19回裏 家族
準決勝の翌朝。
島大松江高校野球部のグラウンドには、一人だけ姿がなかった。
竹下大和。
誰も理由を尋ねなかった。
昨日、九回裏。
大和が放った逆転サヨナラツーラン。
島大松江は名門・出雲社学園を破り、決勝進出を決めた。
その歓喜の裏で――。
大和の兄・大樹は、その生涯を終えた。
鈴木監督が選手たちの前に立った。
「竹下は今日は休ませる」
静寂。
「明日の決勝に出場するかどうかも、本人に決めさせる。俺から出ろとは言わない」
八雲が顔を上げた。
「監督」
「なんだ」
「大和なら、来ますよ」
鈴木は答えなかった。
しばらくして、選手たちを見渡した。
「一つだけ言っておく」
声が強くなった。
「明日は、大樹のためだけに戦う試合じゃない」
全員が鈴木を見る。
「大樹の思いも背負う。当然だ。だが、お前たち一人一人にも、ここまで野球を続けてきた理由がある」
さおり。
こなつ。
八雲。
山内。
阿知波。
太一。
慎之介。
玉木。
そして、ひまわり。
「家族とぶつかった奴もいる。怪我と戦った奴もいる。自分自身と戦った奴もいる。ベンチに入れなかった仲間もいる。そして、ここまで俺たちと戦って敗れた学校もある」
鈴木は右手の人差し指を立てた。
「あと一つ」
誰も動かない。
「甲子園まで、あと一つだ」
そして、意外な言葉が続いた。
「今日の練習は二時間で終わる」
「え?」
八雲が思わず声を上げた。
「監督、明日決勝ですよ」
「知ってる」
「だったら――」
「今さら一日で急に上手くなるのか?」
「いや、それを監督が言います?」
笑いが起きた。
鈴木も少し笑った。
「今日は野球を覚える日じゃない」
そして選手たちを見た。
「明日、一緒に野球をする仲間を覚えて帰れ」
決勝前日。
最後の練習が始まった。
背番号20
その夜。
玉木家の食卓。
父・正雄は、いつものように新聞を広げていた。
玉木は、その向かいに座った。
「父さん」
「なんだ」
「話がある」
新聞は下がらない。
玉木は拳を握った。
「俺……野球部に戻ってる」
沈黙。
「父さんに内緒で復部した」
それでも正雄は何も言わない。
「背番号も、もらった」
「何番だ」
玉木は驚いた。
「……20」
「そうか」
「父さんとの約束を破った。ごめんなさい」
母親も頭を下げた。
「あなた、私からも謝ります。私、知ってたの」
ようやく正雄が新聞を畳んだ。
そして二人を見た。
「お前たちな」
大きく息を吐く。
「これだけ全国で話題になっているのに、俺が知らないと思っていたのか?」
玉木が固まった。
「え?」
「新聞にも載る。テレビでもやる。会社へ行けば『社長、息子さん甲子園行けそうですね』だ」
「あなた……」
「知らないふりをしてただけだ」
玉木の目が潤んだ。
「父さん……ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
正雄は湯呑みに手を伸ばした。
「明日、決勝か」
「うん」
「負ければ終わり」
「……うん」
「それでいい。負けたら勉強に打ち込め」
玉木の顔が曇る。
「経営者の目で判断すれば、明日の星承高校には勝てない」
「父さん!」
「今日の勝利は奇跡だ」
「奇跡じゃない!」
玉木が父親の目を見て言い返した。
正雄は黙った。
以前の息子なら、ここまで強く自分に言い返さなかった。
「……だったら証明してこい」
「え?」
「ビジネスも同じだ。一度なら偶然で成功することもある。運良く契約が取れることもある」
正雄は息子を真正面から見る。
「だが、本当に力がなければ二度目はない」
そして言った。
「連続して奇跡は起こらない」
正雄は、本当は嬉しかった。
経営者に必要なのは、決断。
そして、挑戦。
息子は十七歳で、その二つを学ぼうとしている。
――頑張れ。
言いたかった。
だが、今まで反対してきた父親には、どうしても素直に言えなかった。
「まあ、負けて泣いてこい」
「は?」
「父さんは経営者として、どんな時も泣かずに頑張ってきた」
少し間を置く。
「だから高校生のうちくらい、最後に思いっきり泣いてきなさい」
玉木は父親を見つめた。
この人なりの応援なのだと、分かった。
だが正雄は、最後まで正雄だった。
「どうせ明日の決勝、お前が出場する機会もないだろうしな」
玉木の眉が上がった。
「父さん。それ覚えておいてよ」
「なんだ」
「俺、背番号20だから」
「知ってる」
「知ってるんかい!」
母親が吹き出した。
「明日は会社の大事なプレゼンテーションがある。球場には行けん」
「……うん」
「一応、ここで応援しておく」
新聞を再び広げる。
「悔いなく、しっかり負けてこい」
玉木は立ち上がった。
「分かった」
そして笑った。
「じゃあ父さんの予想、外してくるよ」
玉木が二階へ上がった。
母親が正雄を見る。
「あなた。本当は嬉しいんでしょう」
「何が」
「野球を続けてくれて」
「……うるさい」
新聞のスポーツ面。
島大松江、決勝進出。
正雄は小さく掲載された息子の名前を指でなぞった。
誰にも聞こえない声だった。
「……頑張れ」
県知事ではなく、父親
同じ夜。
竹内家。
「さおり!」
玄関を開けた瞬間だった。
「おかえり! 肩は大丈夫か? 膝は? 腰は? 明日何食べたい? 肉か? 魚か?」
「お父さん」
「なんだ?」
「うるさい」
「…………」
居間から祖母の笑い声。
「県知事さんも、娘の前では形無しだねえ」
「母さんまで!」
島根県知事・竹内。
県政を預かる男。
だが、一人娘の前ではただの父親だった。
「明日は決勝なんだぞ。体調管理は――」
「自分でできます」
「マッサージを――」
「いりません」
「じゃあ父さんが――」
「もっといりません」
祖母が腹を抱えて笑った。
その居間には、一枚の写真が飾られている。
さおりの母。
十年前、事故で亡くなった。
さおりはまだ幼かった。
父。
祖母。
そして一人娘のさおり。
三人で暮らしてきた。
さおりが仏壇の前に座った。
「お母さん」
手を合わせる。
「明日、決勝だよ」
父親はその背中を見つめた。
やがて、古いアルバムを持ってきた。
「さおり」
「なに?」
開かれたページ。
高校球児たちの写真。
その後ろには――甲子園。
さおりの目が大きくなる。
「これ、お父さん?」
「まあな」
「甲子園、出たの?」
「一応」
「聞いてない!」
「聞かれなかった」
「普通言うでしょ!」
祖母が笑う。
「昔から格好つけだからねえ」
父は少し照れた。
「お前が野球を始めてから言ったら、自慢しているみたいだろ」
さおりは写真を見つめた。
父親も。
同じ場所を目指したことがある。
「ねえ、お父さん」
「なんだ」
「鈴木監督が島大松江に来たのって……」
父親は少し黙った。
そして、亡き妻の写真を見た。
「お前には、まだ話してなかったな」
三年前。
竹内は一人の男に何度も頭を下げていた。
鈴木。
世界を知る元メジャーリーガー。
最初は断られ続けた。
それでも竹内は諦めなかった。
「娘はあなたのファンで、あなたを見て野球を始めました」
鈴木は黙って聞いていた。
「でも、娘だけではありません。あなたに憧れて野球を好きになった人がたくさんいる」
竹内は頭を下げた。
「私たちにとって、あなたは神様みたいな人です。だから通常なら叶えられない夢だと理解しています」
そして顔を上げた。
「島根は神在月に全国の神々を迎える土地です。だからというわけではありませんが――」
少し笑った。
「私たちにとって神様のようだったあなたを、いつか島根に迎えたいと願っていました」
鈴木は何も言わない。
「あなたが来てくれれば、島根県の野球は全国に、いや、いつか世界にまで注目されるかもしれない」
「県知事としての依頼ですか」
竹内は首を横に振った。
「それだけではありません」
そして静かに言った。
「あなたの奥さん、美佐子さんは、私の妻の親友でした」
鈴木の目が動いた。
「妻が亡くなってからも、美佐子さんは毎年、墓参りに来てくれています」
竹内はもう一度頭を下げた。
「これも縁――えにし――だと思っています」
「どうか、ご検討ください」
鈴木は、その場では答えなかった。
だが。
やがて覚悟を決めた。
島根へ。
妻の母校・島大松江高校へ。
そして監督就任後。
野球部へ入ってきた女子選手の一人が――。
竹内さおりだった。
現在。
さおりは父親を見つめていた。
「じゃあ……お父さんが?」
「きっかけの一つではある」
「なんで今まで言わなかったの?」
父親は笑った。
「鈴木監督の下で野球ができるのは、お前自身が努力してつかんだものだ」
そして娘の頭に手を置く。
「父親の力で手に入れたなんて、一度でも思ってほしくなかった」
さおりの目に涙が浮かんだ。
「お父さん……」
「さおり」
「なに?」
「明日――」
父親の目が高校球児だった頃の目に変わった。
「甲子園を知っている先輩として一つだけ言う」
さおりは聞いた。
「甲子園は、行こうと思って行ける場所じゃない」
そして笑った。
「だから、仲間とつかんでこい。」
「うん」
「それから怪我は――」
「もういい!」
祖母の笑い声が、竹内家に響いた。
父と娘、敵として
夜。
石川こなつのスマートフォンが鳴った。
表示された名前を見て、こなつの表情が変わる。
父。
「もしもし」
『こなつ』
星承高校監督・石川賢一。
五年前に母と離婚して以来、こなつは母と弟の三人で暮らしている。
だが。
野球だけは。
父と娘を今もつないでいた。
『明日だな』
「うん」
『お前は県内でも有数のコンタクトヒッターだ』
「いきなり何?」
『お前を抑えれば島大松江の得点力はかなり落ちる』
こなつは笑った。
「敵の選手を褒めていいの?」
『選手の評価に敵も味方もない』
少し間。
『いい選手になったな、こなつ』
こなつは答えなかった。
『うちにいたとしても、一番センターのレギュラーだ』
「……ありがとう」
『島大松江はいいチームだ』
父は続けた。
『監督も含めて個性的だ。規律もある。チームワークもいい。俺も好きなチームだよ』
「だったら明日、負けてよ」
父親が笑った。
『それは無理だ』
今年春。
石川賢一率いる星承高校は選抜大会ベスト4。
島根県高校野球史上最強とも言われる。
全国制覇すら狙えるチーム。
そして鈴木監督就任後も。
島大松江は、練習試合を含めて一度も星承に勝っていない。
『力は、俺たちが上だ』
「知ってる」
こなつは即答した。
そして。
笑った。
「でも、明日は私たちが勝つよ。」
電話の向こうで父親も笑った。
『だから楽しみなんだ』
「じゃあ明日ね、監督」
『ああ。明日な、石川選手』
電話が切れた。
こなつはスマートフォンを胸に当てた。
父親だから倒したいのではない。
憎いからでもない。
尊敬しているから。
強さを知っているから。
勝ちたい。
「お父さん」
小さく呟いた。
「明日は、娘だからって容赦しないからね」




