島大松江高校の盛夏(せいか)
「ツーアウト、ランナー三塁、一塁。そして打席には――島大松江高校主将、竹内選手です」
神谷誠一アナウンサーの声が、真夏の球場に響いた。
スコアは5対5。
延長十回表。
三塁には太一。
一塁には、十球粘って四球をもぎ取ったこなつ。
そして右打席には、主将・竹内さおり。
両校の応援席からは、同じ『栄冠は君に輝く』の旋律が鳴り響いている。
神谷が続ける。
「桑原さん。この場面、竹内選手はどう攻めるべきでしょうか」
解説の桑原修司は、しばらくグラウンドを見つめた。
「右打者の竹内さんですが、無理に引っ張らず、右方向を狙うのも一つだと思います。強引に振りにいっても、今の川口君を正面から攻略するのは相当難しい」
「やはり、川口君の球威ですか」
「ええ。それから、可能性としてはセーフティーバントもあります」
「ツーアウトでもですか?」
「竹内さんも足がありますからね。そして三塁の鈴木君、一塁の石川さん。二人とも俊足です。野手の間へゴロを転がせれば、内野安打になる可能性もある」
桑原は捕手の石破へ視線を移した。
「だからこそ、川口君と石破君のバッテリーは、できればバットに当てさせたくない。三振を取りにくる配球になると思います」
「となると、初球ですか」
「非常に大事です。竹内さんとしては狙いたい。川口君としては、まずストライクを取って優位に立ちたい。ここからは技術だけじゃない。完全な駆け引きですよ」
神谷が一塁を見る。
「石川選手の動きも気になります」
「もちろんです。盗塁を仕掛けて二死二、三塁にすれば、さらに川口君へプレッシャーをかけられる。また、石破君が二塁へ送球すれば、三塁の鈴木君が本塁を狙う可能性もある」
一塁のこなつ。
三塁の太一。
二人とも、静かに川口を見ていた。
「ただし――」
桑原の声が少し低くなった。
「島大松江は、ここで無得点に終わると相当厳しいですよ」
「十回裏があります」
「星承高校は無死一、二塁から、一番・岡本君。そして故障前には四番を打っていた川口君。三番・水木君、四番・小林君。そして九回裏に同点ホームランを放った石破君まで続きます」
桑原はゆっくり息を吐いた。
「是が非でも一点。できれば、それ以上欲しい場面です」
川口がセットポジションに入った。
石破がミットを構える。
「さあ注目の初球――投げました!」
外角。
ストレート。
ミットが鋭い音を立てる。
「ストライク!」
球審・岡野の右手が上がった。
「外角いっぱい! 竹内選手、微動だにしませんでした」
桑原が首をかしげる。
「今の球は狙ってもいい球でしたね」
「見送った理由があるのでしょうか」
「そこなんですよ。迷って見逃したという感じではありません。最初から振る気がなかったように見えました」
さおりは川口を見ていた。
球筋ではない。
球速でもない。
フォームそのものでもない。
――間。
(分かった)
初球だけで、さおりには十分だった。
(このリズム。この投球間隔のまま160キロ近い球を投げられたら、今の私じゃ当てるだけで精いっぱい)
だが。
ほんの少しなら。
ほんのコンマ何秒だけなら。
(ずらせる)
川口が気持ちよく腕を振る、その時間。
そこに、ごく小さな狂いを作る。
(そのコンマ何秒を、私たちで作る)
さおりはバットを握り直した。
(次はカーブかスライダー)
石破なら、初球の速球を見せたあと、変化球を挟む。
そして――。
(三球目)
渾身のストレート。
そこで仕留める。
いや。
空振りを奪う。
川口が最も投げやすい流れを、石破は作ってくる。
(なら――)
さおりの目が細くなる。
(その流れを壊せばいい)
「さあ二球目。川口君、投げた!」
カーブ。
外から曲がり込んでくる。
さおりは動かない。
バシッ。
「ストライク!」
再び岡野の右手が上がった。
「竹内選手、これも見逃しました! 二球で追い込まれます!」
桑原が腕を組んだ。
「うーん……読めませんねえ」
「何を狙っているのでしょうか」
「分かりません。ただ、一塁ランナーの石川さんも何も仕掛けてこない。そこも不気味なんですよ」
カウントは0ボール2ストライク。
川口が圧倒的に有利。
「とはいえ、この土壇場でできることは限られています。竹内さんとしては、相当苦しいカウントになりました」
だが――。
さおりは確信していた。
(来る)
間違いない。
(三球目。今日一番のストレート)
川口は絶対にここで決めにくる。
(それを――打つ)
さおりは三塁ベンチを見た。
鈴木監督。
何も言わない。
ただ――。
小さく頷いた。
(了解)
次に三塁を見る。
太一。
さっきより、わずかにリードが広い。
最後に一塁。
こなつ。
目が合った。
ほんの一瞬。
それだけだった。
だが、三年間一緒に野球をしてきた二人には十分だった。
こなつが、かすかに笑う。
――行くよ。
そう言っている。
さおりも小さく頷いた。
(行こう)
川口がセットに入る。
球場の音が遠くなる。
石破がミットを構えた。
「さあ、追い込んだ川口君――」
川口が投球動作へ入る。
「第三球――」
その瞬間。
こなつが走った。
同時に――。
太一も三塁を蹴った。
「走った!」
神谷が叫ぶ。
「一塁ランナー石川選手! いや、三塁の鈴木君もスタートしています!」
川口の視界の端へ、一塁から飛び出したこなつが入った。
さらに三塁側から声が飛ぶ。
太一も動いている。
ほんの一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
川口の意識が分散した。
呼吸。
足の運び。
そして投球へ入る――間。
コンマ何秒。
ずれた。
(今!)
さおりがバントの構えを見せた。
神谷が絶叫する。
「竹内選手、バントの構え! セーフティバントか!」
三塁手・瀧本が前へ。
一塁手・水木も反応した。
その瞬間。
さおりがバットを引いた。
右足を踏み込む。
構え直す。
「いや! 打ちにいく!」
瀧本の重心は前へ移っている。
水木も一歩を踏み出していた。
そして川口。
投げた。
157キロ。
真ん中高め。
さおりには見えていた。
さっきまでとは違った。
いや――。
球そのものは速い。
恐ろしく速い。
だが。
(間に合う!)
三人で作った。
コンマ何秒。
さおりのバットが振り抜かれた。
カァァン!
球場に、乾いた打球音が響き渡った。
「打ったぁぁぁ!」
神谷が立ち上がる。
「捉えた! 竹内選手、捉えました!」
痛烈なライナー。
三塁手・瀧本の頭上。
瀧本が反応する。
しかし、一歩前へ動いていた。
跳ぶ。
届かない。
「越えたぁ!」
白球が左翼線へ飛んでいく。
レフトが追う。
間に合わない。
打球がフェンスに当たって跳ね返ってくる!
「三塁ランナー鈴木君、ホームイン!」
太一が本塁を駆け抜ける。
6対5。
島大松江、勝ち越し。
ベンチが爆発する。
だが――。
桑原が叫んだ。
「一塁ランナーを見てください!」
こなつだ。
投球と同時にスタートを切っていた。
すでに二塁を蹴っている。
三塁へ。
止まらない。
三塁コーチを見る。
腕が回る。
「石川選手、三塁を蹴った!」
神谷の声が裏返る。
「ホームへ来る! 石川選手、ホームへ向かってきます!」
左翼手がフェンス際で白球を拾った。
中継へ。
素早い返球。
桑原が叫ぶ。
「これはさすがに無謀じゃないですか!」
こなつは止まらない。
(行ける!)
三塁から本塁へ。
全速力。
石破がホーム前に構える。
返球が来る。
こなつが一気に身体を沈めた。
「送球が帰ってきた!」
石破がタッチへ。
こなつが身体を捻る。
ミットをかわす。
右手を伸ばす。
ヘッドスライディング!
砂煙。
球場が静止した。
一瞬。
誰にも分からない。
球審・岡野が位置を変え、プレーを確認する。
そして――。
両腕を大きく広げた。
「セーフ!」
一拍遅れて――。
球場が爆発した。
「セーフ! セーフです!」
神谷の絶叫。
「石川選手、帰ってきました! 一塁から一気にホームイン!」
こなつが地面を叩いた。
「っしゃあ!」
7対5。
島大松江高校。
十回表――二点。
スタンドが揺れる。
三塁ベンチ。
誰も座っていない。
山内が飛び跳ねる。
八雲が両腕を突き上げる。
慎之介が叫ぶ。
ひまわりも泣きながら笑っている。
美佐子は口元を押さえた。
鈴木監督だけは腕を組んでいた。
だが――。
その口元は、わずかに上がっていた。
桑原は興奮を抑えきれない。
「いやあ……驚きました」
神谷も息を整える。
「何が起きたのか、整理しましょう」
リプレーが映る。
桑原が画面を指す。
「形としてはバスターです。ただ、普通のバスターとは狙いが違います」
映像。
こなつがスタート。
太一も同時に動く。
さおりがバントの構え。
瀧本と水木が前へ。
そして一瞬後。
強振。
「一塁、三塁の走者を同時に動かした。さらに竹内さんがセーフティを思わせるバントの構えを見せた」
「それぞれに違うプレッシャーを与えたと」
「そうです。一塁走者。三塁走者。バント。川口君と石破君、そしてコーナーの内野手へ、一瞬ずつ別の情報を与えた」
画面が川口のフォームを映す。
「その結果、川口君の投球に入るタイミングが、ほんのわずかにずれた」
「ほんのわずかですね」
「コンマ何秒でしょう」
桑原は頷く。
「でも、竹内さんにとって必要だったのは、そのコンマ何秒だったんです」
映像。
157キロのストレート。
さおりのバット。
ジャストミート。
「球は素晴らしいですよ。157キロ。しかも真ん中高め。力のある球です」
「それを打ち返しました」
「竹内さん一人ではなく、鈴木君、石川さん。そしてベンチの作戦。全員で作ったタイミングだったということでしょう」
神谷が言葉を失う。
しばらくして、静かに言った。
「島大松江高校……三人で奪った二点です」
一方。
ホームインしたこなつは立ち上がると、泥だらけのユニフォームのままベンチへ向かった。
太一が待っていた。
「速すぎますよ」
「誰に言ってんの」
「はいはい」
二人が笑った。
その頃、さおりは二塁ベースの上にいた。
静かに拳を握る。
大きく喜ぶことはしなかった。
星承の内野を見た。
川口を見た。
そして仲間を見る。
(最高……)
胸がいっぱいだった。
(みんなで取った)
あの川口君から。
難攻不落と思えた川口君から。
(私が打ったんじゃない)
こなつが十球粘った。
太一が走った。
鈴木監督が仕込んだ。
自分が振った。
(みんなで取ったんだ)
さおりの目が熱くなる。
(やっぱり最高だよ)
野球。
そして――。
(私の仲間)
島大松江ベンチと応援席は、歓喜に包まれていた。
相手への敬意を忘れたわけではない。
川口が素晴らしい投球をしたことも分かっている。
星承が強いことも、誰より知っている。
それでも。
この瞬間だけは――。
誰も感情を抑えなかった。
三年間積み重ねてきたものが生んだ二点。
素直に。
思い切り。
喜んだ。
一方の星承高校。
ベンチには、呆然とする選手もいた。
応援席からもため息が漏れる。
その空気を切ったのは――。
石川監督だった。
「おい!」
選手たちが振り向く。
石川監督は笑っていた。
「やられたな」
誰も答えない。
「だったら――」
グラウンドを指さした。
「やり返せ」
選手たちの顔が上がる。
「まだ試合は終わってないぞ!」
「はい!」
声が重なった。
マウンド。
石破が川口のところへ歩く。
川口は悔しそうに唇を噛んでいた。
「悪い」
石破が首を横に振る。
「何が?」
「打たれた」
「157だぞ」
川口が石破を見る。
「最高の球だった」
石破は二塁のさおりを見た。
「それを打った、あの主将を褒めるしかない」
川口もさおりを見る。
少し黙った。
そして笑った。
「そうだな」
グラブを叩く。
「やられた」
大きく息を吐いた。
「でも――」
目が変わった。
「このままじゃ終わらせない」
石破が笑う。
「それでいい」
続く玉木。
川口は再びセットポジションへ入った。
今度は迷わない。
石破のミットだけを見る。
投げた。
玉木のバットが空を切った。
「ストライク! バッターアウト!」
三振。
スリーアウト。
十回表、終了。
神谷がスコアボードを見る。
「島大松江高校、十回表に二点を勝ち越しました」
表示が変わる。
島大松江 7
星承高校 5
「7対5。島大松江高校が、ついに前へ出ました」
だが。
桑原の表情は緩まなかった。
「……神谷さん」
「はい」
「私は、まだ終わる気がしないんです」
神谷が桑原を見る。
「と言いますと?」
桑原の目は、星承ベンチを追っていた。
一番・岡本。
そして川口。
水木。
小林。
石破。
誰一人、下を向いていない。
「十回裏。星承高校は無死一、二塁から、この打線です」
一人ひとりがバットを握る。
「二点差は大きい」
桑原が言った。
「ですが――」
間を置いた。
「この星承高校にとって、絶望的な二点差だとは、私は思えません」
島大松江の選手たちが守備へ向かう。
さおりがマスクを手に取る。
こなつがセンターへ。
大和がライトへ。
太一が三塁へ。
そして玉木が、マウンドへ歩き出す。
あと三つ。
三つ取れば――。
甲子園。
だがその三つは、
ここまでのどの三つよりも、
遠い。
十回表。
島大松江高校が三年間積み重ねてきたものは、
二点という――
**成果**になった。
しかし。
まだ、
夏は終わっていない。
十回表のドラマは幕を閉じた。
そして――。
十回裏のドラマは、まだ幕を開けたばかりだった。




