島大松江高校の夏
十回表。
スコアは、五対五。
九回では決着がつかなかった島大松江高校と星承高校の県大会決勝は、ついにタイブレークへ突入した。
ノーアウト、一・二塁。
実況席の神谷誠一が、グラウンドを見渡した。
「さあ、十回表。島大松江高校、タイブレークの攻撃です。打順は九番、佐野君からになります」
二塁には芦田。
一塁には鈴木太一。
「二塁ランナーは俊足の芦田君。そして一塁ランナーも俊足、鈴木君です。桑原さん、ここはどう見ますか?」
桑原修司は、しばらくマウンドの川口を見つめてから答えた。
「ここは、バントでしょうね」
「やはり送りますか」
「本来であれば、ランナー二人とも俊足ですから、いろいろな攻撃パターンが考えられます。ただ、何と言っても九回の川口君の投球です。あれは圧倒的でした。まずはしっかりバントでランナーを進め、二、三塁にして川口君へプレッシャーをかけたい」
そして桑原は、星承高校の内野陣へ視線を移した。
「ただし、そんなことは川口君も、石破君も、内野陣も十分承知しているでしょう。簡単にはバントさせてくれませんよ」
一呼吸。
「佐野君。ここは大事です」
その頃。
島大松江高校ベンチでは、鈴木監督が選手たちを集めていた。
「いいか。ここからが野球だ。集中しろ」
選手たちの表情が引き締まる。
鈴木は続けた。
「そして――自分たちの青春に誇りを持て」
選手たちが監督を見る。
「あいつも、お前たちを信じて見守っている」
鈴木監督が指さした。
ベンチの奥。
そこには、一着のユニフォームが掲げられていた。
竹下大樹。
二年前、島大松江高校野球部を率いた、第20代主将。
そして。
竹下大和の兄。
大和が、そのユニフォームを見つめる。
「監督……ありがとうございます!」
鈴木監督は大和に頷くと、全員へ向き直った。
「今、このベンチには、もう一人主将がいる」
全員が、大樹のユニフォームを見る。
「二年前。俺を助けてくれた、稀代の第20代主将、竹下大樹だ」
鈴木の声が少しだけ震えた。
「俺たちが今、こうしてこの決勝を戦えているのも、あいつがいたからだ」
誰も言葉を発しなかった。
「これから打席へ向かう選手は、大樹に一礼してから行け」
少しだけ笑った。
「監督命令だ」
「はい!」
ベンチに声が響いた。
大和は兄のユニフォームを見つめながら、心の中で語りかけた。
――兄ちゃん。
――まだ、一緒に戦ってくれよ。
◇
その頃。
グラウンドを挟んだ反対側。
星承高校応援席にいる応援団長・鬼塚の携帯電話が震えた。
画面を見る。
島崎。
島大松江高校応援主将の名前だった。
鬼塚がグラウンドの向こうを見ると、一塁側の応援席から島崎もこちらを見ている。
電話に出た。
「もしもし」
「お疲れさまです」
島崎だった。
「お疲れさまです」
「相変わらず、星承高校の応援団、きついっすわ」
鬼塚が笑う。
「きつい?」
「凄すぎます。本当に感服します」
鬼塚はグラウンド越しに島大松江高校の応援席を見た。
「とんでもない。島大松江高校の応援こそ凄いですよ」
そして少し笑った。
「特にフライングゲット。正直、うちはお手上げでした」
島崎も笑った。
しかし、二人の言葉に嘘はなかった。
本気で。
相手の応援を認めていた。
勝ちたい。
絶対に負けたくない。
だが、それと相手への敬意は別だった。
島崎の声が少し変わった。
「実は……お願いがあるんですが」
「お願い?」
鬼塚は、何かを察したようにグラウンドを見た。
「今は島大松江高校の攻撃です。攻撃側の応援時間ですから、私たちは守備をする星承の選手たちを、静かに祈るように応援するしかありません」
少し間を置いた。
「何をする気ですか?」
島崎が答えた。
「一緒に、自分の高校を応援しませんか」
鬼塚の表情が止まった。
「……一緒に?」
「はい」
島崎は続ける。
「島大松江は島大松江を応援する。星承高校は星承高校を応援する」
一呼吸。
「でも――同じ曲で」
鬼塚は黙った。
「攻撃側の応援。守備側の応援。両方を一つの曲に合わせるんです」
「……」
「お互い、自分たちの大好きな選手を応援しましょう。攻撃も守備も関係ない。両校の選手を、公平に応援できる球場にしませんか」
鬼塚は、思わず尋ねた。
「いいんですか?」
「本来なら事前に協議した方がよかったようですが、この形自体は禁止されていない。だから、やります」
そして島崎は少し笑った。
「ただし、一つだけ条件があります」
「条件?」
「曲は、島大松江高校に選ばせてください」
鬼塚も吹き出した。
「そこは譲らないんですね」
「今、うちの攻撃ですから」
「分かりました」
「今から携帯に譜面を送ります。まず、こちらから演奏を始めます。リズムを聞いて、星承高校も合わせて入ってください」
しばらく沈黙したあと。
鬼塚が答えた。
「ありがとうございます」
電話を切った。
ほどなくして、鬼塚の携帯へ次々と譜面が送られてくる。
曲名を見た。
鬼塚の胸に、一つの言葉が浮かんだ。
――敵に塩を送る。
勝負の相手だからこそ、弱みにつけ込むのではない。
敬意を持ち。
真正面から戦う。
鬼塚は携帯を握ったまま、グラウンドの向こう側へ向かって深く頭を下げた。
島崎も気づいた。
深く。
一礼を返した。
◇
「さあ、川口君。セットポジションから――」
神谷の実況が再び球場へ響く。
川口。
投げた。
ズバンッ!
慎之介は見送った。
「ストライク!」
スコアボード。
153キロ。
「外角いっぱい! 百五十三キロのストレート! まず川口君、ストライクで先手を取ります!」
桑原。
「いい球ですね」
しかし神谷が、少し不思議そうな声を出した。
「あれ?」
「どうしました?」
「佐野君、バントの構えをしませんでした」
「そうですね」
神谷は、もう一つ気づいた。
「あれ……?」
一塁側の応援席を見る。
静かだった。
太鼓も鳴っていない。
吹奏楽も楽器を構えたまま。
「島大松江高校の応援団……動いていません」
桑原もスタンドを見る。
「本当ですね。あれだけ見事な応援を繰り広げていたのに」
「何かあったのでしょうか」
何かがあったわけではない。
間に合っていなかった。
今回の応援は、島崎が自ら考えたものだった。
どうしても。
この曲で応援したかった。
しかも。
星承高校にも参加してほしかった。
譜面の配布。
キー。
テンポ。
演奏開始の合図。
歌声を入れるタイミング。
短時間で確認しなければならないことが多すぎる。
島崎は焦っていた。
――頼む。
――間に合ってくれ。
しかし。
試合は待ってくれない。
◇
打席の慎之介は。
緊張していた。
心臓の鼓動が、自分にも聞こえるようだった。
その時。
「お兄ちゃーん!」
慎之介が振り返る。
ひまわりだった。
「頑張れー!」
妹の声。
慎之介は、少しだけ笑った。
――そうだ。
マウンドを見る。
九回、島大松江打線を圧倒した川口。
百五十六キロ。
怪物。
……違う。
「よし」
慎之介が小さく呟く。
「川口君だって、同じ十八歳だ」
バットを握り直す。
「怪物なんかじゃない」
ベンチから。
鈴木監督のサイン。
送りバント。
慎之介の目が細くなる。
川口の球威。
普通にバットへ当てれば、バントでもフライになる可能性がある。
――転がせ。
――何があっても。
神谷。
「島大松江高校、まだ応援は始まりません。しかし試合は進みます。さあ、注目の第二球!」
慎之介。
――ストレートで押してくる。
――強く当てないと、フライになる。
川口。
セット。
その瞬間だった。
神谷が叫ぶ。
「あっ! 二塁・芦田君! 一塁・鈴木君! 一斉にスタート!」
慎之介。
バントの構え。
――さあ来い!
川口。
投げた。
慎之介は。
一瞬。
ストレートだと思った。
違う。
外から鋭く曲がってくる。
高速スライダー。
左腕、川口から繰り出された高速変化球。
――やばい!
しかも。
高い。
――空振りしたら。
石破は強肩。
俊足の芦田でさえ。
三塁で刺される。
しかし。
当て方を間違えれば。
――フライになる!
ほんの一瞬。
慎之介の頭の中を、いくつもの考えが駆け抜けた。
――どうする。
――どうすればいい。
そして。
最後に残った。
鈴木監督の言葉。
――転がせ。
――何があっても。
慎之介は。
最後の瞬間。
バットの角度を変えた。
コンッ!
白球。
三塁線へ。
見事な勢いで転がった。
――入った!
慎之介はそう思った。
しかし。
打球を確認するより早く。
三塁手・瀧本が猛烈な勢いで前へ出てきた。
――えっ?
瀧本。
捕球。
一切迷わず。
三塁へ送球。
そこにはすでに。
ショート・岡本が入っていた。
芦田。
滑り込む。
「アウト!」
慎之介の目が見開く。
――読まれてた!
完璧な。
バントシフト。
あまりにも鮮やかな守備。
慎之介自身が。
ほんの一瞬。
一塁へのスタートを遅らせてしまった。
「走れ!」
ベンチから声が飛ぶ。
慎之介。
我に返る。
全力疾走。
三塁の岡本。
すでに。
一塁へ腕を振っていた。
矢のような送球。
慎之介。
最後は。
頭から飛び込んだ。
一塁。
捕球。
塁審の右腕が。
上がった。
「アウト!」
神谷。
「アウト! アウトです!」
球場がどよめく。
「なんと! ノーアウト一、二塁から、わずか二球でツーアウト二塁!」
二塁には。
鈴木太一だけが残った。
星承高校応援席。
大歓声。
川口が拳を握る。
石破もマスク越しに吠えた。
桑原。
「いやあ――見事な守備でした!」
神谷。
「完全に読んでいましたか?」
「そうですね。石破君は完全に読んでいたと思います。そして川口君も見事に投げ切りました。初球のストレートを佐野君が見送った時点で、投手、捕手、内野陣が一つになって次のプレーへ備えていたのでしょう」
だが。
桑原は続けた。
「ただ、佐野君は責められません」
「と言いますと?」
「あの高速スライダーですよ。それも高め。普通ならバントフライになってもおかしくない。それを三塁線へ、きちんとゴロにした」
一呼吸。
「素晴らしいバントです」
「では?」
「結果として、星承高校の守備がそれ以上だったということです」
桑原が息を吐く。
「いやあ。星承高校、やはり恐るべしです」
◇
慎之介は。
ベンチへ戻った。
入口で立ち止まり。
深く頭を下げる。
「すみません……」
だが。
返ってきたのは。
拍手だった。
慎之介が顔を上げる。
山内がいた。
「慎ちゃん」
いつもの笑顔。
「僕なら、あんな球かすりもしないよ」
「……」
「すごいよ」
慎之介は下を向く。
「でも……結果はダブルプレーです」
鈴木監督が、慎之介の前に立った。
「顔を上げろ」
慎之介がゆっくり顔を上げる。
「見事な送りバントだった」
「監督……」
「普通なら成功していた。それくらい素晴らしいところへ転がした」
慎之介の目に涙がたまる。
鈴木。
「三年間頑張ってきた力」
慎之介の肩を叩いた。
「ちゃんと出したじゃないか」
その時。
「お兄ちゃん!」
慎之介が振り返る。
ひまわり。
泣きながら。
笑っていた。
「かっこよかったよ!」
慎之介。
堪え切れず。
笑った。
しかし。
ベンチの全員が。
同時に感じていた。
自分たちがミスをしたのではない。
慎之介が失敗したのでもない。
星承高校が強かった。
その現実を。
もう一度。
突きつけられた。
実況席。
桑原が。
改めて言った。
「いやあ……本当に最高の守備でした」
神谷。
「しかし!」
一呼吸。
「星承高校も、安心はできません!」
◇
島大松江ベンチ。
一人の選手が。
立ち上がった。
石川こなつ。
だが。
すぐには。
打席へ向かわなかった。
ベンチの奥。
大樹のユニフォーム。
こなつは。
その前へ。
静かに立った。
そして。
深く。
頭を下げた。
――行ってきます。
顔を上げる。
いつもの。
こなつの表情。
場内アナウンス。
「一番、センター――石川さん」
球場から。
歓声。
神谷。
「ここで島大松江高校、一番・石川こなつ選手!」
「チーム打率、出塁率ナンバーワン!」
「そして今日は初回にランニングホームランを放っています!」
マウンド。
川口。
打席。
こなつ。
「川口君対、石川さん!」
「注目の対決です!」
桑原。
「本来なら勝負を避けたいところでしょうね」
神谷。
「歩かせるということですか?」
「そうです」
桑原は。
ネクストバッターズサークルを見る。
そこには。
竹内さおり。
「ただし、次の打者は主将の竹内さんです」
「はい」
「長打力がある。右打者。そして、得点圏打率はチームナンバーワン」
神谷。
「つまり」
「石川さんから逃げても――竹内さんがいる」
桑原。
「その通りです」
その時だった。
一塁側。
島大松江高校応援席。
突然。
動き始めた。
神谷。
「島大松江高校!」
「応援が始まりました!」
そして。
数秒。
「あっ……」
神谷の声が止まる。
「この曲は――」
球場へ。
聞き慣れた旋律が。
流れ始める。
『栄冠は君に輝く』
神谷。
「『栄冠は君に輝く』です!」
だが。
次の瞬間。
神谷の声が。
さらに大きくなる。
「ちょっと待ってください!」
反対側。
星承高校応援席。
鬼塚が。
腕を振り下ろした。
吹奏楽。
太鼓。
歌声。
少し遅れて。
同じ旋律が。
重なる。
「星承高校も!」
「島大松江高校に合わせています!」
「両校!」
「同じ『栄冠は君に輝く』です!」
球場全体。
騒然。
島大松江側は。
こなつを。
太一を。
攻撃する仲間を。
応援する。
星承高校側は。
川口を。
石破を。
守る仲間を。
応援する。
同じ曲。
違う願い。
だが。
どちらも。
愛する選手のために。
声を出していた。
神谷。
「私は長く高校野球を実況してきましたが……」
声が。
少し震える。
「初めてです」
「両校の応援団が!」
「同じ曲を!」
「同時に演奏しています!」
桑原も。
スタンドを見つめていた。
「おそらく」
「両校応援団の間で、何らかの意思疎通があったのでしょう」
「私も応援団の細かな規則までは分かりません。しかし、大会関係者が止めていない」
そして。
グラウンドを見る。
「それ以上に――」
一呼吸。
「この凄い試合を」
「素晴らしい応援が」
「さらに押しています」
桑原の目が。
少し潤んだ。
「もう私は……」
笑った。
「感動を通り越しましたよ」
神谷は。
黙って聞いた。
桑原。
「この試合は」
「インターネットで全国へ中継されているそうですね」
「はい」
「だったら」
桑原は。
マイクへ。
はっきりと言った。
「一言、言わせてください」
そして。
球場を。
見渡した。
「これが今、行われている島根県の高校野球の全てです」
◇
大歓声。
二つの応援。
その中を。
こなつは。
バッターボックスへ向かっていた。
マウンドを見た。
川口。
そして。
その向こう。
星承高校ベンチ。
石川監督。
こなつの父。
父と。
娘。
だが。
今。
二人の間にあるのは。
親子という関係ではない。
勝負。
星承高校監督。
石川。
島大松江高校。
一番打者。
石川こなつ。
石川監督は。
娘を見ながら。
考えていた。
――勝負だ。
こなつの。
唯一と言っていい弱点。
内角高めの。
速球。
今の川口なら。
そこへ投げ切れる。
――勝負球は。
――内角高め。
ただし。
最初からは。
使わない。
こなつは。
全国でも通用する。
アベレージヒッター。
たとえ。
詰まらせても。
ゴロになれば。
あの足で。
内野安打にする。
――勝負球は。
――後半だ。
石川監督は。
捕手。
石破を見る。
――散らせ。
――最後に。
――川口へ。
――勝負させろ。
実況席。
神谷。
「二死二塁」
「一塁は空いています!」
「しかし星承高校!」
「勝負に行くようです!」
桑原。
「でしょうね」
こなつ。
バットを握る。
――何としても。
――塁に出る。
ネクスト。
さおりを見る。
――さおりに。
――つなぐんだ。
桑原。
「ある意味では」
「親子対決でもありますね」
神谷。
「父・石川監督」
「娘・石川こなつ選手」
桑原。
こなつと。
父親を。
交互に見る。
そして。
静かに言った。
「この勝負――死闘になりますよ」
神谷。
「さあ!」
「石川選手に対して!」
「川口君!」
「セットポジションから――」
川口。
第一球。
投げた!
その瞬間。
こなつの体が。
動いた。
バットを。
横へ。
神谷。
「おおっと!」
声が。
裏返る。
「石川選手!」
「セーフティーバントの構えに変えたー!」
三塁手。
瀧本。
猛然と。
前へ。
石川監督の目が。
見開いた。
川口のボールが。
ホームへ。
迫る――。




