イニング1
夏の島根。
甲子園まで、あと一勝。
スタンドを埋め尽くした観客のざわめきが、真夏の空へ吸い込まれていく。
島根大会決勝。
島大松江高校 対 星承高校。
春の選抜ベスト4。
全国制覇候補と評される星承。
その星承を率いるのは、石川賢一。
そして――。
その娘が今、星承のエースと向かい合っていた。
「一番、センター、石川さん」
石川こなつ。
左打席へ入る。
父・賢一は星承ベンチから、娘の背中を見つめていた。
親子ではない。
今、この場所では――敵同士だ。
『さあ、いよいよ始まります。島根大会決勝。島大松江の先頭打者は石川こなつ。そしてマウンドには星承のエース、小林翔真です』
『注目の対決ですね。小林君は全国でも屈指の右腕。そして石川さんは、この大会を通じて島大松江打線を引っ張ってきました』
一塁側、島大松江ベンチ。
佐野ひまわりが、一冊のノートを開いていた。
何度も開いたため、ページの端は少し丸くなっている。
そこには星承の選手一人一人について、球種、配球、打球方向、カウント別傾向、走者を置いた場合の変化まで、びっしりと書き込まれていた。
小林翔真。
そのページの一か所に、太い線が引いてある。
《初回――直球比率が高い》
昨日までに調べたものだ。
試合が始まれば、映像もタブレットも必要ない。
必要なものは、すべてここにある。
ひまわりが顔を上げた。
鈴木監督と目が合った。
監督は何も言わない。
もう、伝えてある。
――初回を狙う。
――小林が試合のリズムをつかむ前に、直球を叩く。
ネクストバッターズサークル。
二番・竹内さおりが立っていた。
バットを握り、こなつと小林だけを見ている。
その次。
三番・和田八雲はベンチ前。
バットを手に、ゆっくりと身体を動かしていた。
「こなつ」
八雲が小さく呟く。
「行け」
聞こえるはずはない。
だが、こなつはバットを一度だけ強く握った。
小林がセットする。
球場が静まった。
「プレイ!」
第一球。
小林の右腕が振り抜かれる。
速い。
直球――。
こなつが踏み込んだ。
振る。
――カァァァン!
『打った!』
右中間。
中堅・米田が走る。
右翼・森下も走る。
二人が懸命に追う。
しかし――。
白球はその間を抜けた。
『抜けた! 右中間を真っ二つ!』
こなつは一塁を蹴った。
速い。
二塁へ。
森下が打球を追う。
米田も回り込む。
こなつは二塁を蹴った。
三塁へ。
スタンドが一斉に立ち上がる。
「行けぇぇぇ!」
打球に追いついた星承外野陣から、ようやく返球が始まる。
こなつが三塁を回った。
『ホームへ来る! 石川こなつ、一気にホームへ!』
中継。
ホームへ。
捕手・石破がマスクを外した。
送球が来る。
こなつが飛び込む。
砂煙。
一瞬――何も見えない。
球審が両腕を広げた。
「セーフ!」
爆発した。
島大松江応援席だけではない。
球場全体から、巨大な歓声が上がった。
『セーフ! セーフです! 石川こなつ、先頭打者ランニングホームラン!』
スコアボードに「1」が入る。
島大松江 1
星承 0
こなつは立ち上がった。
拳を突き上げない。
飛び跳ねない。
ユニフォームについた土を払い、静かにホームベースを離れる。
これが島大松江の野球だった。
ベンチへ戻る途中。
次打者のさおりとすれ違う。
目が合う。
さおりが、ほんのわずかに頷いた。
こなつも頷く。
それだけだった。
だが、二人には十分だった。
『二番、キャッチャー、竹内さん』
さおりが右打席へ。
小林が投げる。
――カン!
『センター前!』
さおりが一塁へ。
無死一塁。
『三番、ピッチャー、和田君』
八雲が左打席へ入る。
「俺も続く」
小林のボールを捉える。
――カァン!
『ライト前! 三連打!』
さおりが二塁へ。
八雲が一塁へ。
無死一、二塁。
星承ベンチ。
石川監督の表情は変わらない。
だが、その目は鋭くなっていた。
一方、島大松江ベンチ。
ひまわりはノートを見ていた。
「……やっぱり」
美佐子部長が横を見る。
「ひまわり?」
「三人とも、直球です」
ひまわりが顔を上げた。
「狙い通りです」
そして――。
四番。
「竹下ぁぁぁ!」
島大松江応援席から大歓声が飛ぶ。
竹下大和。
大和が打席へ向かう。
ベンチには、亡き兄・大樹がかつて袖を通したユニフォームがある。
大和は一度だけ、それを見る。
そして打席へ。
「お願いします」
小さく頭を下げた。
構える。
小林が投げた。
直球。
大和のバットが出る。
――カァァァァン!
『打ったぁ!』
左中間。
深い。
さおりが三塁を回る。
八雲も続く。
『竹内ホームイン! 和田も来る!』
二人が生還。
大和は二塁へ。
『タイムリー二塁打! 竹下大和! 島大松江、なんと初回、四者連続安打! 三点です!』
スコアボード。
3―0。
満員の球場がどよめいている。
『これは驚きました。全国屈指の小林君から、まだアウト一つを取られる前に三点です』
解説者はスコアブックを見ながら答えた。
『偶然ではないと思います』
『と言いますと?』
『四人とも直球への反応が非常に速い。島大松江は、小林君の立ち上がりについて、何か傾向をつかんでいた可能性がありますね』
星承ベンチが動いた。
石川監督が選手を呼ぶ。
短い指示。
選手が伝令としてマウンドへ走った。
内野陣が小林の周囲に集まる。
石川監督自身はベンチから動かない。
じっとマウンドを見ている。
伝令が戻った。
小林は帽子を取り、大きく息を吐いた。
そして再び打席を見た。
その目が変わっていた。
五番・梶谷出雲。
空振り三振。
六番・山内隆一。
空振り三振。
七番・阿知波ダン。
二塁ゴロ。
「アウト!」
スリーアウト。
小林は崩れなかった。
四連打を浴びながら、そこから三人を打ち取った。
『さすがですね』
解説者が言った。
『三点を失いました。しかし、ここで立て直した。これが星承のエース、小林翔真です』
鈴木監督もそれを見ていた。
「……そう簡単にはいかないか」
決勝なのだ。
全国ベスト4なのだ。
三点取ったくらいで、終わる相手ではない。
◇
一回裏。
島大松江の選手たちが守備位置へ散っていく。
最後にマウンドへ向かったのは――。
和田八雲。
八雲がマウンドの土を踏む。
三点の援護。
それでも表情は変わらない。
さおりがマスクをかぶった。
八雲を見る。
「八雲」
「あ?」
「今日は最初から?」
八雲が笑った。
「ああ」
「最後までもたなくなるぞ」
「知らねえよ」
八雲はボールを握った。
「今日は決勝だろ」
そして言った。
「最初から全部だ」
さおりが笑う。
「分かった」
ミットを構えた。
『一番、ショート、岡本君』
岡本颯太。
俊足巧打。
星承打線の切り込み隊長。
八雲が投げる。
――ズバン!
ミットの音だけで、スタンドがどよめいた。
『速い! 和田、初回から飛ばしています!』
岡本も食らいつく。
次の球。
――カァン!
『打った! センター前――』
誰もがヒットだと思った。
だが。
一人だけ、違った。
こなつ。
スタートを切っている。
前へ。
前へ。
さらに前へ――。
「こなつ!」
最後は身体ごと飛んだ。
――バシッ!
芝生の上を滑る。
こなつが右手を上げた。
グラブの中。
白球。
「アウト!」
『捕ったぁぁぁ! 石川こなつ、ダイビングキャッチ!』
大歓声。
八雲が振り返る。
こなつは立ち上がった。
何事もなかったようにボールを返す。
八雲が受け取った。
こなつを見る。
こなつも八雲を見る。
それだけ。
言葉はいらない。
『二番、ライト、森下君』
左打席。
八雲が投げる。
森下が当てた。
ボテボテ。
三塁線寄り。
鈴木太一が前へ出る。
「間に合え!」
グラブでは遅い。
太一は素手でつかんだ。
そのまま一塁へ。
送球。
一塁手・山内が捕る。
「アウト!」
二死。
『素晴らしいプレー! 一年生・鈴木太一! 素手で処理しました!』
八雲が太一を見る。
太一はもう三塁へ戻っている。
派手なガッツポーズはない。
八雲が小さく笑った。
「やるじゃねえか」
そして。
『三番、ファースト、水木君』
空気が変わった。
水木蓮司。
左の強打者。
ドラフト候補。
星承が誇る中心打者の一人。
水木が左打席へ入る。
バットを構える。
八雲を見る。
八雲も見る。
初球。
ファウル。
二球目。
ボール。
三球目。
ファウル。
追い込んだ。
水木が一度打席を外した。
深く息を吐く。
再び入る。
八雲がロージンに触れた。
さおりがサインを出す。
八雲。
首を振る。
もう一度。
首を振る。
さおりが八雲を見る。
「……分かったよ」
外角へ。
ミットを構える。
八雲がセット。
一瞬、止まる。
そして――。
左腕が振られた。
白球が走る。
水木が振る。
――ズバァァァン!
ミットが鳴った。
球審の右手。
「ストライク! バッターアウト!」
水木のバットは空を切っていた。
その直後。
電光掲示板に数字が出る。
150 km/h
一瞬。
球場が静まった。
そして――。
大歓声。
『150キロォォォ!』
実況席からも声が上がった。
『和田八雲! 最後は外角への150キロのストレート! 星承の三番・水木を空振り三振!』
三者凡退。
八雲は吠えなかった。
拳も突き上げなかった。
マウンドを降りる。
途中でセンターを見る。
こなつ。
三塁を見る。
太一。
そして最後に、ホームから歩いてくるさおりを見る。
八雲が小さく言った。
「……ありがとな」
「何か言った?」
さおりが聞く。
「何でもねえよ」
「聞こえたけど」
「うるせえ」
さおりが笑った。
八雲も、ほんの少しだけ笑った。
一回終了。
スコアボードには――。
島大松江 3
星承 0
先頭打者、石川こなつのランニングホームラン。
四者連続安打。
初回三得点。
そしてその裏。
守備二つのファインプレー。
最後は150キロの直球で三振。
誰も予想しなかった決勝戦の幕開けだった。
だが――。
島大松江ベンチ。
鈴木監督は笑っていない。
視線の先。
三塁側、星承ベンチ。
石川監督もまた、笑っていなかった。
春の選抜ベスト4。
全国制覇候補。
この程度で終わる相手ではない。
鈴木が静かに言った。
「ここからだぞ」
ひまわりが紙の分析ノートを開く。
一ページめくった。
まだ白いページ。
そこへ鉛筆を走らせる。
一回終了 3―0。
そして、その下にもう一行。
ひまわりは書いた。
《小林――立ち直った》
顔を上げる。
マウンドでは、小林が二回へ向けてキャッチボールを始めていた。
ひまわりは、その姿をじっと見つめる。
「監督」
「ん?」
「ここからですね」
鈴木は答えなかった。
ただ、小さく頷いた。
甲子園まで、あと一勝。
しかし――。
決勝戦は、まだ一イニングしか終わっていない。




