」

「それに――」

バーンズは松田の顔をじっと見る。

「最近、少し見えるようになってきているでしょう?」

松田の表情が止まった。

沈黙。

「……なぜ」

「やっぱり」

バーンズがニヤリと笑う。

松田は観念したように息を吐いた。

「二、三年前からです」

「どのくらい?」

「光と……人の大きな輪郭が、ぼんやりと」

バーンズは大きく頷いた。

「ライナーズには優れた医療機関があります。あなたの目をサポートできます」

松田はしばらく黙っていた。

そして尋ねた。

「でも……どうして分かったんです?」

バーンズは胸を張った。

「私はメジャーでも、選球眼の優れた打者でした」

「それと同じですか?」

「同じです」

即答だった。

「私の心眼、ハート・アイをなめないでください」

松田が吹き出した。

バーンズも笑う。

「それに――」

バーンズはグラウンドを見る。

「あの子たちも、とっくに気づいていますよ」

「なぜ?」

バーンズは自分の胸を軽く叩いた。

「あの子たちも持っていますから」

そして笑った。

「心眼を」

松田も、静かに笑った。

別のスタンド。

玉木の父親は、また立ち上がっていた。

「いいか玉木! あと三つだぞ!」

周囲の観客が思わず笑う。

「ビジネスも同じだ! 契約するまで最後まで油断するな! 信念を曲げるな!」

隣の妻が呆れた表情を向けた。

「あなた」

「なんだ」

「野球部に入るの、反対してたでしょ」

父親の動きが止まった。

数秒。

そして胸を張る。

「過去を忘れ、未来を見る」

「は?」

「それが社長だ」

妻は大きくため息をついた。

だが――。

父親の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「あいつ……」

マウンドへ向かう息子を見る。

「本当に、成長したな」

妻も静かに微笑んだ。

少し離れた席。

山内隆一の家族が座っていた。

父親が、妻の手元を見る。

一つの御守りが握られていた。

「……お前、渡さなかったのか」

妻が小さく頷く。

「はい」

「どうして?」

小学生の弟が不思議そうに母を見る。

「なんで? 母ちゃん、一生懸命作ったじゃん。なんで兄ちゃんに渡さなかったの?」

母親は御守りを見つめた。

「隆一には……もう一つ御守りがあるから」

弟が首を傾げる。

「もう一つ?」

母親は静かに答えた。

「あの子の、本当のお母さんが作った御守り」

父親は黙って聞いている。

「あの子の将来を願って、病室で作ってくれたものなの」

御守りを握る手に、力が入る。

「隆一には、それを渡したの」

「じゃあ、母ちゃんのも渡せばよかったじゃん」

弟の素直な言葉。

母親は少し笑った。

「……一緒には渡せなかった」

「なんで?」

「分からない」

目に涙が浮かぶ。

「何となく……あの御守りの横に、私の御守りを置いちゃいけない気がしたの」

父親が、そっと妻の手に触れた。

「だからこれは、私が持って応援する」

弟はしばらく母親を見つめていた。

そして言った。

「兄ちゃん、母ちゃんの気持ち分かってるよ」

母親が顔を上げる。

「昨日だって言ってた」

「何て?」

弟は笑った。

「俺には最高の母ちゃんが二人いるって」

母親の瞳から、一粒。

涙が落ちた。

「それにね――」

弟はグラウンドを見る。

「できれば母ちゃんを甲子園に連れていきたいって」

涙が御守りの上へ落ちた。

その隣から声がした。

「隆ちゃん、昔からそういう子ですよ」

こなつの母親だった。

山内の母親が振り向く。

「こなつがよく言っていました」

「何を……?」

「隆ちゃんは、自分には二人のお母さんがいる。でも、二人から愛されているから幸せなんだって」

山内の母親が唇を噛んだ。

こなつの母親はグラウンドの娘を見る。

「うちは、事情があって母一人、子一人です」

そして星承高校のベンチを見る。

そこには――。

こなつの父、石川監督。

「今は父と娘が、別々の学校に分かれて戦っています」

少し笑う。

「家族にも、それぞれ葛藤がありますよね」

山内の母親が頷いた。

「でも――」

こなつの母親は静かに続けた。

「受け入れることも、大事なのかもしれません」

「ありがとうございます」

山内の母親は涙を拭った。

「隆一に野球を教えてくれたの、こなつちゃんなんです」

「そうでしたね」

「こなつちゃんがいてくれたから、隆一はずっと野球を好きでいられた」

御守りを胸元に寄せる。

「私が、どれだけ嬉しかったか……」

二人の母親は、それ以上何も言わなかった。

ただ、それぞれの子供を見つめていた。

その頃。

球場から離れた島根県議会。

県知事である竹内は、自席に座っていた。

しかし心は――。

球場にあった。

(すまない、さおり)

娘の顔が浮かぶ。

(お前が主将であるように――)

議場を見渡す。

(私も、島根県というチームの主将なんだ)

県民から託されている。

県をまとめること。

島根のために働くこと。

自分だけが職務を途中で投げ出すわけにはいかない。

(最後の試合になるかもしれないお前の姿を、最後まで見届けられなくて……すまない)

その時だった。

一人の県議が立ち上がった。

「議長」

高場県議会議長が顔を上げた。

「はい」

「休憩動議を提案したいと思います」

議場がざわつく。

「理由をお願いします」

立っていたのは――。

川口県議。

「現在、島根県庁のホームページ、問い合わせ窓口、SNS等に、県内外から非常に多くの反響が寄せられているとのことです」

高場議長が尋ねる。

「内容は?」

川口県議は一度、竹内知事を見る。

「高校野球です」

ざわめきが広がった。

「現在行われている島根県大会決勝。全国からネットを通じて、この試合を見ている方が増えています」

そして続ける。

「野球そのものだけではありません」

「と言いますと?」

「両校の礼節。応援団の姿。選手同士の敬意。そして、それを見守る島根県民」

議員たちの表情が変わる。

「島根という地域そのものに対して、多くの賞賛の言葉が寄せられているそうです」

高場議長が微笑んだ。

川口県議は続ける。

「私たちは日頃から、若者の育成を語っています」

議場を見渡す。

「ならば、今まさに島根の若者たちが何をしているのか。それを見ないまま、未来を語ることができるのでしょうか」

竹内知事が顔を上げる。

川口県議と目が合った。

高場議長が尋ねた。

「具体的な提案をお願いします」

「はい」

川口県議が答える。

「県政を放棄するわけではありません」

一拍。

「この試合を見届けるため、短時間の休憩を取ることを提案いたします」

議場が静かになる。

「今、県内各地で多くの県民が、この決勝を見守っています」

声を強くする。

「ならば私たちも、一人の島根県民として、この若者たちの夏を見届けませんか」

高場議長の表情が崩れた。

笑った。

「ただいまの休憩動議に賛成の方――」

一拍。

「拍手をお願いいたします」

パチパチパチパチ――!

一人。

二人。

そして――。

議場全体へ拍手が広がった。

竹内知事は驚いた表情で川口県議を見る。

実はこの提案。

高場議長と川口県議が、事前に話し合っていたものだった。

高場が笑う。

「知事」

「はい」

「どうやら、一つ先に議案がまとまったようです」

議場から笑い声が漏れた。

竹内知事は、目頭を押さえた。

彼は知っている。

川口県議が――。

星承高校・川口投手の父親であることを。

自分の娘は島大松江。

川口県議の息子は星承。

子供たちは、甲子園を懸けて戦っている。

しかしここでは――。

同じ島根県のために働いている。

竹内知事は深く頭を下げた。

「皆さん……」

声が詰まる。

「ありがとうございます」

もう一度。

「本当に、ありがとうございます」

議場は再び、大きな拍手に包まれた。

その瞬間。

島根県議会もまた――。

一つのチームになっていた。

球場。

島大松江高校応援団長・島崎の携帯電話が震えた。

画面を見る。

星承高校応援団長 鬼塚

島崎はすぐに応答した。

「はい」

「島崎君」

鬼塚の声。

「先ほどは、ありがとうございました」

「え?」

「十回表です」

島崎は黙る。

「『栄冠は君に輝く』を、私たちにも一緒に演奏させてくれたことです」

「……はい」

「本来なら守備側だった私たちに、応援する機会を与えてくれた」

鬼塚は続ける。

「だから今度は――」

少し間を置いた。

「私たち星承高校からお願いがあります」

島崎の表情が変わった。

「この曲を、一緒に演奏してもらえませんか」

「え?」

「次は、私たちからのお願いです」

スマートフォンにデータが届く。

譜面。

島崎が画面を見る。

そして――。

絶句した。

周囲の応援リーダーたちも画面を覗き込む。

一人。

また一人。

笑顔になる。

全員が頷いた。

島崎は電話へ戻った。

「……お引き受けします」

声が震える。

「本当に、ありがとうございます」

鬼塚が答える。

「こちらこそ、ありがとうございます」

そして――。

「島崎君」

「はい」

「君たちと応援合戦ができたことを、誇りに思っています」

島崎は何も言えなかった。

「この試合、どちらかが勝ちます」

当然のこと。

だが、その言葉は重かった。

「そして、どちらかが甲子園へ行く」

鬼塚は続ける。

「もしよければ――」

「はい」

「今日勝った学校が甲子園へ行く時、負けた学校の応援団も、一緒に応援しませんか」

島崎の目が大きくなる。

「敵味方ではなく」

鬼塚の声が優しくなる。

「同じ志を持って、今日ここで戦った仲間として」

島崎の目から涙が落ちた。

後ろにいた応援リーダーたちは何も聞かない。

島崎の表情だけで、分かった。

全員が笑顔で頷いた。

「ありがとうございます」

島崎は涙を拭った。

「ぜひ、お引き受けします」

電話の向こうで鬼塚が笑う。

「よし」

そして明るい声に変わった。

「だったら、早く応援を始めましょう」

「はい」

「そちらは譜面の確認と打ち合わせがありますから、先にこちらから始めます」

「お願いします」

一瞬の沈黙。

そして鬼塚が言った。

「島崎君」

「はい」

「この試合、まだまだ続くかもしれない」

「はい」

「だから、先に言っておきます」

島崎が黙って聞いた。

「君たちに出会えて良かった」

島崎の目から、再び涙がこぼれた。

「星承高校応援団は――」

鬼塚が息を吸った。

「島大松江高校応援団へ、エールを送ります」

そして――。

「ありがとうございます」

電話が切れた。

その直後。

星承高校応援席。

鬼塚が片手を上げた。

全員が一斉に立ち上がる。

向きを変える。

グラウンドではない。

反対側。

島大松江高校応援席へ。

そして――。

深く、一礼。

球場がざわめいた。

島崎は涙を拭った。

大きく息を吸う。

「返礼!」

島大松江高校応援団。

一斉に向きを変える。

星承高校応援席へ。

そして――。

深く、一礼。

一瞬。

球場が静まり返った。

やがて――。

大きな拍手が湧き起こった。

勝ちたい。

絶対に勝ちたい。

甲子園へ行きたい。

その思いは、どちらも同じだった。

だからこそ――。

相手を尊敬できる。

野球だけではない。

スタンドにも。

家族にも。

指導者にも。

県政を担う大人たちにも。

そして――。

対戦相手にも。

それぞれの想いがあった。

それぞれの人生があった。

それぞれの――。

夏があった。

再びグラウンド。

玉木がマウンドへ向かった。

さおりがマスクをかぶる。

こなつがセンターへ走る。

大和がライトへ。

太一が三塁へ。

二塁ランナー――青山。

一塁ランナー――瀧本。

そして。

星承高校、一番。

岡本颯太が打席へ向かう。

星承高校応援席から、新しい演奏が始まった。

少し遅れて――。

島大松江高校応援団も、その旋律へ重なっていく。

二つの学校の音が、一つの球場を包んだ。

神谷が口を開いた。

「さあ――十回裏!」

声が大きくなる。

「二点を追う星承高校!」

玉木がボールを握る。

岡本がバットを構える。

さおりがサインを出す。

「島大松江高校にとっては、甲子園まで――あと三つ!」

星承ベンチ。

全員が立っている。

「そして星承高校にとっては、この夏を終わらせないための――」

その時。

桑原が静かに口を開いた。

「神谷さん」

「はい?」

「私は実は、野球の試合において『最終回』という言葉に、少し疑問を持っているんです」

神谷が桑原を見る。

「最終回、ですか」

「はい。ですから私は、なるべく使わないようにしています」

神谷は黙って耳を傾けた。

桑原はグラウンドを見ながら続けた。

「高校野球の試合には、もちろん決着があります。勝つ学校があり、負ける学校があります」

一拍。

「勝った学校は、負けた学校の無念も背負って、次の試合へ向かう」

「……はい」

「だから、ドラマは続くんです」

桑原は両校のスタンドを見る。

「そして、そのドラマは優勝したからといって終わるわけでもありません」

「と言いますと?」

「次の年へ受け継がれていくからです」

後輩へ。

次の世代へ。

そして、また新しい夏へ。

桑原は少し考え、続けた。

「私は今、『勝者』『敗者』と言いました」

そして首を横に振った。

「でも本当は――敗者なんて、いないのかもしれません」

神谷は何も言わない。

「試合に負けたからといって、その人の人生まで敗れたわけではありません」

桑原の声が、静かに球場へ流れる。

「試合が全てではないんです」

グラウンドに立つ選手。

スタンドの家族。

応援団。

指導者。

「ここで戦ったこと」

「相手校の選手へ敬意を持ったこと」

「自分を支えてくれた家族や仲間、応援団へ感謝すること」

桑原は言った。

「試合が終わっても、その人のドラマは続いていく」

そして――。

ゆっくりと言葉を置いた。

「だから私は、野球に“最終回”はないと思っています」

神谷はしばらく黙っていた。

実況席にも、ほんの短い沈黙が訪れた。

やがて神谷が口を開いた。

「桑原さん」

「はい」

「実況を伝えるアナウンサーとしては、不適格なのかもしれませんが――」

少し笑った。

「私もこれから、『最終回』という言葉の使い方を、深く考えていきたいと思います」

桑原が微笑む。

神谷は続けた。

「何より、大切なお言葉でした」

一瞬。

二人ともグラウンドを見る。

玉木。

岡本。

さおり。

青山。

瀧本。

そして両校の選手たち。

今日、この試合には決着がつく。

だが――。

誰の人生も、ここでは終わらない。

誰かの夏が、

別の誰かへ受け継がれていく。

それぞれの夏は、

形を変えながら――。

続いていく。

神谷がマイクを握り直した。

「さあ――」

声が戻る。

「岡本君、打席に入りました!」

玉木がセットポジション。

さおりがミットを構える。

両校の応援が重なっていく。

敵ではない。

だが――。

絶対に譲れない。

それぞれの夏。

それぞれの願い。

それぞれの三年間。

その全てを懸けて――。

神谷が叫んだ。

「十回裏! 玉木君――第一球!」

玉木が右足を上げた。

白球が、

その手から放たれようとしていた。

試合には、

いつか最後の一球が来る。

しかし――。

彼らの物語に、最終回はない。

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