イニング4
四回表。
スコアボードには、
島大松江 5
星承 1
三回までの激しい攻防が嘘だったかのように、グラウンドには一瞬、静かな空気が流れていた。
星承高校のマウンドには、二年生・蓮佛健吾。
三回途中から角を救援し、梶谷、山内、阿知波を抑えた右腕である。
四回表、島大松江の先頭打者は八番・鈴木太一。
場内アナウンスが響く。
「八番、サード、鈴木君」
太一が左打席に入った。
一回には好守を見せ、二回には小林からライトスタンドへ本塁打を放っている。
だが――。
初球。
――ズバン!
外角いっぱい。
ストライク。
太一の表情が変わった。
(速い……)
二球目。
今度は内角。
140キロ近いストレートが、捕手・石破の構えたミットへ吸い込まれるように収まった。
「ストライク!」
あっという間に追い込まれた。
太一はバットを握り直す。
(この人……すごい)
球速だけではない。
右へ、左へ。
高低まで使いながら、ほとんどミットを動かさせない。
そして最後は――。
ストレートと同じ軌道から、ボールが突然消えた。
スプリット。
太一のバットが空を切る。
「ストライク! バッターアウト!」
三振。
太一は打席を離れながら、もう一度マウンドを見た。
悔しさより、驚きが勝っていた。
「……すげえな」
実況の神谷誠一が言った。
「鈴木君を完全に押し込みました。桑原さん、蓮佛、素晴らしいですね」
「ええ。球速以上に速く感じると思いますよ。何より制球がいい。最後にあのスプリットがありますから、打者は真っすぐ一本には絞れません」
続く九番・佐野慎之介。
初球だった。
蓮佛のストレートに振り遅れる。
カキッ。
打球は力なく二塁方向へ上がった。
「セカンド青山、落下点に入って――捕りました。ツーアウト!」
わずか一球。
蓮佛は淡々とマウンドへ戻る。
二死走者なし。
打席へ向かうのは――一番、石川こなつ。
スタンドから「キャッツ・アイ」が流れ始めた。
こなつはバットを一度だけ回すと、左打席へ入った。
一球目。
ファウル。
二球目。
ボール。
三球目。
ファウル。
四球目。
外角低め。
見送る。
ボール。
五球目。
ファウル。
六球目も――ファウル。
蓮佛の表情が少しずつ変わっていった。
七球。
八球。
九球。
決めにいったスプリットにまで、こなつはバットを当てた。
ファウル。
「粘ります! 石川こなつ!」
神谷の声が高くなる。
十球目。
またファウル。
十一球目。
外角のストレート。
これもカット。
十二球目。
スライダー。
バットの先で拾って、バックネットへ。
そして――十三球目。
蓮佛が投じたストレート。
こなつのバットが短く、鋭く出た。
カン!
打球は一、二塁間を抜ける。
「抜けた! ライト前! 石川、十三球粘ってヒット!」
一塁へ到達したこなつが、小さく拳を握った。
蓮佛はマウンドで腰に手を当てた。
そして、ため息を一つ。
「……本当に女の子なのかよ」
石破がマスク越しに笑った。
「どうした?」
「マジでコンタクトヒッターだな。ミート力、半端じゃない」
蓮佛は一塁のこなつを見る。
「石川監督の娘っていうのも……よく分かるわ」
石破は返球しながら言った。
「感心してる場合じゃないぞ」
「ん?」
石破が次の打者を見た。
「次もすごいぞ。気をつけろ」
球場の空気が変わった。
吹奏楽が奏で始める。
――「ムーンライト伝説」。
「二番、キャッチャー、竹内さん」
竹内さおりが右打席へ入った。
一塁のこなつと目が合う。
ほんの一瞬だけ、二人が笑った。
初球。
ボール。
二球目。
ファウル。
そして三球目。
蓮佛がストレートを投げ込んだ。
さおりのバットが迷いなく振り抜かれる。
カァン!
「打った!」
打球は二塁手の頭上を越え、右中間へ落ちた。
こなつが二塁へ。
さおりは一塁で止まる。
「竹内もヒット! 二者連続安打! ツーアウトから島大松江、再びチャンスを作りました! 一塁、二塁!」
神谷は高まる声を抑えるように続けた。
「桑原さん、女子二人が続けて打ちました」
桑原修司はしばらくグラウンドを見つめていた。
「……よく鍛えられていますね」
「はい」
「私は正直に言います。男子の高校野球の中で女子選手がここまでやるのは難しいんじゃないかと、どこかで思っていました」
少し間を置いた。
「でも、それは私の先入観でした」
神谷は黙って聞いている。
「力だけではありません。リズム、ミート力、走塁、状況判断。そして何より、相手のわずかな隙を逃さない。石川さんも竹内さんも、自分の持っているものを野球の中で最大限に生かしています」
「なるほど」
「素晴らしい二者連続ヒットです」
スタンドから大きな拍手が起こった。
二死一、二塁。
打席には三番――。
「ピッチャー、大野君」
大野が左打席へ入る。
蓮佛がセットポジション。
一塁にさおり。
二塁にこなつ。
鈴木監督は腕を組んだまま、二人の走者を見ていた。
そして――。
わずかに動いた。
サイン。
こなつが確認する。
さおりも確認した。
蓮佛が投げる。
初球、スライダー。
その瞬間――。
二人が走った。
「スタートした!」
石破が捕球。
三塁へ投げる。
「セーフ!」
すぐさま二塁へ目を向ける。
さおりも滑り込んでいる。
「こちらもセーフ!」
ダブルスチール成功。
球場がどよめいた。
「島大松江、仕掛けました! ツーアウト二塁、三塁!」
桑原が小さく唸る。
「鈴木監督、攻めますねえ。五対一ですが、まったく手を緩めません」
蓮佛が一度ロジンバッグに触れた。
二球目。
ボール。
そして三球目。
大野が振り抜いた。
カァン!
鋭い打球。
「いい当たりだ!」
ライトへ一直線。
だが――。
森下が前へ出る。
「捕った!」
ライトライナー。
スリーアウト。
大野は一塁へ数歩走ったところで止まり、悔しそうに空を見上げた。
蓮佛は静かに息を吐いた。
十三球粘られた。
二本のヒットを許した。
ダブルスチールまで決められた。
それでも――。
点は与えなかった。
「蓮佛、踏ん張りました! 島大松江、二者残塁。四回表、無得点です!」
ベンチへ戻る蓮佛を、星承の選手たちが迎える。
石川監督は何も言わず、小さく頷いた。
二年生右腕は、その意味を理解していた。
四回裏。
マウンドへ向かう大野の足取りが、三回とは違っていた。
さおりが気づく。
ブルペンでは甘かった変化球。
緊急登板直後には抜けていたスライダー。
それが――戻っている。
大野が投球練習でスライダーを投じる。
バシッ!
さおりのミットへ鋭く曲がった。
次はチェンジアップ。
ストン、と沈む。
さおりがマスクの中で笑った。
「戻ってきたね」
大野は表情を変えない。
「……最初から悪くない」
「はいはい」
ベンチの鈴木監督も気づいていた。
「やっと指にかかり始めたな」
美佐子が微笑む。
「大野君らしくなってきた?」
「ああ」
鈴木はマウンドを見つめる。
「ここからだ」
四回裏。
先頭は三番・水木蓮司。
星承屈指の左の強打者。
大野のスライダー。
チェンジアップ。
水木も簡単には崩れない。
そして甘く入った一球を振り抜いた。
カァン!
大飛球。
ライトへ。
竹下大和が下がる。
さらに下がる。
フェンスが迫る。
「大きい!」
神谷が叫ぶ。
大和がフェンス手前で止まり――。
グラブを上げた。
「捕った!」
大きなライトフライ。
あとひと伸び。
水木は悔しそうにベンチへ戻った。
ワンアウト。
四番・小林翔真。
大野は逃げなかった。
外角へストレート。
内角へスライダー。
そして最後は、低く沈むチェンジアップ。
小林のバットが空を切った。
「三振!」
大野が小さく息を吐く。
二死。
五番・石破航平。
初球、ストライク。
二球目。
石破が打つ。
平凡なショートゴロ。
梶谷が前へ出る。
捕る。
一塁へ。
「アウト!」
スリーアウト。
三者凡退。
大野は何事もなかったようにマウンドを降りた。
さおりが追いつく。
「ナイスピッチ」
「普通」
「三回と全然違うじゃん」
「普通」
「はいはい」
二人がベンチへ戻っていく。
神谷がスコアボードを見上げた。
「四回を終わって、五対一。島大松江が四点をリードしています」
桑原が静かに続ける。
「試合が少し落ち着いてきましたね」
「ええ」
「ただ――こういう時間帯が、一番怖いんです」
神谷が桑原を見る。
「と、いいますと?」
「高校野球は、一つのプレーで空気が全部変わりますから」
四回終了。
島大松江 5
星承 1
激しく揺れ続けていた決勝戦に、
初めて訪れた――静かな時間。
だがそれは、
嵐が去った静けさなのか。
それとも――
次の嵐が来る前の静けさなのか。




