島大松江高校の真夏(しんか)
「川口君の外角低め――石川選手、構えを変えた!」
神谷誠一アナウンサーの声が跳ね上がった。
「セーフティーバントです!」
こなつがバットを寝かせる。
白球はバットの先に当たり、三塁線へ転がった。
「これは際どい!」
三塁手・瀧本は完全に意表を突かれていた。
慌てて前へ飛び出す。
転がる白球へ手を伸ばし、捕球した瞬間――。
「ファウル!」
三塁塁審・高柳が両腕を大きく広げた。
「ファウルです! 惜しい! 石川選手、初球から仕掛けました!」
こなつは一度天を仰いだ。
(完全に決まったと思ったのに……)
そして川口を見た。
(球威に押された。やっぱ川口君、すげえわ。マジでやばい。よく慎之介、あれをバントできたな)
一度見せたセーフティーバント。
当然、次からは警戒される。
普通に打っても、川口の球威に押されれば凡打になる。
ならば――。
(投げさせるしかない)
こなつの目が細くなる。
(何球でも投げさせる。どんな投手だって、ずっと完璧じゃない。必ず一球は来る。その一球を仕留める)
そして、ネクストバッターズサークルへ目を向けた。
さおりがいる。
(何としても、さおりにつなぐ)
そこで、ふと口元が緩んだ。
(そうだよ。私は決めなくていい。つなげればいいんだ)
解説の桑原修司が唸った。
「しかし、川口君の投球は凄いですね。あの石川さんですら、今のところ完全に押されています」
「打ち返すのは難しそうですか?」
神谷が尋ねる。
「難しいですね。ただ、私は一つ気になることがあります」
「と言いますと?」
「なぜ星承高校は、ここまで川口君を登板させなかったのか、ということです」
桑原はグラウンドを見つめた。
「故障明けですから、試合勘の問題もあるでしょう。しかし、それだけではなく、長いイニング、あるいは多くの球数を投げるフィジカル面に、まだ不安がある可能性があります」
神谷が頷く。
「なるほど」
「だから石破君も、できる限り無駄球を使わせていません。川口君ほどの球威があれば、ストライクゾーンで勝負できますからね」
一拍置いた。
「島大松江がそれに気づいているかどうか。そこが、この勝負の分かれ目になるかもしれません。ただし、これはあくまでも私の推測です」
こなつが三塁ベンチを見る。
鈴木監督からサインが出た。
――好球必打。
(だよね)
こなつは小さく頷く。
(絶対につなぐからな、さおり)
「さあ二球目。川口君、投げました!」
真ん中高め。
こなつは動かない。
「ボール!」
球審・岡野の右手は上がらなかった。
「わずかに高い! 石川選手、よく見極めました!」
だが――。
(違うって……)
こなつは額に汗を浮かべた。
(見極めたんじゃない。手が出なかったんだよ。もっと外れてると思ったのに……)
川口は淡々としている。
「さあ三球目。二塁ランナーの鈴木君を確認して……投げた!」
外角。
そこからさらに逃げる。
高速スライダー。
こなつのバットが空を切った。
「ストライク!」
(マジかよ……)
こなつは思わず川口を見る。
(魔球じゃん。当てることもできないんだけど)
そして星承ベンチの石川監督へ視線を向けた。
(あのクソ親父。かわいい娘に、こんなピッチャー当てるか普通)
一瞬、頬を膨らませる。
(むかつく)
だが、すぐに笑った。
(でも、このまま引き下がるこなつ様じゃないからね。見とけよ、星承の名監督さん)
桑原が感心したように言う。
「素晴らしいキレですね。さすがの石川さんも厳しい。何とか球数を投げさせたいのでしょうが、追い込まれました」
第四球。
川口が腕を振る。
「ボール!」
今度はストレートが大きく外へ外れた。
こなつの目がわずかに動いた。
(今のは……)
一球の乱れ。
それだけで投手のリズムが変わることがある。
(たまたまかもしれない。でも、少し制球が乱れた)
何か。
もっと川口へプレッシャーを与えたい。
「カウント、ツーボール・ツーストライク」
桑原が言った。
「川口君としてはフルカウントにはしたくないでしょう。次で決めに来ると思います」
(決めに来る)
こなつも分かっていた。
「第五球、投げた!」
外角高め。
ストレート。
(当たれ!)
振った。
バットの先。
カッ――。
「ファウル!」
白球が三塁側スタンドへ飛び込んだ。
神谷が声を張る。
「かろうじて当てました! 石川選手、何とかファウル!」
星承ベンチ。
石川監督が腕を組んだまま呟いた。
「やるな、こなつ」
普通の打者なら空振りしている。
こなつはバックスクリーンを見る。
表示された球速――。
150キロ。
(待てよ)
慎之介の打席では156キロを記録していた。
(球速が落ちてきてる? それとも制球重視で抑えて投げた?)
どちらかは分からない。
だが、このまま同じ場所で待っていても打ち取られる。
(だったら――揺さぶる)
こなつが動いた。
桑原がすぐに気づいた。
「石川選手、立ち位置を変えました」
「どう変えました?」
「ホームベース寄り、かなりぎりぎりまで近づきました。それに、バッターボックスの中でも少し投手側へ出ています」
神谷が尋ねる。
「どういう狙いでしょうか?」
「まず、ベース寄りに立つことで内角を投げにくくする狙いでしょう。左投手対左打者ですから、厳しく内を突けば死球の危険も高くなる」
桑原は続ける。
「さらに前へ立つことで、変化球が大きく変化する前に捉えようとしている可能性があります」
「なるほど」
「そしてもう一つ」
「もう一つ?」
「川口君に対して、“速球にも対応できますよ”と見せているんです」
だが――。
こなつの本音は違った。
(打ち返せる自信なんてないって)
ただし。
もし川口の球速が本当に少し落ちているのなら、カットはできる。
そして甘く入れば――。
(ワンチャンある)
第六球。
カーブ。
外へ。
「ボール!」
フルカウント。
桑原が頷いた。
「今の球、わずかですが外れました。石川さんがベース寄りに立ったことで、バッテリーの意識が球一個分外へ動いた可能性がありますね」
こなつは苦笑した。
(いやいや……相変わらずやばいから。今のも手出なかったし)
二塁上の太一が、静かに勝負を見ている。
ツーアウト。
フルカウント。
神谷が声を落とした。
「そして二塁ランナー、鈴木君にも注目です」
桑原が頷く。
「走る可能性はあります。鈴木君は俊足ですから。ただし非常に危険でもあります」
「フォアボールの場合ですね」
「そうです。打者が四球になっても二塁走者は三塁への強制進塁ではありません。石破君の送球とフットワークを考えれば、無理に走れば三塁で刺される可能性もある」
桑原は太一を見る。
「逆に、ヒットやエラーなら一気に一点へつながる。鈴木君がどう判断するかも注目です」
石破がサインを出した。
川口が頷く。
「七球目!」
投げた。
こなつの目が大きくなる。
(嘘だろ……ここでそれ投げるの?)
真ん中低め。
チェンジアップ。
完全にタイミングを外された。
ボールになる球。
だが、こなつの身体はすでにスイングを始めていた。
(頼む!)
バットを伸ばす。
(当たってくれ!)
体勢が崩れる。
それでも――。
コツッ。
「ファウル!」
神谷が叫んだ。
「何とか当てた! 石川選手、完全にタイミングを外されながらファウルで逃げました!」
桑原が思わず笑う。
「いやあ……これは凄いですよ。普通なら空振りです」
ネクストバッターズサークル。
さおりが叫んだ。
「ナイスファウル!」
そして心の中で呟く。
(こなつ、すごいよ。私なら空振りしてる)
当のこなつは――。
(ひゃああ……たまらん。心臓止まるって)
一度バッターボックスを外した。
汗を拭う。
(でも私、すごくない? あれに当てたよ。集中力150パーセントだわ)
深呼吸。
(落ち着け。そろそろ来る)
失投。
その一球。
再び構える直前、こなつは一瞬だけバントの構えを見せた。
すぐ戻す。
揺さぶり。
「第八球!」
外角低め。
ストレート。
(大丈夫)
振る。
カンッ!
三塁側へファウル。
こなつはバックスクリーンを見る。
(やっぱ球速、落ちて――)
表示。
155km/h
「えっ?」
思わず声が出た。
(落ちてないじゃん!)
三塁ベンチ。
鈴木監督が目を細めた。
「慣れてきたな」
美佐子が振り向く。
「え?」
「こなつのタイミングが合い始めてる。それに――」
鈴木は川口を見る。
「制球が少しずつ甘くなってきた」
一方、星承ベンチ。
石川監督も同じことに気づいていた。
(気をつけろ、川口)
それでも、球威そのものは衰えていない。
(仮に打たれても、まともに押し返すのは難しい。無理に勝負を急ぐな)
神谷が興奮する。
「155キロ! 石川選手、当ててきました!」
「合ってきましたよ」
桑原も声を弾ませた。
「面白くなってきました」
マウンドの川口も、こなつを見つめる。
(さすが石川監督の娘だ)
一年生の頃から噂だけは聞いていた。
島大松江に、驚異的な打率を誇る女子選手がいる。
しかし当時、公式戦には出場できなかった。
女子選手だったから。
練習試合で対戦する可能性はあったが、怪我などが重なり、結局一度も直接対決する機会はなかった。
(まさかこんな場面で初対決になるとはな)
川口がわずかに笑う。
(でも、ここまでだ)
石破のサインに頷いた。
「九球目、川口君、投げた!」
その瞬間。
こなつの目が光った。
(来た)
ど真ん中。
ストレート。
(待ってた!)
川口の表情が変わる。
石破も気づいた。
(しまった!)
こなつのバットが鋭い軌道を描いた。
カァン!
完璧な音。
「打ったぁ!」
一塁手・水木の頭上を鋭い打球が越えていく。
ライト線へ――。
(よし!)
こなつは走り出した。
(完璧! 三塁まで行ける!)
手応えがあった。
その瞬間だった。
「ファウル!」
塁審が両腕を広げる。
「ファウル! ファウルです!」
神谷が絶叫した。
「わずかです! 本当にぎりぎり! あと数センチ!」
星承高校側から、大きな安堵の声が漏れた。
川口。
石破。
ベンチ。
応援席。
一方の島大松江。
誰もが頭を抱えた。
35度近い真夏の暑ささえ忘れてしまうほどの、一瞬だった。
桑原が息を吐く。
「本当に数センチですね。石川さん、完璧に捉えました」
そして笑った。
「しかし、まだ決着はついていません。いやあ……わくわくする対決です」
島大松江ベンチ。
山内が悔しそうに頭を抱えた。
「完璧だったのにぃ……。やっぱ、こなっちゃん凄いよ」
「確かに」
鈴木監督が呟いた。
ベンチが一瞬静かになる。
八雲が叫んだ。
「監督が褒めた!」
「何だよ」
「いや、鈴木監督が普通に褒めるなんて!」
「褒めたら駄目なのか」
鈴木はグラウンドから目を離さない。
「あれは本物だ」
マウンドへ石破が歩いた。
「やばかったな」
川口が息を吐く。
「やられたと思ったよ」
そしてバッターボックスを見る。
「すごいな。あのシャープなスイング、どこで覚えたんだ?」
石破が黙って島大松江ベンチを指した。
鈴木監督。
川口が苦笑する。
「……確かに」
石破が尋ねた。
「逃げないよな?」
川口は即答した。
「もちろん」
こなつは、かなり消耗していた。
(完璧だったのに……)
川口の失投は、ほとんどない。
ようやく来た一球。
それを仕留めた。
だが、ほんの数センチ。
(でも待てよ)
こなつが顔を上げた。
(今って、私の方が有利じゃない?)
あれだけ完璧に捉えられれば、川口だって動揺する。
(次、腕を振り切れないかも)
制球を気にする。
甘くなる。
棒球が来る。
(こなつちゃん、大チャンスなんじゃない?)
口元が上がった。
(よし。もう一回、揺さぶる)
「さあ再び勝負です!」
神谷の声が球場に響いた。
「川口君の投球か! 石川さんの打撃か! 運命の十球目!」
川口がセットポジションへ入る。
その時だった。
球場がざわついた。
神谷も気づく。
「あっ……!」
こなつが、打席である動作を始めた。
「なんと石川選手! 鈴木監督が現役時代に打席へ入る前に見せていた、あのルーティンです!」
島大松江ベンチ。
「あのバカ……」
鈴木監督が叫んだ。
ベンチが笑う。
石破がマウンドから声を飛ばす。
「川口! 惑わされるな! 俺のミットだけ見ろ!」
川口が頷く。
こなつは、その表情を見逃さなかった。
(変わった)
ほんの少し。
(チャンス)
そしてネクストのさおりを見る。
(さおり)
バットを構える。
(回すからな)
「十球目――川口君、投げた!」
その瞬間。
神谷が叫ぶ。
「あっ! 二塁ランナー鈴木君、スタート!」
太一が走った。
川口の右腕が振り抜かれる。
白球。
内角。
こなつの目が見開かれた。
(やばい)
内角いっぱい。
(想定外だ)
156キロ。
(出ない……!)
バットが。
動かない。
石破のミットが鳴った。
バシッ!
こなつは目を閉じた。
(やられた……)
一瞬。
球場から音が消えた。
球審・岡野。
右手は――。
上がらない。
「ボール!」
こなつが振り向いた。
「……え?」
岡野が告げる。
「フォアボール!」
「ボールです! 石川選手、十球粘ってフォアボール!」
神谷が叫んだ。
だが――。
プレーは終わっていない。
「鈴木君は三塁へ向かっている!」
石破が立ち上がる。
送球。
太一が滑り込む。
砂煙。
高柳塁審が大きく両腕を広げた。
「セーフ!」
球場が揺れた。
「セーフ! 鈴木君、三塁を奪いました! そして石川選手はフォアボール! 二死一、三塁!」
島大松江応援席が爆発する。
桑原が唸った。
「凄いですね」
「石川選手ですか?」
「もちろん石川さんもです。しかし今の鈴木君ですよ」
リプレーを見る。
「川口君と石破君は、石川さんとの十球勝負に完全に集中していた。その一瞬を鈴木君は見逃さなかった」
「事前のサインでしょうか?」
「私は違うと思います」
桑原は太一を見た。
「おそらく自分の判断でしょう。あの場面で走る勇気。そして状況判断。素晴らしいです」
さらに続ける。
「そして川口君。最後の一球も凄い制球でした。ほんの数センチです」
「ということは……」
「ええ」
桑原は笑った。
「さっきのファウルも数センチ。そして今のボールも数センチ。この打席は、最後まで数センチの勝負でした」
こなつが一塁へ向かう。
桑原は言った。
「最初は川口君が完全に圧倒していました。それでも石川さんは一球ごとに対応していった。そして最後は十球目で一塁をもぎ取った」
一拍。
「見応えのある勝負でした」
こなつは一塁ベースを踏んだ。
そして、さおりを見た。
小さく拳を握る。
(つないだぞ)
ネクストから、さおりも小さく拳を返した。
(ありがとう、こなつ)
その時。
「タイムお願いします!」
三塁ベンチ。
鈴木監督が球審へ攻撃側のタイムを求めた。
タイムが認められる。
さおりが鈴木監督を見る。
サイン。
一瞬だった。
さおりの表情が変わった。
(来た)
あの作戦。
鈴木監督が、こなつとさおりにだけ何度も練習させてきたもの。
試合で一度も使っていない。
使う場面がなければ、それでよかった。
成功する保証もない。
だが――。
今。
この瞬間なら。
さおりは三塁側へ向かった。
太一がベース上から振り返る。
「太一」
「はい」
さおりは声を落とした。
「これからやる作戦ね。鈴木監督が、こなつと私にずっと特別練習させてきたものなの」
太一の目が変わった。
さおりは続ける。
「成功するとは限らない」
一塁上のこなつを見る。
こなつもこちらを見ている。
「でも今なら、一番効果がある」
太一は黙って聞いた。
「そして――」
さおりが鈴木監督を見る。
「その指示が出た」
太一が一度だけ頷いた。
さおりが言う。
「太一。あなたならできる」
「……俺が?」
「うん」
さおりは笑った。
「この作戦で一番大事なのは、状況を見て変えることだから」
太一の口元にも笑みが浮かぶ。
「臨機応変、ですね」
「そう」
一塁。
こなつが、両手を腰に当てながらニヤリと笑った。
その顔を見て、さおりも笑った。
太一も。
三人の顔から笑みが消えた。
目だけが変わった。
鋭く。
静かに。
獲物を狙うように。
さおりが言った。
「さあ――」
球場を見渡す。
島大松江。
星承。
どちらのアルプスからも、同じ旋律が鳴り響いていた。
『栄冠は君に輝く』。
相手を倒すためだけの音ではない。
ここまで戦ってきた選手たちを押す音。
両校の想いが、一つの球場を包んでいた。
さおりは太一を見る。
そして一塁のこなつを見る。
最後に、三塁ベンチの鈴木監督を見た。
「――球場を揺らすよ」
太一が頷く。
こなつも頷く。
三人の視線が交わった。
そして――。
二番・竹内さおりが、ゆっくりとバッターボックスへ向かった。
二死一、三塁。
十回表。
島大松江高校の夏は、
まだ終わらない。
いや――。
ここからだった。
三年間積み重ねてきたもの。
失敗したこと。
泣いたこと。
託されたこと。
信じたこと。
そのすべてを見せるための、
島大松江高校の――
真夏が始まる。




