9回表 誰がために
九回表。
スコアボードには、変わらぬ数字が刻まれている。
島大松江 5
星承 4
あと一回。
島大松江にとっては、追加点を奪う最後の攻撃。
そして、この裏を守り切れば――甲子園。
球場全体が、その意味を理解していた。
島大松江応援席。
島崎が静かに立ち上がった。
応援団長・長谷川。
吹奏楽部長・青木。
チアリーダーの江上。
合唱隊。
それぞれに視線を送る。
島崎が右手を上げた。
「――行くぞ」
青木の指揮棒が振り下ろされる。
その瞬間。
島大松江の魔曲――
『誰がために』
の演奏が始まった。
だが。
次の瞬間、球場がざわめいた。
島大松江の応援団が――。
一斉に。
グラウンドへ背を向けた。
「え?」
「なんだ?」
「試合を見ないのか?」
違った。
彼らが向いた先。
それは――観客席だった。
吹奏楽部員が、一人、また一人と立ち上がる。
やがて全員が立奏となった。
金管楽器が高々と掲げられ、身体全体で音を鳴らす。
合唱隊も、グラウンドを見ていない。
両腕を大きく広げ、観客席へ向かって声を放つ。
応援団も。
チアも。
そして団長の長谷川までもが、スタンドへ向けて拳を突き上げた。
「もっと!」
「声をください!」
「島大松江を――甲子園へ!」
それまで座っていた観客が、一人、また一人と立ち上がった。
手拍子が生まれる。
声が重なる。
島大松江の応援席だけだった音が、隣のブロックへ。
その隣へ。
内野へ。
外野へ。
まるで波のように広がっていく。
実況席の神谷誠一が身を乗り出した。
「島大松江応援団が――観客に向けて応援を鼓舞しています!」
声がさらに大きくなる。
「応援団がグラウンドに背を向けています! これはいったい何という応援でしょうか! 球場が予想外の行動に騒然となっています!」
桑原修司も目を見開いていた。
「私も多くの試合、多くの応援団を見てきましたが……こんな応援は初めてかもしれません」
そして、球場を包み始めた声に耳を傾ける。
「それにしても、すごい声援ですね」
一呼吸。
「これは驚きです。そして星承高校にとっては――脅威でしょう」
島大松江ベンチ。
鈴木監督が立ち上がった。
「あの応援を見ろ」
選手たちがスタンドを見る。
「彼らも、勝利のために必死なんだ」
鈴木の声が強くなる。
「きれいごとは言わない」
全員が監督を見る。
「勝て」
一瞬の沈黙。
「打て」
そして鈴木は、球場全体へ広がり始めた応援を指さした。
「いいか」
「あの応援団を引き連れて――」
声を張る。
「みんなで必ず行くんだ。甲子園へ」
さおりが頷く。
こなつが拳を握る。
大和がバットを握り直す。
八雲もベンチの奥から、黙って仲間を見ていた。
全員が頷いた。
一方。
星承ベンチ。
石川監督は、島大松江の応援席を眺めていた。
やがて、小さく笑った。
「やるなあ……島大松江高校」
選手たちが監督を見る。
「私たちは、いったい誰と試合をしているんだ」
そして表情を引き締める。
「だがな」
「諦めるな」
石川監督は選手たちを見渡した。
「この攻撃を凌ぐ」
「そして最終回――」
拳を握る。
「我々が逆転する」
そのあと。
石川監督は、一人の選手の肩を叩いた。
「投球練習を始めてくれ」
その選手が顔を上げる。
「この流れを食い止め、逆転するには――お前の力が必要だ」
少しの沈黙。
「……分かりました」
立ち上がった背中。
背番号14。
川口智也。
川口がブルペンへ向かう。
実況席がすぐに気づいた。
「あっ!」
神谷が叫んだ。
「川口君です! 星承高校、背番号14・川口君が投球練習を始めました!」
球場に新たなどよめきが起こる。
「川口君はケガのため、一年間公式戦のマウンドから離れていました!」
「かつて星承のエースナンバーを背負った左腕です!」
「その川口君が今――この夏初めて、ブルペンで投球練習を始めました!」
星承ベンチ。
小林が立ち上がった。
「川口……」
水木も。
石破も。
黙って、その背中を見つめる。
桑原が静かに呟いた。
「……すごい決勝戦ですね」
神谷が解説席を見る。
桑原は少し笑った。
「解説者としては失格かもしれませんが」
球場全体を見渡す。
「一人の高校野球ファンとしては――ずっとこの試合が決着せず、見ていたいような気持ちになっています」
そして真っ直ぐグラウンドを見つめた。
「島大松江高校も、星承高校も、本当に素晴らしい」
「さあ九回」
「両校の戦いを、この目に焼き付けたいと思います」
試合が再開された。
六番・塙。
マウンドには蓮佛健吾。
初球。
スライダー。
空振り。
二球目。
速球をファウル。
そして三球目。
再び鋭く落ちるスライダー。
塙のバットが空を切った。
「ストライク! バッターアウト!」
ワンアウト。
七番・芦田。
蓮佛はまったく動じていない。
低めへ変化球。
芦田が打った。
セカンド正面。
青山が処理する。
一塁へ。
「アウト!」
ツーアウト。
島大松江。
九回表。
あっという間に、あと一人。
そして八番。
太一が立ち上がる。
その瞬間だった。
神谷の声が跳ね上がる。
「ここで星承高校が動きます!」
場内アナウンス。
「星承高校、ピッチャー蓮佛君に代わりまして――川口君」
大歓声。
「なんと!」
神谷が叫ぶ。
「星承高校、ここで好投を続けていた蓮佛君に代えて、この夏初登板となる川口君を投入してきました!」
桑原も頷いた。
「太一君は強打者です。そして一発があります」
ブルペンから川口が歩いてくる。
「そして何より、石川監督はこの流れを変えるため――ここで勝負に出ましたね」
島大松江ベンチ。
鈴木監督の顔が険しくなった。
太一は、ゆっくりと打席へ向かう。
(ここは何とか塁に出る)
(少しでも流れを変えなきゃ)
マウンドには、元エース。
太一がバットを握る。
(元エースなら――)
口元がわずかに笑った。
(こっちも全力で打ち返す)
川口がマウンドに立った。
石破からボールを受け取る。
球場が静まる。
神谷。
「さあ――注目の第一球です」
星承ベンチ。
小林が呟いた。
「頼んだぞ、川口」
川口は一瞬――。
笑ったように見えた。
振りかぶる。
投げた。
ど真ん中。
ストレート。
太一は見送った。
ミットが弾ける。
バンッ!
「ストライク!」
次の瞬間。
スコアボードに球速が表示された。
155 km/h
球場がどよめいた。
「155キロ!」
神谷の声が響く。
太一が目を細める。
「……すげえな」
そしてバットを握り直した。
「でも――絶対に打ち返す」
二球目。
川口が投げる。
太一は思い切り振った。
だが――。
「!」
バットが空を切る。
太一の目から、一瞬ボールが消えた。
表示された球速。
143 km/h
フォーク。
太一が小さく笑う。
「……なるほど」
だが。
「タイミングは合った」
ツーストライク。
石破が返球する。
川口が受け取る。
石破がサインを出した。
川口が頷いた。
三球目。
再び、真っ向勝負。
ストレート。
太一のバットが出る。
だが――。
届かない。
バンッ!
「ストライク!」
「バッターアウト!」
球速表示。
156 km/h
一瞬の静寂。
そして――。
球場が揺れた。
太一はしばらく打席に立ったまま、マウンドを見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……すげえよ」
川口は何も答えなかった。
ただ、石破から返されたボールを握り締めた。
九回表。
島大松江高校。
三者凡退。
最後の攻撃を、完璧に封じ込まれた。
桑原が静かに言う。
「……この試合」
そして、わずかに笑った。
「どうやら簡単には終わらないようですね」
五対四。
残るは――九回裏。
島大松江ベンチ。
鈴木監督が玉木を見る。
言葉はない。
さおりがミットを持って立ち上がる。
こなつが玉木の背中を叩いた。
大和が拳を差し出す。
八雲も、ただ一言。
「行ってこい」
仲間たちの視線を背中に受けながら。
玉木はゆっくりと歩き出した。
一歩。
また一歩。
九回裏のマウンドへ。
あと三つ。
甲子園まで――。
あと三つ。




