野球
決勝戦前日。
夕暮れ。
島大松江高校のグラウンドを見下ろす、小高い丘。
夏の強い日差しはすでに傾き、グラウンドを橙色に染めていた。
練習を終えた選手たちの声も、少しずつ遠くなっている。
その丘の上に、二人の男が並んで立っていた。
鈴木監督。
そして、バーンズコーチ。
二人はしばらく何も話さず、眼下のグラウンドを眺めていた。
やがてバーンズが口を開いた。
「鈴木」
「ん?」
「三年前、君は夢見ていたライナーズの監督に内定していた」
鈴木は黙ったまま、グラウンドを見ている。
「なのに返事を保留した。そして一か月後、君から返ってきた言葉は――」
バーンズは、鈴木の顔を見る。
「三年待ってほしい、だった」
鈴木が小さく笑った。
「よく覚えているな」
「忘れるわけないだろ。メジャーの監督になれる男が、三年待ってくれなんて言うんだから」
そしてバーンズは尋ねた。
「そのあと君は日本へ戻った。プロ野球じゃない。高校野球の監督になった」
一呼吸。
「ずっと聞きたかった。なぜ島大松江高校だったんだ?」
鈴木は少し考えた。
そして、笑顔で答えた。
「答えを探しに戻ってきたんだ」
「答え?」
「ああ」
鈴木は夕暮れの空を見上げた。
「高校を卒業して、日本のプロ野球にドラフトされた。必死に努力した。結果も出した。そして、夢だったメジャーリーガーになれた」
バーンズが頷く。
「そして君はメジャーでもスーパースターになった」
少し照れくさそうに笑う。
「正直に言えば、最初は僕も、日本人選手があそこまで活躍できるとは思っていなかった」
「ひどいな」
「だから正直に言ってるんだ」
二人が笑った。
だがバーンズは、すぐに真顔になった。
「でも君は成し遂げた」
「僕たちが勝手に作っていた常識まで変えた」
そして鈴木の肩に手を置いた。
「今、僕の隣にいる君は――ベストプレイヤーで、ベストフレンドだ」
鈴木はバーンズを見る。
「ありがとう」
そして笑った。
「最高の褒め言葉だよ」
少しの沈黙。
鈴木が今度は問いかけた。
「バーンズ」
「何だ?」
「君がベースボールを愛していることは分かってる」
「もちろん」
「じゃあ、聞くよ」
鈴木は少し笑った。
「いつのベースボールが、一番楽しかった?」
バーンズが眉を上げた。
「えっ?」
「いつだ。どの頃が一番楽しかった?」
バーンズは即答した。
「もちろんメジャーだよ」
「特に鈴木、お前と戦ったワールドシリーズ第七戦。あのゲームは最高だった」
鈴木が頷く。
「ああ。いい試合だったな」
そしてニヤリとする。
「負けたけどな」
「それを言うな!」
二人の笑い声が丘に響いた。
しばらくして、鈴木が静かに話し始めた。
「俺はずっと野球のことを考えてきた」
「何のためにプレーする?」
「好きだから」
「誰のため?」
「自分のため」
そして首を振った。
「いや……それだけじゃない」
バーンズが黙って聞いている。
「野球を愛してくれる人のためでもある」
「じゃあ、自分が一番楽しかった野球はいつだった?」
鈴木は遠い昔を思い出すように目を細めた。
「最初はメジャーだと思っていた」
「でも、何か違った」
「それで思い出したんだ。幼い頃、初めて野球の試合に出て、初めてヒットを打った時のことを」
微笑む。
「あれが、俺の野球の始まりだった」
「一塁に立って振り返ったら、応援に来ていた父さんと母さんが、手を叩いて喜んでくれていた」
「俺も嬉しかった」
「楽しかった」
バーンズの顔がほころんだ。
「そうだ。思い出したよ」
「僕も子供の頃、ホームランを打つと、ダディもマムも大喜びだった」
大きな手を広げる。
「その夜は、いつもステーキだった」
鈴木が吹き出した。
「それなら毎試合ホームランを狙うな」
「もちろんだ!」
また二人が笑った。
だが鈴木は、そのあと静かに言った。
「でもな」
「もっと好きだった時代があった」
バーンズが鈴木を見る。
「鈴木……それは、もしかしてハイスクール時代なのか?」
「ああ」
鈴木はゆっくりと頷いた。
そして眼下のグラウンドを指さした。
「それに気づかせてくれたのが――あいつらだ」
バーンズが視線を向ける。
グラウンドでは、さおりとこなつがキャッチボールをしていた。
夕日の中。
白球が二人の間を行き来している。
鈴木は話を続けた。
「俺は島根県知事から、高校野球の監督をやってみないかと声をかけられた」
「美佐子は?」
「賛成もしなかった。反対もしなかった」
鈴木は笑う。
「昔からそうなんだ」
――あなたが好きなようにすればいい。
――ただ、あなたが選んだ道を全力で支える。それが妻として、パートナーとしての私の役割だから。
「美佐子らしいな」
「ああ」
だが鈴木の表情が曇る。
「俺は断るつもりだった」
「なぜ?」
「怖かったんだ」
バーンズが驚いた。
「君が?」
「ああ」
「なぜ怖い? 君の野球は素晴らしかった。情熱も、技術も、野球に対する姿勢も。あらゆる面で君はスーパースターだった」
バーンズは首を振る。
「そんな君が、高校野球を怖がるのか?」
「怖かったよ」
鈴木は即答した。
「自分で野球をするのとは違う」
グラウンドを見る。
「高校野球は、ただ野球を教えればいいわけじゃない」
「規律」
「友情」
「信頼」
「努力」
「ある意味――人生まで教えなければならない、アメリカでは試合をゲームという。しかし日本の高校野球ではほとんどゲームという言葉を使わない。ゲームじゃなくて試合だ。私は、高校時代の監督に試合というのは実は同じ志を持った者と相対すること、志相という文字が適格であると教えられた」
バーンズが黙った。
「あの子たちの高校生活は、たった三年間しかない」
「二度と戻ってこない青春だ」
「その大切な時間を、自分が預かっていいのか」
鈴木は小さく息を吐く。
「自信がなかった」
バーンズは何も言わなかった。
「でも、断ろうと思うたびに、何かが引っかかっていた」
「それで、ある日の早朝」
鈴木はグラウンドを見た。
「ここへ来てみた」
「誰もいないと思っていた」
少し笑う。
「そしたら――いたんだよ」
バーンズが言う。
「さおりと、こなつ」
「ああ」
「まだ中学生だった二人が、汗びっしょりになってキャッチボールをして、素振りをしていた」
「ものすごい練習だった」
「俺はすぐに素質を感じた」
そして鈴木は、その日のことを思い出した。
「なあ、君たち」
二人が振り返った。
「どうして、こんな朝早くから練習してるんだ?」
その瞬間。
こなつの顔が固まった。
「……え?」
そして。
「キャーッ!」
鈴木が驚いた。
「え?」
丘の上のバーンズが大笑いする。
「なんで叫ぶんだ。君はただ話しかけただけだろ」
「こなつは俺の大ファンだったんだよ」
「なるほど」
「まさか、こんなところで俺に会って、しかも話しかけられるなんて思ってなかったらしい」
鈴木も笑う。
「さおりなんて直立不動だ」
「声も出なかった」
「さおりが?」
「ああ」
「まあ……世界の鈴木が突然現れれば、そうなるか」
鈴木は、言葉を変えて二人に聞いた。
「野球は好きですか?」
すると今度は。
二人とも即座に答えた。
満面の笑顔で。
「はい! 大好きです!」
鈴木は続けた。
「君たちは高校生?」
さおりが答える。
「いいえ。まだ中学生です」
「四月から、二人とも島大松江高校に入学します」
こなつも、まだ少し緊張しながら頷いた。
「この学校には女子野球部があるの?」
二人は首を横に振る。
「ありません」
「じゃあ……どうしてここで練習してるの?」
さおりが答えた。
「野球部に入るんです」
鈴木は聞き返した。
「野球部?」
「はい」
「男子の野球部に?」
「はい」
鈴木は少し言葉に詰まった。
「でも……」
事実を告げる。
「どれだけ頑張っても、今のルールでは女子は公式戦に出られないんだよ」
二人は顔を見合わせた。
そして、さおりが笑った。
「知っています」
「え?」
「私たち二人で決めたんです」
こなつも頷く。
「試合に出られなくても野球部に入ります」
「好きな野球を、思う存分やるんです」
鈴木は言葉を失った。
――この子たち。
――本当に野球が好きなんだ。
「そうか」
鈴木は笑った。
「頑張ってね」
そして冗談半分に言った。
「もし君たちがいつか認められて、公式戦にも出られるようになって」
少し笑う。
「そのうえ甲子園まで行くようなことになったら――」
「俺、絶対に応援に行くから」
こなつが目を輝かせた。
「本当ですか!?」
「ああ」
鈴木は手を振り、その場を離れようとした。
その時だった。
背後から声がした。
「鈴木さん!」
こなつだった。
鈴木が振り返る。
「ん?」
「引退しても……野球、好きですか?」
少し意外な質問だった。
「好きだよ」
「今、楽しいですか?」
鈴木は少し考えた。
「それなりに楽しいよ。外から野球を見るのも、思っていたより面白いからね」
「そうですか」
こなつは頭を下げた。
「すみません。急に変なこと聞いて」
「いいよ」
こなつが、もう一度口を開いた。
「最後に、もう一つだけ聞いてもいいですか?」
「ああ」
隣でさおりが慌てる。
「ちょっと、こなつ。図々しいわよ」
だが、こなつは鈴木を真っ直ぐ見ていた。
そして尋ねた。
「鈴木さんが、野球をしていて一番楽しかった、一番幸せだった時って――いつですか?」
丘の上。
鈴木がバーンズを見る。
「バーンズ」
「ん?」
「さっき俺がお前に聞いた質問」
バーンズが気づく。
「ああ……」
「三年前、こなつが俺にした質問なんだ」
鈴木は続ける。
「俺は少し考えて、幼い頃だと答えた」
「子供の頃かな」
「初めてヒットを打った時、父さんと母さんがものすごく喜んでくれた」
すると。
こなつが首を傾げた。
「本当にそうですか?」
「え?」
「それって……嬉しかった時じゃないですか?」
鈴木は黙った。
「楽しかった時とは、少し違う気がします」
「こなつ!」
さおりが慌てる。
「あんた、鈴木さんに失礼でしょ!」
だが。
鈴木は何も言わなかった。
こなつの言葉が、胸に引っかかっていた。
――嬉しい。
――楽しい。
確かに。
同じではない。
幼い頃は、ただ夢中で白球を追っていた。
まだ技術も知識も十分ではなかった。
では――。
自分が野球というものを理解し、その難しさも、苦しさも、面白さも知ったうえで。
一番楽しかった時は?
鈴木の頭に浮かんだ。
仲間たちの顔。
泥だらけのユニフォーム。
厳しかった監督。
負けて泣いた日。
勝って抱き合った日。
そして――。
甲子園。
鈴木が笑った。
「そうだね」
二人が見る。
「本当に一番楽しかったのは――高校野球だった」
「高校野球?」
「ああ」
「仲間と一緒になって努力した」
「野球だけじゃない」
「監督から夢や希望を教えてもらった」
「挫折した時に立ち上がることも教えてもらった」
「仲間を信じることも」
「そして俺たちは甲子園へ行った」
鈴木の顔に笑みが広がる。
「あの三年間は、何にも代えられない」
「みんなで青春を分かち合った」
「メジャーリーガーになることは俺の夢だった」
「メジャーで野球をすることも、本当に楽しかった」
「でも――」
二人を見る。
「その夢を持てたのも、あの高校三年間があったからなんだ」
こなつとさおりが顔を見合わせた。
そして。
二人同時に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
鈴木が驚く。
「何が?」
さおりが答えた。
「またいつか鈴木さんにお会いできるまで、一生懸命練習します」
こなつが続ける。
「もっともっと、野球が上手くなっておきます!」
そして二人で。
「またお会いできることを信じて頑張ります!」
「ありがとうございました!」
再び深々と頭を下げた。
鈴木は、二人を見つめた。
そして思った。
――教えられたのは。
――俺の方じゃないか。
監督になることが怖かった。
高校生の三年間を預かることが怖かった。
でも。
もし、この子たちと一緒に野球をしたら。
もし、自分が高校時代にもらったものを、この子たちへ渡すことができたら。
――きっと。
――楽しいだろうな。
その瞬間。
鈴木の中で答えが決まった。
監督になろう。
この子たちに野球を教えよう。
いや。
野球だけじゃない。
自分が高校野球から教えてもらったものを伝えよう。
友情。
信頼。
努力。
失敗。
立ち上がること。
仲間を思うこと。
そして――。
野球を、心から楽しむこと。
この島大松江高校で。
もう一度。
高校野球を堪能しよう。
鈴木は歩き出した。
そして、途中で振り返る。
二人に向かって手を振った。
「じゃあ――」
笑う。
「近々、また会えるよ」
「え?」
意味が分からないまま。
こなつとさおりも笑顔で手を振った。
「はい!」
「また!」
丘の上。
鈴木の話が終わった。
いつの間にか。
バーンズは泣いていた。
「おい」
鈴木が笑う。
「なんでお前が泣いてるんだよ」
バーンズは袖で目を拭った。
「うるさい」
そして眼下のグラウンドを見た。
今。
同じ場所で。
三年前、中学生だった二人がキャッチボールをしている。
こなつ。
さおり。
明日。
彼女たちは、甲子園を懸けた決勝戦に立つ。
バーンズが小さく言った。
「甲子園……行きたいよな」
鈴木は答えない。
「みんなも」
そして。
バーンズが鈴木を見る。
「鈴木も――行きたいよな」
鈴木の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
勝てば。
島大松江高校は甲子園へ行く。
だが――。
鈴木にはライナーズとの契約がある。
三年間。
その約束は、明日の決勝が終われば満了する。
甲子園出場を決めても。
自分は――。
バーンズは何も言わなかった。
ただ。
大きな身体で、鈴木を抱きしめた。
「おい、バーンズ」
鈴木が苦笑する。
「暑苦しいよ」
それでもバーンズは離さなかった。
「三年間」
声が震えていた。
「よく頑張ったな」
鈴木はしばらく黙っていた。
そして。
バーンズの背中を軽く叩いた。
「まだだよ」
バーンズが顔を上げる。
鈴木は、グラウンドを見た。
こなつが投げる。
さおりが受ける。
白球が夕日の中を飛ぶ。
「まだ――あと一試合ある」
そして。
翌日。
九回裏。
島大松江 5
星承高校 4
甲子園まで――あと三つ。
玉木が、ゆっくりとマウンドへ向かっていく。
その背中を見つめながら。
鈴木は三年前を思い出していた。
あの日。
一人の少女に聞かれた。
――野球が一番楽しかった時は、いつですか。
そして今。
鈴木は、小さく笑った。
もしかしたら。
答えはもう一つ、増えるのかもしれない。
今日。
この日が。
自分の人生で一番楽しかった野球になるのかもしれない。
鈴木はマウンドへ向かう玉木を見つめた。
「行ってこい」
そして。
誰にも聞こえない声で続けた。
「みんなで――甲子園へ行こう」
九回裏。
星承高校、最後の攻撃。
プレイボール。




