20回表 聖夏
決勝前日。
島大松江高校。
練習終了後。
山内が大きな袋を抱えて選手たちの前に現れた。
隣には太一。
「山内、それ何?」
さおりが尋ねた。
山内は袋をグラウンドに置いた。
「みんなに見てほしいものがあります」
袋を開く。
中から出てきたのは――。
野球ボール。
新品ではない。
泥で汚れている。
縫い目が擦れている。
何度もバットに打たれた跡。
使い込まれた練習球。
一つには、
『必勝』
別のボールには、
『甲子園へ』
そして。
『俺たちの分まで』
八雲が一つを手に取った。
「これ……」
山内が答えた。
「俺と太一君で行ってきました」
「どこへ?」
「ここまで島大松江と戦った学校です」
全員が言葉を失った。
太一が続けた。
「一校ずつ回りました」
「俺たちが勝ったから終わりじゃないと思ったんです」
山内が言う。
「明日の決勝、皆さんの思いも込めて一生懸命戦いますって、お願いしてきました」
太一が一つのボールを見せた。
そこには何人もの名前。
「そしたら、各校の野球部の皆さんが……」
山内。
「これを持っていけって」
使い古された練習球。
そこに染み込んでいるのは。
汗。
土。
涙。
敗れた球児たちの夏。
阿知波がボールを握った。
「重いな」
慎之介が首を傾げる。
「普通のボールだろ?」
「そういう意味じゃねえよ」
誰かが笑った。
しかし。
すぐに静かになった。
さおりが一つのボールを取った。
傷だらけだった。
その中央に大きく、
『必勝』
さおりはしばらく見つめた。
そして言った。
「決めた」
鈴木監督も黙って聞いている。
「明日の試合前ノック」
全員を見る。
「このボールを使おう。」
「え?」
「全部使う」
さおりはボールを胸に当てた。
「私たちは、自分たちだけで甲子園を目指してるんじゃない」
声が震えた。
「ここまで戦ったみんなの夏も、一緒に連れていこう」
八雲が笑う。
「落球できねえな」
大和も笑った。
兄から託されたグラブを左手にはめる。
「絶対捕る」
山内は頭を下げた。
太一も頭を下げる。
鈴木は二人を見る。
「山内。太一」
「はい」
「いい仕事したな」
二人の顔がほころんだ。
そして鈴木は選手たちを見る。
「覚えておけ」
「明日勝てば、お前たちは島大松江高校代表じゃない」
一呼吸。
「島根県代表になる。」
空気が変わった。
大樹も一緒に
その時。
グラウンド入口に人影。
大和だった。
兄・大樹から託されたグラブを手にしている。
昨日の準決勝。
大和はこのグラブを実際に使って守った。
そして。
サヨナラホームランを放った。
大和は鈴木監督の前に立った。
「監督」
「どうした」
「明日、四番を打たせてください」
鈴木は即答しなかった。
「理由は?」
大和はグラブを見る。
そこには。
『皆で甲子園』
そして、その下。
『託したぞ 大和』
大和は顔を上げた。
「兄のためじゃありません」
仲間たちが大和を見る。
「俺が――」
涙をこらえた。
「俺が、みんなと甲子園に行きたいからです。」
鈴木は大和を見つめた。
そして少し笑った。
「合格」
「ありがとうございます!」
大和は頭を下げた。
美佐子が静かに近づく。
手には。
大樹が島大松江野球部主将だった頃のユニフォーム。
「大和君」
「はい」
「これは明日、私が預かるね」
大和がユニフォームを見る。
美佐子は優しく笑った。
「大樹君にも、ベンチから見てもらいましょう」
大和は唇を噛んだ。
そして。
深く頭を下げた。
「お願いします」
秘密の応援
夜。
別の教室では、もう一つの戦いが始まっていた。
ひまわり。
応援主将・島崎。
応援団長・長谷川。
チアダンス部・江上。
吹奏楽部・青木。
合唱部・若林。
ITシステム部・佐々岡。
放送部・徳川。
パソコン画面。
『島根県大会決勝 応援プログラム』
個人応援曲。
通常応援。
守備時。
得点時。
そして最下段。
一つだけ別枠。
SPECIAL CHANCE
島崎が画面を見る。
「ひまわり」
「はい」
「本当にやるのか?」
「必要なら」
「こんな応援、見たことないぞ」
ひまわりは平然としていた。
「だから効くんです」
長谷川が笑う。
「鈴木監督に似てきたな」
「それは褒め言葉ですか?」
「最大級のな」
ひまわりは画面を見る。
「使うのは、選手だけでは流れを変えられなくなった時です」
「応援で試合を変える?」
「違います」
ひまわりは首を横に振った。
「選手が自分たちの力を出せるようにするんです」
そして。
小さく笑った。
「その時は、球場全部を島大松江の応援席にします。」
監督室
その頃。
監督室には四人がいた。
鈴木監督。
美佐子部長。
松田コーチ。
バーンズコーチ。
しばらく誰も話さなかった。
鈴木が松田に尋ねた。
「松田さん」
「なんだ?」
「いつから気づいていたの?」
松田は笑った。
「最初からだよ」
鈴木も笑った。
「話が早いね」
バーンズが自動翻訳機を操作する。
機械音声が流れた。
「サスガ、ミスター・マツダ。アナタノ、シンガンハ、スベテヲ、ミヌク」
松田が苦笑する。
「心眼はそういうものじゃないんだけどな」
少しだけ笑いが起きた。
しかし。
バーンズの表情が変わった。
「スズキ」
鈴木も笑顔を消した。
「約束の三年だ」
美佐子が目を伏せた。
「ボスが待っている」
沈黙。
そして。
「契約だ。」
鈴木は何も言わない。
バーンズは続けた。
「君は来季から、ライナーズ初の日本人監督だ。」
静まり返った。
松田はすでに知っていた。
美佐子も知っている。
知らないのは。
あの子たちだった。
バーンズが鈴木を見る。
「スズキ。君の気持ちは分かっている」
自動翻訳機の声だけが部屋に響く。
「私もコーチとして、あの子たちと過ごした」
「今では、頭から離れない」
そして。
最も残酷な言葉を告げた。
「だが明日の決勝に勝っても、君は甲子園には行けない。」
鈴木の拳が、わずかに握られた。
「君が行くのは――」
一呼吸。
「ロサンゼルスだ。」
長い沈黙。
鈴木は窓の外を見る。
誰もいないグラウンド。
三年間。
ここに立った。
怒った。
笑った。
選手とぶつかった。
女子選手を受け入れた。
八雲と喧嘩した。
さおりを主将にした。
こなつの成長を見た。
大和を見守った。
山内を見た。
玉木が戻ってきた。
そして。
息子・太一と再び向き合った。
ひまわりという、とんでもない一年生にも出会った。
「……分かってるよ」
鈴木は寂しそうに答えた。
美佐子が立ち上がった。
何も言わない。
鈴木のそばへ歩いていく。
そして。
黙って夫を抱きしめた。
鈴木も何も言わなかった。
松田も。
バーンズも。
何も言わなかった。
しばらくして鈴木が呟いた。
「明日か」
松田。
「ああ」
「俺たち、星承に一度も勝ったことないんだよな」
「知ってる」
鈴木は笑った。
「春の甲子園ベスト4。全国制覇候補」
バーンズ。
「VERY STRONG」
「分かってるよ」
鈴木は窓の向こうを見る。
「でもな」
三人が鈴木を見る。
「明日だけは――」
鈴木の目が監督の目に戻った。
「負ける気がしない。」
その夜。
星承高校。
石川賢一監督は、一人でスコアブックを見ていた。
一番。
石川こなつ。
自分の娘。
その名前に赤い線を引く。
「お前を抑えれば、島大松江の得点力は落ちる」
父親ではない。
明日は敵将。
そして。
島大松江高校。
鈴木監督も一人、決勝のオーダー表を見ていた。
一番、石川こなつ。
二番、竹内さおり。
三番、和田八雲。
四番、竹下大和――。
指が止まる。
「甲子園か……」
勝てば。
選手たちは行く。
自分は行かない。
その事実を。
まだ誰も知らない。
鈴木はオーダー表を閉じた。
そして、誰もいないグラウンドへ出た。
ホームベースの前に立つ。
夜空を見上げた。
「三年か」
静かな風が吹いた。
「短かったな。」
翌日。
島根県大会決勝。
星承高校 対 島大松江高校。
甲子園まで。
あと一つ。
そして――。
鈴木監督と選手たちが一緒に戦える試合も。
あと一つ。




