イニング2
二回表。
島大松江ベンチでは、選手たちがグラウンドへ視線を向けていた。
スコアは三対〇。
初回、星承のエース小林翔真から四者連続安打。
だが、小林はそこから三者を打ち取っている。
実況席。
アナウンサーがグラウンドを見渡しながら、ふと思い出したように解説者へ問いかけた。
『そういえば今日は、島大松江のメンバー全員がユニフォーム姿ですね』
『そうですね』
『公式戦ではベンチに入れないバーンズコーチ、松田コーチもいつも通りユニフォーム姿。そして今日は鈴木美佐子部長、マネージャーの佐野ひまわりさんまでユニフォーム姿で、試合前にはグラウンドへ出てノックの手伝いをしていました』
アナウンサーが笑う。
『しかし――あのノック、凄かったですね』
解説者も思わず笑った。
『そりゃあ、バーンズコーチですからね。鈴木監督と同じく、野球界のレジェンドです』
『ノックというより、普通の打球に見えました』
『いや、普通のノックの打球スピードじゃありませんよ』
そして解説者は続けた。
『ただね。本当に凄いのはバーンズコーチだけじゃないんです』
『と言いますと?』
『あの打球を確実に捕球して、きちんと送球している島大松江の選手たちですよ。あれを毎日のように受けている。だから、このチームは守備でも簡単に流れを渡さないんです』
その言葉を証明するように――。
打席へ、一年生が向かっていた。
『さあ二回。先頭は八番、鈴木太一!』
球場がざわめく。
『ここまで予選打率四割五分。しかも鈴木は両打ち、スイッチヒッターです。そしてあの鈴木監督の血を繋ぐ息子さんです』
『しかし本当に一年生とは思えない数字ですね』
『今日は右投げの小林投手に対し、左打席に入ります』 デビルマンのテーマ曲が球場を包む
太一が構える。 ベンチでは、ひまわりが目をつむって祈る。がんばれ太一。
小林が投げる。
ストライク。
二球目。
ファウル。
三球目。
ボール。
四球目。
ファウル。
五球目。
またファウル。
六球。
七球。
八球。
九球――。
また、ファウル。
『粘る! 鈴木太一、粘ります!』
小林がマウンド上で一度息を吐いた。
十球目。
投げた。
太一の身体が回る。
父親によく似た、無駄のないスイング。
――カァァァァン!
一瞬。
球場全体が打球を見上げた。
『ライトへ――!』
高い。
伸びる。
右翼手が下がる。
下がる。
そして――。
見送った。
白球がライトスタンドへ飛び込んだ。
『入ったぁぁぁぁ!』
大歓声。
『鈴木太一! 十球粘った末のホームラン! 恐るべき一年生です!』
四対〇。
太一は淡々とダイヤモンドを回る。
解説者が興奮を抑えきれない。
『これですよ』
『はい』
『この打者が八番にいる。それが島大松江の強さであり、怖さなんです。上位打線を切り抜けても、下位からまたこういう打者が出てくる』
一塁側ベンチ。
「よっしゃ!」
「太一ぃ!」
選手たちが盛り上がる。
ただ一人。
鈴木監督は腕を組んだまま、表情を変えない。
その横で――。
「やったぁ!」
ひまわりが右手を高く上げていた。
その手に、何かが握られている。
背番号14、梨田が気づいた。
「あれ?」
ひまわりを見る。
「ひまわり、それ何?」
「え?」
「右手」
ひまわりが自分の手を見る。
「あっ」
梨田が吹き出した。
「デビルマンじゃん!」
ベンチの視線が一斉に集まる。
「そんなに太一を応援したいのか?」
「ち、違います!」
ひまわりの顔が真っ赤になる。
渡そうと思いながら、結局渡せなかったデビルマンのお守り。
それを無意識に握りしめていた。
ベンチが笑いに包まれる。
「違うって、これは、その……!」
美佐子部長が笑いながら、ひまわりの肩を抱いた。
「あなたのデビルマン、凄いねえ」
「美佐子部長まで!」
また笑いが起きる。
美佐子は今度は夫に話しかける。
「鈴木監督様」
鈴木監督はグラウンドを見たまま。
「今のバッティングフォーム、あなたそのものだったね」
反応なし。
「いいバッティングだったでしょ?」
少し間があった。
鈴木監督。
黙って――。
コクリ。
頷いた。
「認めた!」
ベンチ爆笑。
背番号10番塙が言った。
「監督、素直に喜んでいいですよ、素直に」
鈴木監督がゆっくり塙を見る。
「塙」
「はい?」
「メジャーリーグ見学、遠くなったな」
「ええっ!」
さらに大きな笑い。
しかし――。
三塁側ベンチ。
石川監督は笑っていなかった。
動いた。
球審へ交代を告げる。
やがて場内アナウンス。
『星承高校、選手の交代をお知らせいたします』
球場がざわつく。
『ピッチャー、小林君に代わりまして――角君 2番ライト森下君に変わりまして2番ピッチャー角君』「4番ライト小林君」
実況席も驚いた。
『ここで星承高校、投手交代です! エース小林を下げ、左腕・角を投入します!』
『これは予想外の展開でしょうね』
『まだ二回です』
『石川監督としては、これ以上の失点を絶対に阻止したいのでしょう。そして、試合のリズムを変えたい。角君は小林君とはまったくタイプが違います』
『角投手は、ここまで予選十イニングを投げて無失点です』
『非常に打ちにくい左投手ですよ』
九番・佐野慎之介。
空振り三振。
一番・石川こなつ。
三球三振。 アナウンサーが声を大きくする「ここまでほとんど3振をしない石川選手を見事に抑えました。それも3球で。恐るべし角投手」
「やられた。くやしー。次は必ず打つからな、角君待ってろ」
そして次は二番・竹内さおり。
浅いライトフライ。さおりは右打者だが球威に押された。 「いいピッチャーだ。小林投手より厄介かもしれない。簡単には打てない」
スリーアウト。
角は三人で切った。
島大松江ベンチの空気が変わる。
鈴木監督が立った。
「聞け」
笑いが消える。
「点を取った次の守りだ」
選手たちが監督を見る。
「点を取った直後は、こちらのリズムが少し狂いやすい。星承は、それを見逃すチームじゃない」
誰も動かない。
「初回。先頭の岡本のヒット性の当たりを、こなつが捕った。森下の打球を太一がアウトにした。あれで相手に流れを渡さなかった」
鈴木は全員を見る。
「渡すな」
短い言葉。
「流れも。リズムも」
そして。
「〇点で帰ってこい」
「はい!」
選手たちが一斉に守備位置へ向かった。
◇
二回裏。
先頭は四番・小林翔真。
マウンドを降りたばかりのエースが、今度は打者として立つ。
八雲が投げる。
小林が振る。
打球は遊撃へ。
梶谷出雲が落ち着いて処理。
一塁へ。
「アウト!」
一死。
そして五番。
左打ちの石破航平。
八雲が投げる。
石破が引っ張った。
『一、二塁間!』
二塁手・佐野慎之介が追う。
追いついた。
「慎之介!」
グラブを出す。
入った――。
と思った瞬間。
白球がこぼれた。
慎之介がすぐ拾う。
しかし間に合わない。
「セーフ!」
記録は――ヒット。
だが慎之介は、その場で帽子を取った。
「悪い!」
仲間を見る。
「アウトにできた。エラーと一緒だ」
誰も責めない。
だが。
誰も「気にするな」と笑って済ませることもしなかった。
こなつ。
さおり。
八雲。
梶谷。
山内。
太一。
大和。
阿知波。
全員が知っている。
ここまで何度、慎之介の守備に助けられてきたか。
だからこそ――。
慰めない。
次を任せる。
それが、慎之介への信用だった。
八雲がマウンドへ戻る。
次打者。
六番・米田悠真。
俊足。
八雲が投げる。
――カン!
『強い打球! センター方向!』
慎之介が走る。
また慎之介だ。
今度は――。
追いついた!
捕球。
その瞬間。
グラブから白球が飛んだ。
『グラブトス!』
遊撃・梶谷。
捕る。
二塁ベースを踏む。
一塁へ――!
「アウト!」
「アウト!」
『ダブルプレー!』
球場が沸いた。
慎之介は笑わない。
梶谷も笑わない。
だが二人はすれ違いざま――。
拳を出した。
コツン。
グータッチ。
それだけだった。
言葉はいらない。
慎之介は知っている。
梶谷が自分を信じて二塁へ入ってくれたことを。
梶谷も知っている。
慎之介なら次は必ず捕ると信じていたことを。
――心が、つながった。
二回裏終了。
八雲は次打者の松本へ向かいかけて、さおりに止められた。
「八雲」
「あ?」
「終わり」
八雲がスコアボードを見る。
「……あ」
さおりが呆れる。
「気合い入りすぎ」
八雲は鼻を鳴らした。
「松本も三振にしてやろうと思ったのによ」
「次の回にしなさい」
二人がベンチへ戻っていく。
実況席から笑い声。
『和田君、まだ投げる気だったようですね』
『それだけ気持ちが乗っているということでしょう』
解説者は、そこで声を少し低くした。
『ただ、星承にとっては苦しい展開になりました』
『四対〇です』
『点差以上に、島大松江が流れを渡していません。初回もそうでした。そして二回、佐野君が一度は捕り切れなかった打球を、次のプレーでは自分で併殺に変えた』
スコアボード。
島大松江 4
星承 0
『優勝候補が序盤に先行され、そのまま相手にリズムを握られる。高校野球では、こういう試合がそのまま進んでしまうこともあります』
アナウンサーが尋ねる。
『では、島大松江がかなり有利になったと?』
『いえ』
解説者は即座に否定した。
『だからこそ、怖いんです』
『怖い?』
『星承は春の全国ベスト4ですよ』
その視線の先。
星承ベンチ。
石川監督は腕を組み、じっとグラウンドを見ている。
四点差。
エース小林を二回で降ろした。
それでも――。
その顔には、焦りがなかった。
『石川監督は、おそらくもう次の手を考えています』
三回表へ向かう島大松江。
そして。
三回裏からは――。
七番・松本。
八雲はベンチでボールを握りながら、小さく呟いた。
「次こそ三振だ」
さおりが聞いていた。
「スプリット?」
八雲がニヤリとする。
「さあな」
四対〇。
島大松江が握った流れ。
だが決勝は――。
まだ、二回を終えたばかりだった。




