18回表 反撃
六回表。
島大松江の九人は、マウンドを囲んでいた。
いつものように、手をつなぐ。
さおりは仲間たちの顔を一人ずつ見た。
そして、あえて出雲社学園のベンチにも聞こえるほどの声で言った。
「このままだと、私たちは負ける」
誰も目をそらさない。
「出雲社学園は強い。だから、その強さを認めよう」
一呼吸。
「相手に敬意を払って――残りのイニング、懸命に戦おう」
全員の手に力が入った。
「行こう!」
九人が同時に手を離した。
そして、それぞれの守備位置へ散っていく。
そこから先は、表情を変えない。
それが島大松江の決まりだった。
グラウンドでは喜怒哀楽を表に出さない。
三振を取っても。
ファインプレーをしても。
ヒットを打っても。
盗塁を決めても。
相手への敬意を忘れない。
感情を解放するのは、ベンチに戻ってから。
鈴木監督が、その後ろ姿を見つめていた。
「相手チームに最大のプレッシャーを与えた」
美佐子部長が隣で微笑む。
「鈴木監督。最高の主将じゃないんですか?」
「いや」
鈴木は、キャッチャーマスクをかぶるさおりを見つめた。
「最強のキャプテンだ」
球審が右手を上げた。
「プレイ!」
その瞬間。
全国高校野球ライブの実況が重なった。
『さあ、試合再開です! 六回表、出雲社学園の攻撃です。スコアは1対0。出雲社学園が一点をリードしています』
実況・高瀬健一。
解説・長岡征一郎。
『長岡さん。今、島大松江の選手たちがマウンドで円陣を組んでいました』
『ええ。かなり大きな声でしたね。相手が強いことを認め、敬意を払おう、と』
『普通、相手に聞かせますか?』
『普通は聞かせません』
長岡が笑った。
『だから気になります』
『と、いいますと?』
『鈴木監督のチームですからね。単なる精神論ではない気がします』
カメラがグラウンド全体を映した。
『おっと、守備位置も変わっています』
センター、石川こなつ。
ライト、竹下大和。
レフト、阿知波ダン。
『外野が前ですね』
『二メートルほどでしょうか。内野も一歩前です』
さらに映像がブルペンへ切り替わった。
大野。
玉木。
二人が並んで投球練習を始めている。
『そしてブルペンでは大野、玉木の両投手が準備を開始しています』
『継投ですか?』
『どうでしょう。和田八雲の球威が落ちているようには見えません』
『では、なぜ?』
『それが分からない』
長岡の声が少し低くなった。
『分からないから、出雲社学園は嫌でしょうね』
六回表
出雲社学園。
先頭は三番、神谷拓真。
今日、二打数一安打。
右打席へ入った。
マウンドには和田八雲。
八雲がさおりを見る。
さおりがミットを構えた。
初球。
八雲、振りかぶる。
投げた!
ズバン!
「ストライク!」
電光掲示板。
147キロ。
『147キロ! 六回に入っても速い!』
神谷が打席を外す。
八雲は無表情。
さおりから返球を受け取る。
第二球。
投げた。
またストレート!
146キロ。
神谷が振る。
カキッ!
バックネットへのファウル。
0-2。
『あっという間に追い込みました』
第三球。
さおりは外角へミット。
八雲。
投げる。
また直球。
145キロ。
神谷が合わせた。
カキン!
『打った! 二遊間!』
速いゴロ。
ショート・梶谷出雲が前へ出る。
捕った。
一塁へ。
山内隆一が捕球。
「アウト!」
一死。
梶谷は表情を変えない。
八雲も反応を示さない。
淡々と次の打者を迎える。
『ナイスプレーですが、誰も喜びませんね』
『島大松江はグラウンド上で喜怒哀楽を表に出さない。それがチームの決まりだそうです』
『相手への敬意ですか』
『そうです。感情を出すのはベンチの中だけ』
一死。
四番、黒田悠斗。
この大会、打率四割を超える出雲社学園の主砲。
第一球。
八雲。
ストレート。
外れた。
ボール。
146キロ。
第二球。
また直球。
黒田が振る。
ファウル。
1-1。
第三球。
内角。
ストレート。
黒田は見送った。
ボール。
2-1。
石塚監督がベンチからじっと見ている。
第四球。
八雲が投げた。
また――ストレート。
黒田が捉えた!
カキィィン!
『いい当たりだ! センター前へ落ちるか!』
こなつが走る。
前へ。
さらに前。
最後は身体を投げ出した。
グラブを伸ばす。
パシッ!
『捕ったぁ! 石川こなつ!』
アウト!
スタンドから大歓声。
しかし。
こなつは芝生の上から立ち上がった。
ユニホームについた土を払う。
表情は変わらない。
八雲を見る。
ほんの小さく頷く。
八雲も小さく頷いた。
それだけ。
『すごいプレーでしたが、ガッツポーズ一つありません』
『あの守備位置も効きましたね』
『前に出した二メートルですか』
『ええ。鈴木監督の指示が、早速アウト一つを生みました』
二死。
そして。
実況の高瀬が気づいた。
『長岡さん』
『はい』
『ここまで……全部ストレートですよね?』
『そうですね』
五番、森脇航平。
左打席。
第一球。
八雲。
投げる。
ストレート!
ストライク。
145キロ。
第二球。
また直球。
森脇が振る。
ファウル。
0-2。
出雲社学園ベンチ。
石塚監督の表情が変わった。
「全部……真っすぐ?」
第三球。
八雲。
投げた。
やはり直球。
森脇がバットを合わせる。
ボテボテの三塁線。
『これは難しい!』
サード・鈴木太一が猛然と前へ。
グラブでは間に合わない。
右手でつかむ。
そのまま一塁へ!
山内が伸びる。
捕った!
「アウト!」
スリーアウト。
太一はガッツポーズをしない。
八雲も吠えない。
九人は静かにベンチへ戻っていく。
そして。
太一の足がベンチの中へ入った瞬間。
「よっしゃあ!」
一気に表情が変わった。
山内が太一の肩を叩く。
「ナイスプレー!」
「ありがとうございます、山内先輩!」
こなつも戻ってくる。
「ねえ。私の方がファインプレーじゃなかった?」
さおりが笑う。
「自分で言わないの」
「誰も言ってくれないんだもん」
「はいはい。こなつもナイスプレー」
「はいはい、はいらない!」
ベンチに笑いが起きた。
八雲もようやく表情を緩めた。
実況席から、その様子が映し出される。
『なるほど。本当にベンチに入った瞬間、別のチームになりますね』
長岡が笑った。
『感情がないわけじゃない。当然ですよ、高校生ですから』
『それをグラウンドでは抑えている』
『相手への敬意ということなんでしょう』
高瀬がスコアブックを見る。
そして。
何かに気づいた。
『長岡さん』
『はい』
『今の回……』
指で球数を確認する。
『和田八雲、十球を投げました』
『ええ』
『十球すべて――ストレートです』
長岡が黙った。
カメラが八雲を映す。
次にさおり。
そして。
腕を組んだ鈴木監督。
『偶然でしょうか?』
『いや』
長岡は即答した。
『意図的でしょう』
『目的は?』
『まだ分かりません』
一呼吸。
『ただ、石塚監督も気づいたでしょうね』
全国高校野球ライブ・SNS
《今の回全部ストレートじゃね?》
《俺も数えてた。10球全部》
《147出てるから八雲バテてないぞ》
《じゃあなんで大野と玉木ブルペンで投げてる?》
《継投するフリ?》
《鈴木監督また何かやってる》
《竹内さおりも全部直球要求したってことだよな》
《女子捕手にこんな極端なリードさせて大丈夫なの?》
《結果三者凡退》
《こなつのダイビングキャッチすごすぎ》
《あれ普通ならヒットだろ》
《でも捕ったのに全然喜ばないの怖い》
《島大松江はグラウンドで喜怒哀楽出さないルール》
《そこまでやる必要ある?高校生だぞ》
《俺は好きだけどな。相手へのリスペクトだろ》
《出雲社学園もめちゃくちゃいい野球してる》
《話題は島大松江ばっかだけど俺は出雲社応援する》
《同意。石塚監督の野球好き》
《どっちも頑張れ》
《1-0なのにめちゃくちゃ面白い》
そして――。
一つの投稿が流れた。
《もしかして鈴木監督、相手に「何かある」と思わせること自体が目的じゃない?》
六回裏
『さあ島大松江の攻撃。一番からです!』
一番。
センター・石川こなつ。
吹奏楽部が奏でる『キャッツ・アイ』。
こなつが右足で土をならした。
投手を見る。
そして。
バットを横にした。
『バントの構え!』
出雲社学園の三塁手が前へ出る。
第一球。
ボール。
こなつは引いた。
1-0。
第二球。
またバント。
ストライク。
1-1。
第三球。
また構える。
一塁手も前へ。
投手が投げる。
ボール。
2-1。
第四球。
まだバント。
ストライク。
2-2。
追い込まれた。
ここで初めて。
こなつがバットを立てた。
実況席。
『変えました』
『ツーストライクまではバントの構え。これも何かありそうですね』
第五球。
外角。
こなつは見送る。
ボール。
フルカウント。
第六球。
投げた!
こなつが振り抜く。
カキーン!
『センター前!』
ヒット!
ノーアウト一塁。
こなつは一塁へ到達。
表情を変えない。
防具を一塁コーチへ渡す。
そして大きなリード。
投手が見る。
こなつが一歩。
さらに一歩。
牽制!
戻る。
セーフ。
また離れる。
投手が見る。
こなつは無表情。
また牽制。
セーフ。
『かなり気にしていますね』
『打者だけと勝負できなくなっています』
二番。
キャッチャー・竹内さおり。
『ムーンライト伝説』が流れる。
さおりもバットを横にする。
初球。
バントの構え。
こなつがスタートする素振り。
投手がプレートを外す。
二球目。
投げた。
ストライク。
三球目。
こなつが走った!
『スタート!』
さおりがバットを引く。
捕手が二塁へ!
送球!
こなつ、滑る!
判定。
「セーフ!」
盗塁成功。
歓声。
だが。
こなつは何も表情に出さない。
立ち上がり、ユニホームの土を払う。
二塁から投手を見つめる。
さおりも打席で表情を変えない。
第四球。
バントの構え。
ファウル。
追い込まれた。
さおりがバットを立てる。
第五球。
外角。
ファウル。
第六球。
内角。
ボール。
第七球。
低い。
ボール。
第八球。
投げた!
さおりが振る。
一、二塁間!
『抜けるか!』
セカンド・藤原拓海。
横っ飛び!
捕った!
一塁へ!
アウト!
その間に、こなつは三塁へ。
一死三塁。
さおりは判定を確認すると、何も表情に出さずベンチへ戻る。
そして。
ラインを越えた瞬間。
「抜けたと思ったぁ!」
ひまわりが迎える。
「でも、進塁打です!」
「そうだね。こなつ、お願い!」
三番。
ピッチャー・和田八雲。
『ゴジラ』の重低音。
一死三塁。
第一球。
八雲もバントの構え。
ボール。
第二球。
また構える。
ストライク。
第三球。
またバント。
ストライク。
追い込まれた。
八雲がバットを立てる。
第四球。
ファウル。
第五球。
外れた。
ボール。
第六球。
投げた!
八雲が振った。
強烈なショートゴロ!
ショート・安達俊介。
正面。
こなつは動けない。
一塁へ。
アウト!
二死三塁。
八雲は表情を変えない。
ベンチへ戻る。
ラインを越えた。
「くそっ!」
すぐグラブを取る。
「次は絶対抑える」
二死三塁。
四番。
ライト・竹下大和。
『宇宙戦艦ヤマト』。
球場の空気が変わった。
大和が打席へ向かう。
その胸に。
一瞬だけ。
兄・大樹から託されたグラブが浮かんだ。
皆で甲子園。
そして。
その下に書かれた文字。
託したぞ大和。
大和は打席に入る。
表情には出さない。
第一球。
バントの構え。
ボール。
第二球。
またバント。
ストライク。
第三球。
バント。
ストライク。
追い込まれた。
大和がバットを立てる。
第四球。
ファウル!
第五球。
低い。
ボール。
2-2。
第六球。
外角。
見送った。
ボール。
フルカウント。
三塁にはこなつ。
二死。
フルカウント。
投手がセット。
第七球。
投げた!
大和。
強振!
カキィィィン!
『打ったぁ!』
三塁線!
速い!
抜ければ同点!
三塁手・宮本大地が横っ飛び!
グラブを伸ばす。
――捕った!
立ち上がる。
一塁へ!
送球!
「アウト!」
スリーアウト。
出雲社学園の応援席が沸き上がる。
大和は一塁を駆け抜けた。
アウトを確認する。
そして。
何も表情を変えず。
ベンチへ戻る。
ラインを越えた。
その瞬間。
「くそぉ!」
大和が天を仰いだ。
「捉えたのに……!」
鈴木監督は何も言わない。
大和を見つめる。
その打球を。
覚えていた。
六回終了
出雲社学園 1-0 島大松江
『島大松江、得点できません!』
実況の高瀬が声を上げる。
『しかし長岡さん、六回裏、かなり長い攻撃になりました』
『そこなんです』
カメラが出雲社学園の投手を映す。
帽子を取り。
額の汗を拭っている。
『バントの構えで守備を動かす。ランナーが出れば盗塁を警戒させる。牽制させる。そしてツーストライクから打つ』
『結果は無得点ですが』
『野球は結果だけではありません』
長岡が言った。
『六回表は、全球ストレート』
『六回裏は、全員がツーストライクまでバントの構え』
『ブルペンでは二人が準備』
『守備位置も変えた』
長岡は腕を組んだ。
『島大松江が、次々と違和感を作っている』
SNSも加速していた。
《点入らなかったのに面白すぎる》
《全員バントの構えって何だよ》
《普通に打て》
《いや投手の球数見ろ》
《こなつの牽制だけでもかなり投げさせてる》
《出雲社の守備もすげえ。大和のあれ止めるか普通》
《宮本ナイスプレー!》
《俺、完全に出雲社応援になった》
《俺は島大松江》
《両方応援したくなる試合》
《鈴木監督やりすぎ。高校生相手に心理戦とか必要?》
《石塚監督だって高校野球の名将だぞ》
《監督同士も戦ってるんだろ》
《1-0がこんな面白いとは》
そして。
別の投稿。
《待って。6回全部ストレートだったよな》
返信。
《うん》
《じゃあ7回どうすんの?》
《まさか……》
七回表。
八雲がマウンドへ向かった。
さおりがホームへ。
二人は一度だけ目を合わせる。
さおりがしゃがんだ。
サイン。
八雲が頷く。
出雲社学園の先頭打者が構えた。
『さあ七回表です!』
八雲。
第一球。
投げた。
打者が振る。
ボールは――
鋭く落ちた。
「ストライク!」
空振り。
実況席。
長岡が身を乗り出した。
『変化球です』
第二球。
八雲が投げる。
また。
変化球。
「ストライク!」
出雲社学園ベンチ。
石塚監督がゆっくり立ち上がった。
そして。
鈴木監督を見た。
鈴木は腕を組んだまま。
何も表情を変えない。
全国のSNSに、ほぼ同時に文字が流れた。
《おい》
《待て待て》
《まさか》
《今度は――》
《全部変化球?》
六回。
全球ストレート。
七回。
その答えは――
まだ始まったばかりだった。




