18回裏 かけひき
七回表。
スコアは変わらない。
出雲社学園 1―0 島大松江
六回。
和田八雲は、一球も変化球を投げなかった。
全球ストレート。
そして七回。
最初の二球。
どちらも変化球。
出雲社学園の石塚監督は、ベンチから八雲を見つめていた。
三球目。
スライダー。
ファウル。
四球目。
カーブ。
ボール。
五球目。
フォーク。
空振り。
「ストライク! バッターアウト!」
一死。
八雲は何の表情も見せない。
さおりも同じだった。
全国高校野球ライブ。
実況・高瀬健一が声を上げる。
『長岡さん。七回に入って五球ですが、まだストレートがありません』
解説・長岡征一郎が頷く。
『やはり意図的でしょう』
『六回は全球ストレート。そして今度は全球変化球?』
『もし本当にそうなら、かなり大胆ですよ』
次打者。
第一球。
カーブ。
ストライク。
第二球。
スライダー。
ボール。
第三球。
フォーク。
ファウル。
第四球。
カーブ。
打った。
セカンドゴロ。
慎之介が正面で捕球する。
一塁。
アウト。
二死。
慎之介は表情を変えずにボールを八雲へ返した。
実況席。
『また変化球だけです』
長岡が呟いた。
『徹底していますね』
次打者。
出雲社学園ベンチから声が飛ぶ。
「変化球に絞れ!」
当然だった。
六回のデータ。
七回のデータ。
誰が見ても。
今度は変化球しか来ない。
初球。
スライダー。
見送る。
ストライク。
二球目。
フォーク。
ボール。
三球目。
カーブ。
打者が踏み込む。
カキン!
センター前。
ヒット。
二死一塁。
八雲は表情を変えない。
さおりもすぐ次の打者を見る。
出雲社学園応援席が沸く。
石塚監督は。
喜ばなかった。
むしろ。
鈴木監督を見た。
――打たれても構わないのか。
そう見えた。
次打者。
一塁ランナーが大きくリードする。
初球。
スライダー。
ストライク。
二球目。
カーブ。
ファウル。
三球目。
フォーク。
外れた。
1―2。
四球目。
またスライダー。
ファウル。
五球目。
カーブ。
ボール。
2―2。
六球目。
フォーク。
打った。
弱いショートゴロ。
梶谷出雲。
一歩前へ。
捕球。
二塁へ。
アウト。
スリーアウト。
七回表終了。
1―0。
八雲はベンチへ歩いていく。
ラインを越えた瞬間。
大きく息を吐いた。
「変化球だけって、逆に疲れるな。」
さおりがマスクを外した。
「でも予定通り。」
「何球?」
ひまわりがスコアブックを見る。
「七回、十八球。全部変化球です。」
八雲が苦笑する。
「本当に全部やったのか。」
「あなたが投げたんでしょ。」
ベンチに小さな笑い。
実況席。
『確認が取れました。七回、和田八雲、十八球。ストレートはゼロです』
『六回は全球直球。七回は全球変化球』
『長岡さん、こんな配球をどう見ます?』
長岡は少し考えた。
『本当の狙いは八回でしょうね』
『八回?』
『普通に戻すんですよ、おそらく』
『普通に?』
『はい。ストレートも来る。変化球も来る』
長岡は笑った。
『ところが、もう普通じゃない。打者の頭には六回と七回の記憶が残っていますから』
SNSも沸いていた。
《マジで変化球しか投げなかった》
《6回全部直球、7回全部変化球》
《意味分からんけど面白い》
《これ8回どうすんの?》
《普通に戻すんじゃね》
《それが一番嫌だろ》
《八雲だからできるんだよな》
《さおりのリードもすごい》
《出雲社学園も全然崩れない》
《まだ1―0だぞ。結局勝ってるの出雲社》
《俺は石塚監督応援する》
《奇策VS王道みたいになってきた》
《女子とか元メジャーとかどうでもよくなってきた。試合が普通に面白い》
しかし。
出雲社学園の選手たちには。
まだ余裕があった。
スコアは1―0。
自分たちが勝っている。
島大松江は七回になっても一点すら取れていない。
六回の奇策も。
七回の奇妙な配球も。
結局。
得点にはつながっていない。
そう思っていた。
ただ一人。
石塚監督を除いて。
七回裏
島大松江。
五番。
ショート・梶谷出雲。
梶谷が打席へ入る。
いつもの個人応援曲が始まる。
初球。
セーフティーバントの構え。
ボール。
二球目。
また構える。
ストライク。
三球目。
バントの構え。
ファウル。
追い込まれる。
梶谷がバットを立てた。
第四球。
ファウル。
第五球。
ボール。
第六球。
またファウル。
七球目。
外角。
見送る。
ボール。
フルカウント。
投手が息を吐く。
八球目。
梶谷。
ファウル。
九球目。
低い。
梶谷は見送った。
「ボール!」
フォアボール。
ノーアウト一塁。
梶谷は喜ばない。
一塁へ静かに向かう。
防具を外す。
そして。
大きなリード。
その瞬間だった。
突然。
応援が止まった。
『おや?』
実況・高瀬がスタンドを見る。
『島大松江の応援が止まりました』
球場に。
ほんの数秒。
奇妙な静寂。
一塁上の梶谷も。
打席へ向かう山内も。
表情を変えない。
だが。
島大松江ベンチでは。
ひまわりがゆっくり立ち上がっていた。
「来る……。」
美佐子部長が聞く。
「何が?」
ひまわりはスタンドを見る。
「島崎先輩です。」
スタンド。
応援主将。
島崎が立っていた。
右手を上げる。
応援団長・長谷川。
吹奏楽部長・青木。
チアダンス部・江上。
合唱部・若林恵。
ITシステム部・佐々岡。
放送部・徳川。
全員が。
島崎だけを見る。
島崎がグラウンドを見つめた。
背番号はない。
けれど。
自分にも戦う場所がある。
「行くぞ!」
右手を振り下ろした。
その瞬間。
吹奏楽が鳴った。
誰も予想していなかった旋律。
『残酷な天使のテーゼ』。
「え……?」
実況席の高瀬が思わず声を漏らした。
続いて。
合唱部。
全国合唱コンクール個人部門優勝者。
若林恵がリードする。
さらに応援団。
全校生徒。
チアダンサー。
一斉に動く。
音。
声。
動き。
すべてが同じリズムに重なった。
球場の空気が。
一瞬で変わった。
『これは凄いですね……』
高瀬の実況が一瞬遅れた。
長岡もスタンドを見ている。
『応援が……一つの演出になっています』
『これまで打者ごとに応援曲を変えていた島大松江ですが、ランナーが出た瞬間、チーム共通の曲に切り替えました!』
スタンドでは。
島崎が全体を動かす。
青木の吹奏楽。
若林の歌声。
江上たちのダンス。
徳川から各リーダーへ送られる指示。
そして。
ITシステム部。
タブレットが一斉に掲げられた。
光の帯。
文字。
次々と変化していく。
観客まで。
次第にそのリズムへ飲み込まれていった。
打席。
六番。
山内隆一。
山内自身も驚いていた。
――すごい。
だが。
表情には出さない。
バントの構え。
一塁では梶谷が動く。
投手が見る。
投げられない。
プレートを外す。
観客席から拍手。
再び。
山内が構える。
第一球。
ストライク。
二球目。
ボール。
三球目。
梶谷がスタートする素振り。
投手が牽制。
セーフ。
応援は止まらない。
山内が一度打席を外す。
バーンズに言われた言葉が頭をよぎる。
――一呼吸。
――間。
だが。
今はホームランを狙う場面ではない。
チームのために。
一球。
第四球。
ストライク。
追い込まれた。
ここでバットを立てる。
第五球。
ファウル。
第六球。
ファウル。
第七球。
外角。
ボール。
2―2。
第八球。
山内が振る。
カキーン!
鋭い。
センター前。
誰もが抜けると思った。
しかし。
高瀬悠斗が前へ。
滑り込む。
捕った!
「アウト!」
一死一塁。
山内は表情を変えない。
静かにベンチへ。
ラインを越えた瞬間。
「うわあ……!」
頭を抱えた。
「抜けたと思ったよ!」
太一が声をかける。
「山内先輩、当たり良すぎですよ。」
「褒めてる?」
「半分。」
一塁。
梶谷。
まだランナーは残っている。
だから。
応援は変わらない。
『残酷な天使のテーゼ』。
出雲社学園の投手が。
初めて。
スタンドを見た。
捕手・川本がすぐに声をかける。
「こっち見ろ!」
投手が頷いた。
だが。
呼吸が。
ほんのわずかに速くなっていた。
石塚監督は。
それを見逃さなかった。
七番。
阿知波ダン。
初球。
バントの構え。
梶谷。
大きなリード。
投手。
牽制。
セーフ。
二球目。
バント。
ボール。
三球目。
ストライク。
1―1。
四球目。
また構える。
ストライク。
1―2。
阿知波がバットを立てる。
五球目。
外角。
ファウル。
六球目。
スライダー。
ファウル。
七球目。
高め。
ボール。
2―2。
投手の球数が増えていく。
八球目。
阿知波が打つ。
強いゴロ。
ショート・安達俊介。
正面。
二塁へ。
一塁へ。
ダブルプレー!
スリーアウト。
七回終了。
出雲社学園 1―0 島大松江。
出雲社学園ベンチが沸いた。
「よし!」
「あと二回!」
「行けるぞ!」
選手たちは笑顔だった。
七回まで。
無失点。
新しい応援。
奇策。
盗塁を匂わせる走塁。
それでも。
島大松江は一点も取れない。
だから。
彼らはまだ気づいていなかった。
少しずつ。
少しずつ。
自分たちが消耗させられていることに。
石塚監督だけは違った。
スコアブックを見る。
六回。
七回。
球数。
牽制。
守備陣の前後移動。
打者一人に投じた球数。
捕手が立ち上がった回数。
そして。
今の応援。
石塚は静かに息を吐いた。
「まずいな。」
隣のコーチが驚いた。
「え?」
「何がですか?」
スコアボードを指す。
1―0。
「勝ってます。」
「あと二回です。」
石塚は首を横に振った。
「だから、まずい。」
「……?」
「うちの選手は。」
グラウンドを見る。
「まだ勝っていると思っている。」
コーチが困惑する。
「実際、勝っています。」
「点数はな。」
石塚は島大松江ベンチを見る。
鈴木監督。
美佐子部長。
ひまわり。
そして選手たち。
誰一人。
焦っているように見えない。
「向こうは。」
石塚が呟く。
「九回まで使って勝つつもりだ。」
SNS。
《残酷な天使のテーゼ来たwww》
《何この応援》
《鳥肌やばい》
《球場全体が変わった》
《島大松江応援おかしいレベル》
《でも無得点》
《出雲社学園強すぎ》
《この応援でも崩れないのすごい》
《高校野球の応援でこれはやりすぎじゃない?》
《普通に吹奏楽と合唱してるだけだろ》
《応援まで心理戦に使うの嫌い》
《俺はこういうの好き》
《出雲社の選手、まだ余裕あるな》
《石塚監督だけ顔怖くない?》
《何か気づいてる?》
《1-0で7回終了。これ最後までこのまま行くんじゃね?》
八回表
八雲がマウンドへ。
さおりが座る。
七回までの極端な配球は終わった。
ここから。
通常。
だからこそ。
最も読みにくい。
第一球。
ストレート。
打者が一瞬遅れる。
「ストライク!」
出雲社学園ベンチがざわついた。
「真っすぐ戻ったぞ!」
第二球。
スライダー。
空振り。
「今度は変化球!」
第三球。
ストレート。
ファウル。
第四球。
フォーク。
空振り。
三振。
一死。
八雲は。
何も表情に出さない。
石塚監督は確信した。
六回。
直球。
七回。
変化球。
そして八回。
普通。
だが。
もう。
普通ではない。
打者たちは。
何を待てばいいのか。
分からなくなっていた。
二人目。
初球カーブ。
ストライク。
二球目ストレート。
ファウル。
三球目フォーク。
ボール。
四球目ストレート。
打った。
センターフライ。
こなつが定位置より前で捕球。
二死。
三人目。
第一球。
スライダー。
ファウル。
第二球。
ストレート。
ボール。
第三球。
カーブ。
ストライク。
第四球。
八雲が投げる。
ストレート。
打った。
ファーストゴロ。
山内が捕る。
自らベースへ。
アウト。
三者凡退。
八回表終了。
1―0。
島大松江の選手たちがベンチへ戻る。
ラインを越えた。
八雲が初めて笑った。
「普通に投げるって、こんなに楽だったっけ。」
さおりが笑う。
「相手は全然楽じゃないと思うよ。」
鈴木監督が一言。
「予定通り。」
そして。
スコアボードを見る。
残された攻撃は。
八回。
九回。
まだ。
1―0。
それでも鈴木監督の表情に。
焦りはなかった。
その様子を。
石塚監督が見ていた。
「鈴木……。」
小さく呟く。
「お前。」
「本当に九回まで使う気か。」
そして。
誰にも聞こえない声で。
続けた。
「うちを、そこまで連れていく気だな。」
島大松江は。
まだ負けている。
一点も取り返していない。
だが。
試合の流れは。
目には見えないところで。
確実に。
変わり始めていた。




