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栄冠は君に輝く  作者: konatsu


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47/65

イニング7

「小林君の打球が――レフト深くへ伸びていきます!」


実況・神谷誠一の声が球場に響いた。


レフトの阿知波ダンは、すでにフェンス際まで下がっていた。


高い。


しかし、届かない高さではない。


センターから全速力で駆けてくるこなつが叫んだ。


「阿知波! 頼む! ジャンプだ! タイミングよくジャンプ!」


打球はなおも伸びていく。


「お願い! 捕って! 捕ってよ!」


阿知波がフェンス際で足を合わせる。


一歩。


もう一歩。


――ここだ。


跳んだ。


「よし、捕れる!」


こなつが絶叫した。


「スタンドに入れるな! 叩き落として! あとは私に任せて!」


その瞬間。


阿知波の周囲から、すべての音が消えた。


歓声も。


応援曲も。


仲間の声も。


視界からさえ、白球以外のものが消えていく。


ただ一つ。


小林の打球だけを見つめた。


――捕れる。


打球の角度。


速度。


落下地点。


阿知波には分かっていた。


白球が落ちてくる。


グラブを伸ばした。


「阿知波! 捕れ!」


こなつの声が戻ってきた。


「お前なら捕れる!」


そして、さらに遠くから声が飛んできた。


「ダン!」


阿知波の目が一瞬だけ動いた。


「お前ならきっと捕れる! 託したぞ!」


大和だった。


ライトを守っていた大和が、遥かレフト方向まで走ってきていた。


――捕る。


絶対に捕ってやる。


阿知波はさらに腕を伸ばした。


応援席から流れていた、自分のための曲。


ウルトラセブン。


――俺は、みんなのウルトラセブンだ。


白球が落ちてきた。


阿知波が、もう一度伸び上がった。


グラブの先に――。


触れた。


「捕った!」


阿知波自身がそう思った。


神谷も叫ぶ。


「レフト阿知波君! 懸命にジャンプ! グラブを打球に合わせた――!」


だが。


白球はグラブの先端をかすめた。


ほんの数センチ。


たった、それだけだった。


白球はそのまま――レフトスタンドへ吸い込まれていった。


外野審判の右手が、大きく回った。


ホームラン。


その瞬間。


星承高校のベンチが爆発した。


応援席が爆発した。


いや――。


球場そのものが、一つの巨大な歓声になった。


「入ったあああああ!」


神谷が叫ぶ。


「小林君! 三ランホームラン! 星承高校、一気に一点差! 5対4!」


ベースを回る小林。


ベンチから身を乗り出して叫ぶ星承の選手たち。


そしてマウンドでは――。


太一が、膝から崩れ落ちていた。


さおりがすぐに駆け寄った。


太一の背中を強く叩く。


「立て」


太一は顔を上げない。


もう一度。


「太一。立て。堂々と立て」


「……」


「今のは失投じゃない」


太一が、ゆっくりと顔を上げた。


「小林君がすごかったんだよ」


さおりはバックスクリーンを指さした。


表示されている数字。


――155km/h。


「見て」


太一が振り返る。


「155キロ。自己最速」


「……はい」


「それを打った」


さおりは小林を見た。


星承ベンチで、仲間にもみくちゃにされている。


「意地だよ」


「意地……」


「エースとして今日、思うような仕事ができなかった。だからって諦めなかった。勝ちたい。甲子園へ行きたい。その気持ちが、太一の155キロを打ち返した」


さおりは太一に手を差し出した。


「甲子園へ行きたいのは、私たちだけじゃない」


太一がその手を見る。


「勝ちたいのも、私たちだけじゃない」


太一が、さおりの手を握った。


立ち上がる。


「まだ勝ってる」


「はい」


「それに――」


さおりは笑った。


「最高の試合を、最高の野球を、私たちは今、感じてる」


太一も、小さく笑った。


「はい」


ベンチの鈴木監督は、腕を組んだまま星承ベンチを見ていた。


「強いな」


隣の美佐子が振り返る。


「さすが星承だ」


「悔しくないの?」


「悔しいよ」


鈴木は笑った。


「でも、最高の試合じゃないか。打って、投げて、守って、頭を使って。応援団まで本気だ」


美佐子もグラウンドを見る。


「そうね」


そして、夫を横目で見た。


「息子が打たれた直後に、相手の強さを認める監督までいるしね」


「それは余計だ」


「でも――」


美佐子は微笑んだ。


「野球って、すごいね」


鈴木も小さく頷いた。


「ああ」


そしてベンチへ振り返った。


「さあ。もう一度、流れをこっちへ引き戻すぞ」


そのころ、球場の大型ビジョンには、星承高校の仲間たちにもみくちゃにされる小林の姿が映っていた。


場内アナウンスが流れる。


『島大松江高校、選手の交代をお知らせします』


ざわめきが静まっていく。


『ピッチャー鈴木君に代わりまして、玉木君。サード浜口君に代わりまして、鈴木君』


太一がマウンドへ向かってくる背番号20を見た。


『3番、ピッチャー玉木君。8番、サード鈴木君』


太一は帽子を取った。


「玉木先輩」


玉木が足を止める。


「信じています」


深く一礼した。


玉木も帽子を取った。


「太一」


「はい」


「しっかり守ってくれ」


そして、少し笑った。


「俺も、お前を信じてる」


「はい!」


「はいはい」


二人の間へさおりが入ってきた。


「主将の出番なし」


「すみません」


「いや、別にいいけど」


さおりは玉木を見る。


「初球はカーブ」


「はい」


「二人とも素直じゃなくて、人生まで曲がってそうだからね」


「誰と誰ですか」


「玉木と太一」


「俺もですか!」


太一が声を上げた。


さおりは無視した。


「そのあとはストレート中心」


そして、玉木を見つめる。


「カットボールは――まだ使わない」


玉木の目が変わった。


「七回まで取っておく」


「分かった」


「行こう」


試合再開。


打席には5番・石破。


神谷が伝える。


「小林君のスリーランホームランで、ついに点差は一点。5対4。島大松江、ここで二年生・玉木君をマウンドへ送ります」


解説の桑原修司が頷いた。


「面白い試合になりましたね」


「はい」


「いや、面白いという言葉だけでは足りません。かなり高いレベルで、お互いが持っているものを出し合っています」


玉木の初球。


予定通り。


カーブ。


石破が見送る。


「ストライク!」


二球目。


141キロ。


高めのストレート。


石破のバットが空を切った。


ツーストライク。


さおりがサインを出す。


スライダー。


玉木が首を振った。


さおりが一瞬だけ目を細める。


もう一度。


玉木が小さく首を振る。


――ストレートか。


さおりが外角低めにミットを構えた。


玉木が頷いた。


振りかぶる。


143キロ。


外角低めいっぱい。


石破は動けなかった。


「ストライク! バッターアウト!」


「三球三振!」


神谷の声が弾ける。


「見事です、玉木君! 小林君のホームランで球場全体が星承高校へ傾きかけた直後、三球で石破君を抑えました!」


桑原が感嘆する。


「大したものですよ。普通なら飲み込まれてもおかしくない場面です」


六回が終わった。


5対4。


一点差。


だが――。


試合はまだ、三イニング残っている。


◇


七回表。


島大松江の攻撃。


先頭は4番・竹下大和。


マウンドには蓮佛健吾。


石破が構える。


一球目。


外角低めのストレート。


大和は逆らわず弾き返した。


一、二塁間を破る。


ライト前ヒット。


「先頭出ました! 4番竹下君!」


大和は一塁上で拳を握ることもなく、応援席へ一礼した。


そして打席には5番・梶谷。


ところが――。


場内アナウンスが流れた。


『島大松江高校、代打です。バッター梶谷君に代わりまして、糸原君』


神谷が少し声を上げる。


「鈴木監督、動きました」


桑原も前のめりになる。


「流れを変えたいんでしょう。糸原君は俊足で、ミート力もある選手です」


しかし。


蓮佛のスライダーが冴えわたっていた。


一球。


二球。


糸原のバットは、その鋭い曲がりについていけない。


最後もスライダー。


空振り三振。


ワンアウト。


続く6番・山内。


今日ここまで、どうにもタイミングが合っていなかった。


再びアナウンス。


『6番、山内君に代わりまして、代打、塙君』


神谷の声が高くなる。


「また代打です!」


桑原が頷いた。


「鈴木監督、仕掛けてきますね。塙君は代打、あるいは指名打者として非常に高い打率を残している選手です。五割近い数字を残しています」


石破が立ち上がった。


マウンドへ向かう。


「気をつけろ」


蓮佛が頷く。


「はい」


「さっきまでの配球は忘れろ」


蓮佛が石破を見る。


「全部、変えるぞ」


「はい。お願いします」


石破がマスクを被る。


初球。


スライダー。


外へ外れた。


ボール。


二球目。


ストレート。


塙が振り抜く。


カキーン!


鋭い打球がライト線へ飛んだ。


「切れるか!」


わずかに外。


ファウル。


三球目。


カーブ。


塙は手を出さない。


「ストライク!」


ワンボール・ツーストライク。


塙は考える。


――来る。


蓮佛の一番の武器。


スライダー。


絶対に来る。


四球目。


石破が要求したのは――。


チェンジアップ。


塙のバットが早く出た。


空を切る。


「ストライク! バッターアウト!」


塙が思わず石破を見た。


「……すごいな、あのキャッチャー」


ベンチへ戻りながら呟く。


「一回表の集中攻撃を忘れてない。こっちが狙い球を絞れば、すぐ球を動かしてくる」


ツーアウト。


打席には7番・阿知波ダン。


いつもの曲が流れ始める。


阿知波はユニフォームのポケットの上から、そっと手を添えた。


中には、小さなお守りが入っていた。


手作りの布に、ひらがなで書かれている。


『うるとらせぶん』


阿知波はレフトスタンドを見た。


――あと少しだった。


もう少し。


ほんの少し、ジャンプが早ければ。


捕れたかもしれない。


阿知波は唇を噛んだ。


――絶対に、チームの力になる。


蓮佛の初球。


スライダー。


阿知波は待っていた。


踏み込む。


振り抜いた。


快音。


打球は左中間へ。


「打った!」


外野の間へ落ちる。


阿知波は一塁へ。


大和は二塁へ進んだ。


ツーアウト、一、二塁。


阿知波は応援席へ向かって帽子を取り、一礼した。


その直後。


鈴木監督が言った。


「代走」


「えっ?」


八雲が思わず声を上げた。


「監督、阿知波はチームでも俊足だぞ。なんで代走なんだよ」


鈴木はグラウンドを見たまま答えた。


「こなつに続く俊足がいるだろ」


そしてベンチへ。


「芦田」


「はい!」


「代走だ」


「分かりました!」


「初球から行け」


芦田の顔が引き締まる。


「蓮佛の癖、もう分かってるんだろ」


「……たぶん」


鈴木が笑った。


「じゃあ大丈夫だ」


「え?」


「かき回してこい」


「はい!」


芦田が飛び出していく。


八雲は納得できない顔だった。


「芦田が速いのは分かるけどさ。阿知波だって、そんなに変わらないだろ」


鈴木が初めて八雲を見た。


「八雲」


「なんですか」


「その俊足の阿知波の走りに違和感を感じなかったか?」


八雲が黙った。


確かに。


「右足だ」


「え?」


「痛めてる」


鈴木はレフトフェンスを見る。


「さっきの守備。ジャンプして着地したときに、ひねった可能性がある」


八雲の顔色が変わった。


「今の打球で一塁までゆっくり走った。」


「……」


「顔が変わった。明らかに無理してる」


八雲はベンチへ戻ってきた阿知波を見た。


阿知波は笑っていた。


しかし、歩き方はわずかにぎこちなかった。


さおりが防具越しに八雲を見る。


「八雲」


「……」


「みんなを信じてるでしょ」


八雲が目を向ける。


「私たちには、レギュラーも補欠もない」


さおりが芦田を見る。


「誰が出ても戦える。誰が出ても、島大松江の選手だよ」


八雲は頭をかいた。


「……そうですね」


美佐子がニヤリとした。


「あーら、八雲ちゃん。主将の言うことには素直でちゅねえ」


「なっ!」


「そんなことありません!」


ひまわりが即答する。


「そんなことあります。八雲先輩、さおり主将のサインに首を振ったことありませんから」


「ひまわり! 余計なこと言うな!」


ベンチに笑いが起きる。


八雲は慎之介を睨んだ。


「慎之介!」


「はい?」


「お前の妹、デビルマンか!」


慎之介は真顔で答えた。


「いえ」


一拍。


「デビルガールです」


さらに笑いが起きた。


「お前まで乗るな!」


二死一、二塁。


打席は8番・鈴木太一。


初球。


蓮佛が投球動作へ入る。


「走った!」


大和が三塁へ。


芦田が二塁へ。


ダブルスチール。


石破は送球しなかった。


セーフ。


二死二、三塁。


そして一塁が空く。


星承ベンチから指示が出た。


申告敬遠。


太一が一塁へ歩く。


二死満塁。


9番・佐野慎之介。


だが。


二球目。


サード正面。


瀧本が落ち着いて処理する。


一塁へ。


アウト。


スリーアウト。


島大松江、追加点ならず。


5対4。


◇


七回裏。


守備へ向かう島大松江。


ひまわりは紙のノートを開いた。


彼女がこれまで集めた試合データの中で、七回というイニングは独特だった。


終盤へ入る境目。


試合の流れが大きく動くことが多い。


まして一点差。


何かが起きても、不思議ではない。


場内アナウンスが流れる。


『島大松江高校、守備の変更をお知らせします』


『代打しました糸原君がショート』


『代打しました塙君がファースト』


『代走しました芦田君がレフトに入ります』


『5番ショート糸原君。6番ファースト塙君。7番レフト芦田君』


ベンチへ下がった阿知波が、レフトへ向かう芦田を見つめた。


小さく呟く。


「託したぞ」


七回裏。


星承高校の先頭は6番・米田。


そのときだった。


星承高校の応援席が変わった。


軽快なイントロ。


「フライングゲット」。


黄色を基調とした衣装へ変わったチアが、一斉に動き出した。


吹奏楽。


応援団。


チア。


声援。


すべてが一つのリズムになって球場を包む。


星承高校が勝負どころで使用するチャンステーマ。


この曲が流れると流れが変わる。


そう言われ、対戦校からは“魔曲”とまで呼ばれていた。


玉木がマウンドから応援席を見る。


さおりがすぐに声をかけた。


「気にしなくていい」


「はい」


「相手のリズムになるかもしれない」


玉木を見る。


「でも、向こうに魔曲があるなら――」


さおりがミットを叩いた。


「あなたには魔球があるでしょ」


玉木の目が細くなる。


「カットボール」


「解放するよ」


その横から太一が声を出した。


「魔曲?」


全員が太一を見る。


太一が胸を張る。


「島大松江のサード、誰だと思ってるんですか」


一瞬の沈黙。


さおりが答えた。


「デビルマン」


「そうです!」


玉木が吹き出した。


「お前、自分で言うなよ」


「さあ来い!」


太一が三塁で構えた。


「魔曲対デビルマン!」


「野球しろ!」


さおりが叫んだ。


それでも――。


玉木の表情から緊張が消えた。


六番・米田。


二球目。


玉木の宝刀。


カットボール。


バットの芯を外した。


ゴロ。


三塁へ。


「来た!」


太一が軽快に処理する。


一塁へ。


「デビルスロー!」


「普通に投げろ!」


塙が捕球。


アウト。


ワンアウト。


七番・松本。


初球。


142キロ。


外角ストレート。


空振り。


二球目。


カーブ。


見送りストライク。


追い込んだ。


三球目。


カットボール。


松本のバットが空を切る。


三振。


ツーアウト。


魔曲は止まらない。


応援席の勢いは、むしろ増していく。


八番・青山。


サインを見る。


一瞬。


ほんの一瞬だけ。


青山の目が三塁線へ向いた。


土を見る。


その動きを――。


太一は見逃していなかった。


――ある。


セーフティ。


太一は定位置より、わずかに前へ出た。


玉木が投げる。


青山がバント。


絶妙。


三塁線へ転がる。


「うまい!」


神谷が叫ぶ。


だが。


そこには太一がいた。


素手で取る。


一塁へ。


送球。


アウト!


「スリーアウト!」


神谷の声が響いた。


「玉木君、完璧に抑えました! 星承高校、七回裏三者凡退!」


黄色に染まった応援席。


魔曲。


一点差。


そのすべてを背負いながら。


背番号20は、一人の走者すら許さなかった。


「ナイスだよ、玉木!」


センターからこなつが走ってくる。


「いい回転だったぞ!」


ベンチから八雲。


さおりもマスクを外しながら笑っていた。


玉木はただ、小さく拳を握った。


5対4。


島大松江、一点リード。


鈴木監督は選手ではなく――。


星承高校の応援スタンドを見つめていた。


七回。


グラウンドとは別の場所でも。


何かが、動き始めようとしていた。


◇


そのころ。


玉木の父・正雄が社長を務める会社では、重要な取引先へのプレゼンテーションを目前に控え、社員たちが慌ただしく準備を進めていた。


会議室。


玉木社長が社員を前に立つ。


「いいか」


空気が張り詰める。


「今回のプレゼンは、わが社にとって非常に重要なものだ」


社員たちが頷く。


「失敗は許されない」


さらに空気が重くなる。


「私が取り仕切る。全員、私についてこい」


頼もしい言葉――。


のはずだった。


だが。


社員たちの表情は、なぜか晴れない。


やがて営業部長の宮根が、恐る恐る手を上げた。


「社長」


「なんだ」


「あの……私のような者が申し上げるのは、失礼かもしれません」


「構わん。言え」


宮根は覚悟を決めた。


「社長」


そして聞いた。


「私たちは――チームですか?」


正雄の眉が動いた。


「何?」


「私たちは、社長の指示に従うだけの人間でしょうか」


会議室が静まり返る。


「それとも……同じ目的へ向かう、チームなんでしょうか」


正雄はしばらく宮根を見つめた。


「チームだよ」


答えた。


「全員、同じ目的を持って、この会社のために働いている」


宮根が続ける。


「では」


一呼吸。


「私たちを、信頼してくださっているんですね」


「もちろんだ」


即答だった。


「当然だろう」


そう言って正雄は会議室を出た。


しかし――。


社長室へ戻ってからも、その言葉が頭から離れなかった。


――私たちはチームですか。


コンコン。


ノック。


専務が入ってきた。


「社長」


「なんだ」


「少しだけ、見てもらえませんか」


「今は忙しい」


「坊ちゃんです」


正雄の手が止まった。


専務がノートパソコンを開いた。


高校野球県大会決勝。


ライブ中継。


「島大松江高校が……星承高校に勝っています」


正雄が椅子から少しだけ身を乗り出した。


「何回だ」


「七回裏です」


「ふん」


わざと興味のない顔をする。


「どうせ逆転される」


「5対4です」


正雄の目が画面へ向いた。


「島大松江がリードしています」


「……そうか」


少しだけ声が変わった。


「島大松江のエースが頑張ってるんだな」


「いえ」


「何?」


「エースは今、マウンドにいません」


正雄が眉を寄せる。


「じゃあ、鈴木監督の息子か。確か一年で150キロを投げるとかいう」


「いえ」


「じゃあ誰だ」


専務が画面を指さした。


「それが……」


正雄がパソコンを覗き込む。


マウンド。


背番号――20。


正雄の目が止まった。


「……」


専務が静かに言った。


「坊ちゃんです」


正雄は動かなかった。


「坊ちゃんが、投げています」


画面の中。


息子が投げる。


米田を打ち取る。


松本を三振。


青山のセーフティバントを、仲間の好守でアウト。


三者凡退。


仲間たちが息子へ声をかける。


笑っている。


背中を叩く。


息子も笑っている。


正雄は――。


何も言わなかった。


数秒。


十数秒。


そして。


「専務」


「はい」


「運転手に、車を用意させてくれ」


専務が耳を疑った。


「……え?」


「車だ」


「しかし社長。これからプレゼンです」


「分かっている」


「どなたがお出かけになるんですか」


正雄はパソコンから目を離さなかった。


長い沈黙のあと。


「……私だよ」


専務が目を見開く。


「島根県立球場へ行く」


「社長」


「息子を――」


一度、言葉が詰まった。


「応援してくる」


専務は何も言えなかった。


正雄が立ち上がる。


「専務」


「はい」


「プレゼンを頼んだ」


「しかし――」


正雄は自嘲気味に笑った。


「社長失格だな」


そして。


「だが、父親としては……まだ間に合う」


社長室の扉が開いた。


秘書の豊田が立っていた。


目に涙を浮かべている。


「社長。車の準備、できました」


「ありがとう」


正雄が出ようとした。


そのとき。


「社長!」


廊下の向こうから社員たちが集まってきた。


一人。


二人。


次々と。


「社長!」


「社長がいなければ無理です!」


正雄が足を止めた。


社員たちを見る。


「今回のプレゼンは大事なんです!」


「社長が取り仕切るって!」


正雄は何も言わなかった。


そして。


ゆっくり振り返った。


「息子にはな」


社員たちが黙る。


「夢が二つあるんだ」


「……」


「一つは、甲子園へ行くこと」


画面を見る。


背番号20。


「もう一つは――」


正雄は社長室を見回した。


「いつか、この会社の社長になることだ」


社員たちの表情が変わる。


「全然違う夢に見える」


正雄は続けた。


「だがな。今、分かった」


宮根を見る。


「どちらにも、同じものが必要なんだ」


誰も口を挟まない。


「一人ではできない」


正雄の声が静かになる。


「仲間がいて」


「同じ目標があって」


「互いを信じて」


そして。


「最後は――託さなければならない」


宮根が目を伏せた。


正雄が彼を見る。


「宮根部長」


「はい」


「さっき聞いたな」


――私たちはチームですか。


「……はい」


「私は、チームだと答えた」


「はい」


「でも間違っていた」


社員たちが驚く。


「私は――自分のチームだと思っていた」


正雄がゆっくり首を振った。


「違う」


一人一人の顔を見る。


「この会社は、私のチームじゃない」


そして力強く言った。


「みんなのチームだ」


誰かが涙を拭いた。


「だから、さっきの言葉は撤回する」


正雄が背筋を伸ばす。


「私が取り仕切るんじゃない」


社員全員を見る。


「君たち全員で立ち向かえ」


「社長……」


「私は君たちを信じる」


正雄の声が大きくなる。


「ミスを恐れるな」


「相手を恐れるな」


「君たちなら、きっとやれる」


その言葉は。


不思議なほど――。


球場のベンチで選手を送り出す監督の言葉に似ていた。


正雄自身も、少し笑った。


「さあ」


腕時計を見る。


「わが社のプレイボールも近い」


社員の中から、小さな笑いが起きる。


正雄は最後に一礼した。


「社長として、社命を伝える」


静寂。


「このプレゼンテーション――」


一呼吸。


「皆に託す」


宮根が姿勢を正した。


「はい!」


専務も。


豊田も。


社員たちも。


「はい!」


正雄は踵を返した。


歩き出す。


今度は誰も止めなかった。


背後から声が飛んできた。


「社長!」


正雄が振り返る。


宮根だった。


「行ってきてください」


そして笑った。


「今日は――父親をやってきてください」


正雄は一瞬だけ目を閉じた。


「ああ」


会社を出る。


車のドアが開く。


「島根県立球場へ」


「はい」


車が走り出した。


そのころ。


球場では――。


背番号20の少年が、自分の父親がこちらへ向かっていることなど知らずに、仲間とともにベンチへ戻っていた。


試合は5対4。


残り二イニング。


そして。


グラウンドだけではない。


スタンドでも。


家族の中でも。


それぞれの「試合」が――。


いよいよ、終盤へ入ろうとしていた。

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