イニング5
五回表。
星承高校のマウンドには、二年生右腕・蓮佛健吾。
三回途中から登板した背番号12は、回を追うごとに存在感を増していた。
先頭は四番・竹下大和。
蓮佛は慎重に攻める。
大和の長打力は、すでに嫌というほど見せつけられている。
外へ。
低く。
際どいところへ。
大和も無理には手を出さない。
フルカウントからの六球目。
外角へ外れた。
「ボールフォア!」
大和が一塁へ歩く。
先頭打者を出した。
それでも蓮佛の表情は変わらない。
続く五番・梶谷出雲。
ストレートで押し込み、最後は鋭く落とした。
梶谷のバットが空を切る。
「ストライク! バッターアウト!」
ワンアウト。
六番・山内隆一。
甘く入ったストレートを捉えた。
カァン!
高く上がった打球はセンターへ。
「米田、落下点に入って――捕りました!」
ツーアウト。
そして七番・阿知波ダン。
打球は一塁線へ。
水木が前へ出る。
捕球。
そのまま一塁ベースを踏んだ。
「アウト! スリーアウト!」
実況の神谷誠一が声を上げる。
「先頭の竹下には四球を与えましたが、後続を三人で断ちました! 蓮佛健吾、島大松江に追加点を許しません!」
解説の桑原修司が頷いた。
「これは大きいですよ。島大松江は序盤、完全に試合の主導権を握っていました。しかし蓮佛君が、それ以上流れを大きくさせていません」
ベンチへ戻る蓮佛を石破が迎えた。
「ナイスピッチ」
「まだ四点ある」
「そうだな」
蓮佛はスコアボードを見上げた。
5―1。
そして静かに言った。
「でも、まだ五回だ」
五回裏。
島大松江のマウンドには大野。
八雲の突然の負傷によって、十分な準備もできないまま三回途中からマウンドへ上がった左腕。
だが、四回から投球は明らかに変わっていた。
先頭は六番・米田悠真。
初球、ストレート。
二球目、スライダー。
追い込んでから――チェンジアップ。
米田の身体が前へ泳ぐ。
バットが空を切った。
「空振り三振!」
ワンアウト。
七番・松本恭平。
打ち上げた。
ライト。
大和が数歩前へ出る。
「オーライ!」
捕球。
ツーアウト。
八番・青山拓海。
大野はストライクを先行させる。
三球目。
スライダー。
青山が打つ。
二塁正面。
佐野慎之介が腰を落として捕球。
一塁へ。
「アウト!」
スリーアウト。
三者凡退。
神谷の声が響いた。
「大野、完璧な五回裏! 星承打線を三人で退けました!」
桑原が続ける。
「変化球のキレが完全に戻りましたね。特にチェンジアップ。緊急登板した三回とは見違えるようです」
大野は何事もなかったようにベンチへ戻っていく。
さおりが追いついた。
「ナイスピッチ!」
「普通」
「またそれ?」
「普通だから」
さおりが笑う。
大野も、ほんの少しだけ笑った。
五回終了。
島大松江 5
星承高校 1
試合はクーリングタイムへ入った。
激しく動き続けた決勝戦が、一度だけ止まる。
だが――。
止まったのは試合だけだった。
両校の心は、すでに後半戦へ向かって動き始めていた。
星承高校ベンチ。
選手たちが水分を取り、身体を冷やしている。
その中で、小林翔真が立ち上がった。
「みんな」
選手たちが振り向く。
小林は帽子を取った。
そして――。
頭を下げた。
「悪かった」
誰も言葉を発しない。
「俺のせいで……島大松江に流れをつかまれた」
一回、四連打で三失点。
二回には太一に本塁打。
エースとして託された決勝のマウンドを、途中で降りた。
「俺がもっとしっかりしてれば……」
その肩に、手が置かれた。
主将・水木蓮司だった。
「小林」
小林が顔を上げる。
「まだ試合は終わってないよ」
「水木……」
「お前のおかげで、俺たちはセンバツにも行けた。そして今日、ここまで来た」
水木は仲間たちを見渡した。
「小林だけじゃない。俺も、石破も、岡本も、みんながいたから――俺たちは星承の野球ができてる」
そして小林を見る。
「だから、一人で負けたみたいな顔するなよ」
「……」
別の選手が声を上げた。
「そうだよ!」
「四点くらい返せる!」
「五点取れば勝てるんだから!」
誰かが蓮佛の肩を叩いた。
「今日の蓮佛なら、この先も抑えてくれるしな!」
突然話を振られた蓮佛が少し驚く。
「……頑張ります」
一瞬の沈黙。
「そこは『任せろ』だろ!」
「二年生らしいな!」
笑い声が起こった。
蓮佛も少しだけ笑った。
その様子を見ていた石川賢一監督が立ち上がる。
笑い声が止まった。
「ここからが勝負だ」
全員の目が監督へ向く。
「お前らなら、きっとできる」
石川はスコアボードを指した。
「四点差?」
選手たちが見る。
「それがどうした」
声は静かだった。
「一点取られたら、二点返せばいい」
そして続ける。
「今、島大松江より四点少ない。それだけだ」
選手たちの表情が変わる。
「野球は九回が終わった時、相手より一点でも多く取っていれば勝ちだ」
一人一人の顔を見る。
「このままじゃ終わらないことを、お前ら自身が一番分かっているはずだ」
「はい!」
「流れは必ず、こっちへ来る」
一拍。
「その時だ」
声が低くなる。
「絶対に逃すな」
「はい!」
「星承の野球をしよう」
「はい!」
敗戦を考えている者など、一人もいなかった。
四点を追う星承高校は――。
もう一度、一つになった。
その頃。
島大松江高校ベンチ。
「おーい」
聞き覚えのある声がした。
全員が振り向く。
「……八雲!」
和田八雲が立っていた。
さおりが真っ先に駆け寄った。
「八雲! 大丈夫なの?」
「うん。一応、試合が終わったらもう一度診てもらうけど」
八雲は自分の頭を軽く指した。
「今は頭痛もない。身体も動く。めまいも落ち着いた」
「本当に?」
「今日はもう試合には戻れないけどな」
「当たり前でしょ」
さおりは八雲の顔をじっと見る。
そして――。
ぐっと顔を近づけた。
「八雲」
「な、なんだよ」
「私が誰か分かる?」
「は?」
さらに近づく。
八雲の顔が赤くなった。
「お、おい……近いって」
「誰?」
八雲は思わず顔を背けた。
「さ、さおり……」
「よし」
そこへ、こなつが顔を出した。
「じゃあ私は?」
八雲は即答する。
「日本一可愛いセンター、こなつ」
こなつが胸を張った。
「正解です!」
その瞬間。
太一とひまわりが同時に叫んだ。
「二人とも脳震盪起こしてます!」
一瞬――静まり返る。
そして。
「ハハハハハ!」
ベンチが爆笑に包まれた。
「お前らなあ!」
八雲まで笑う。
緊張し続けていた島大松江ベンチに、久しぶりの笑い声が戻った。
しかし――。
笑い声が少し収まった時。
山内が大和を見た。
「大和」
「はい」
「……お兄さんの葬儀、もうすぐ始まるんだろ」
ベンチの空気が静かになる。
「本当に、参列しなくていいのか?」
大和は少しだけ俯いた。
そして、首を横に振った。
「大丈夫です」
「でも……」
「親父も、お袋も、親戚のみんなも言ってくれました」
ゆっくり顔を上げる。
「俺がこの試合に出ることが、兄ちゃんにとって一番の礼になるって」
誰も口を挟まない。
「兄ちゃんの夢を叶えてくれって……みんな、俺をここへ送り出してくれました」
大和の視線が動いた。
ベンチの奥。
そこには――。
兄・大樹のユニフォームがあった。
大和は静かに言った。
「それに……」
少し笑う。
「兄ちゃんは、まだ生きてます」
山内が大和を見る。
「だって――」
大和はユニフォームを見つめた。
「甲子園の夢、まだ叶えてないから」
山内が大和の肩を叩いた。
「そうだ」
力強く言った。
「夢を叶えろ」
「はい」
その時だった。
鈴木監督が立ち上がった。
全員が監督を見る。
「いいか」
鈴木は選手たちを見渡した。
「俺たちだけじゃない」
一度、スタンドを見上げる。
「島大松江を応援してくれている人たち」
応援団。
吹奏楽部。
チア。
合唱隊。
放送部。
学校関係者。
家族。
そして――。
ここまで戦ってきた、すべての高校。
「みんなの思いを持って、甲子園へ向かう」
選手たちの目が鈴木へ集まる。
「負けるな」
一拍。
「絶対に」
そして――。
「みんなで行くんだ」
誰も目を逸らさない。
「それから」
鈴木の表情が少しだけ緩んだ。
「次の回から、グラウンドで笑ってもいい」
選手たちが驚く。
「泣いてもいい」
さおりが目を見開いた。
「嬉しかったら、嬉しがれ。悔しかったら、悔しがれ」
そして、静かに付け加える。
「ただし、自分たちの規律は守れ」
審判への敬意。
相手への敬意。
応援してくれる者への感謝。
高校野球への敬意。
そこだけは変えない。
「島大松江の規律を守りながら――高校野球の素晴らしさを、グラウンドで見せてこい」
鈴木は選手たちを見る。
「野球って、いいな」
大和が兄のユニフォームを見る。
「仲間って、大切だな」
八雲が大野を見る。
こなつが、さおりを見る。
さおりも、こなつを見る。
「それを見ている人たちに伝えてこい」
そして鈴木は最後に言った。
「楽しんでこい――とは言わない」
全員が監督を見る。
「楽しむだけじゃ足りない」
鈴木が微笑んだ。
「本当の自分たちの野球を――」
一拍。
「堪能してきなさい」
最初に動いたのは太一だった。
「はい!」
即答だった。
太一は拳を差し出した。
鈴木は息子を見る。
そして、優しく笑った。
コツン。
拳と拳が触れる。
そこへ美佐子が手を重ねた。
ひまわり。
山内。
こなつ。
大和。
梶谷。
阿知波。
佐野。
大野。
八雲。
次々と仲間たちの手が重なる。
そして最後に――。
主将・竹内さおりが手を添えた。
全員を見る。
「行くぞ――」
息を吸う。
「島松!」
「おおおおおおっ!!」
その声がベンチを飛び出した。
スタンドへ。
そして、夏空へ。
クーリングタイム終了を告げる声が響く。
選手たちが次々とベンチを出ていく。
六回表。
先頭打者は――8番鈴木太一。
気合が入る。
素振りを繰り返し6回表の開始を待っている。
「太一、あのピッチャー手ごわいよ。甘く見ないでね」ひまわりは必ず太一の打席の前には声をかける。
小さく呟く。
「夢に近づいていく」
誰もが前を向いていた。
誰もが甲子園を見ていた。
ただ――。
二人だけ。
違うものを見ていた。
鈴木監督。
そして、竹内さおり。
さおりはベンチの隅へ目を向けた。
そこには――。
脱いだばかりの大野のアンダーシャツがあった。
汗で、びっしょりと濡れている。
クーリングタイム中、大野は新しいアンダーシャツへ着替えていた。
さおりの笑顔が消える。
(……汗、多くない?)
鈴木も気づいていた。
五回を三者凡退。
変化球のキレも戻った。
球威もある。
投球だけを見れば――何の問題もない。
だが。
鈴木は知っている。
野球は、数字だけを見る競技ではない。
選手を見る競技だ。
大野がタオルで首筋の汗を拭う。
また汗が浮かぶ。
鈴木の目が細くなった。
さおりが大野を見る。
大野は気づいて、いつものような顔をした。
「何?」
「……別に」
さおりはそう答えた。
だが――。
視線は外さなかった。
大野が水を口にする。
その額から、
また一筋の汗が流れ落ちた。
五回終了。
島大松江 5
星承 1
甲子園まで――あと四イニング。
島大松江は、
夢へ近づいていた。
だがその時――。
誰にも聞こえない小さな警告が、
すでにベンチの中で鳴り始めていた。




