15回表 壮行
島根県大会開幕まで――
あと五日。
島大松江高校。
その日の午後。
全校生徒が体育館に集められていた。
壇上には大きく掲げられた横断幕。
『目指せ甲子園 島大松江高校野球部』
その下。
県大会登録選手二十名が、真新しいユニフォーム姿で並んでいる。
背番号1。
和田八雲。
背番号2。
主将・竹内さおり。
そして最後尾には、
背番号20、玉木。
その後ろには、登録から外れた野球部員たちも並んでいた。
五十八人。
誰一人欠けていない。
体育館の左右には吹奏楽部。
合唱部。
応援団。
チアダンス部。
放送部。
ITシステム部。
この夏。
島大松江の野球は、
野球部だけのものではなくなっていた。
その中心を走り続けてきた佐野ひまわりは、
野球部の列の端に立っている。
今日は珍しく、
少し緊張した顔をしていた。
壇上へ一人の男性が上がった。
校長・亀井。
マイクの前に立つ。
体育館が静まり返った。
「野球部の皆さん。」
「いよいよですね」
選手たちを見る。
「皆さんが今日ここへ立つまでに、どれほどの汗を流してきたのか。」
「私はすべてを知っているわけではありません」
「校長だからといって、皆さんの努力を全部見ていたなどと言うつもりもありません」
生徒たちが静かに聞く。
「ですが。」
「朝、校門へ立っていると。」
「グラウンドから声が聞こえてきます」
「夕方、校長室で仕事をしていると。」
「暗くなっても、まだボールの音が聞こえます」
亀井は微笑んだ。
「だから一つだけ、知っています」
「君たちは、野球が好きなんだ。」
八雲が顔を上げた。
大和。
太一。
玉木。
山内。
全員が校長を見る。
「甲子園へ行ってください。」
一拍。
「……と言いたいところですが。」
亀井は首を横に振った。
「今日は、それを言いません」
ざわめく生徒たち。
「勝って帰ってこいとも言いません」
そして。
野球部員五十八人を見る。
「胸を張って帰ってきてください。」
「勝っても。」
「負けても。」
「島大松江高校の生徒であることを誇れる野球をしてください」
「その結果。」
「甲子園という場所が皆さんを待っているのなら。」
笑った。
「全校生徒で乗り込みましょう。」
体育館が沸いた。
大きな拍手。
野球部員たちが一礼する。
続いて。
鈴木監督が壇上へ上がった。
拍手がさらに大きくなる。
かつてメジャーリーグで戦った男。
だが。
今ここに立っているのは、
スター選手ではない。
島大松江高校野球部監督だった。
「ありがとうございます」
一礼。
そして。
鈴木は意外な言葉から始めた。
「今日は野球部の話をする前に。」
「私から、お礼を言わせてください」
生徒たちが静かになる。
鈴木は応援団を見る。
「応援団。」
長谷川が姿勢を正す。
「君たちは、どうすれば選手に力を与えられるかを考え続けてくれた」
吹奏楽部を見る。
「吹奏楽部。」
青木が頭を下げる。
「何十曲もの楽曲を練習してくれた」
「しかも野球部員一人一人のために。」
合唱部。
「若林さんを中心とする合唱部。」
「声という、人間が持つ最も原始的で強い力を貸してくれた」
ITシステム部。
「佐々岡君たちITシステム部。」
「君たちが考えてくれた新しい応援表現は、私にも想像できないものだった」
放送部。
「徳川君たち放送部。」
「君たちがいなければ、この複雑な応援を一つにまとめることはできない」
チアダンス部にも頭を下げる。
そして。
「全校生徒の皆さん。」
鈴木は体育館全体を見渡した。
「本当に、ありがとう」
大きな拍手が起こる。
だが。
鈴木は続けた。
「そして。」
一人を見る。
佐野ひまわり。
本人が「え?」という顔をする。
「佐野ひまわり。」
体育館中の視線が集中した。
「はい!」
「前へ。」
「え?」
「前へ来なさい」
「私ですか?」
「佐野ひまわりは一人しかいないだろ」
笑いが起こった。
ひまわりが慌てて壇上へ向かう。
「聞いてませんよ……」
「今、言ったからな」
「そういう問題じゃ……」
また笑い。
壇上へ上がったひまわりに、
鈴木は真正面から向き合った。
「佐野。」
「はい」
「よくやった。」
たった一言。
ひまわりの表情が止まった。
「選手のデータを集め。」
「心理を考え。」
「応援曲を考え。」
「応援団、吹奏楽部、合唱部、チアダンス部、ITシステム部、放送部をつないだ。」
「何度も走ったな。」
ひまわりの目が潤む。
「はい……」
「誰かに言われたからではない。」
「自分で考えた。」
「自分で頼みに行った。」
「断られても、また行った。」
鈴木は全校生徒を見る。
「この夏、野球部と学校をつないだのは、彼女です。」
体育館がどよめいた。
そして。
拍手。
やがて。
大きな拍手へ変わった。
ひまわりは顔を真っ赤にして頭を下げる。
「ありがとうございます……」
太一は、
誰よりも強く拍手していた。
慎之介が横目で見る。
「手、痛くなるぞ」
「うるさいです」
「はいはい」
鈴木が再びマイクを握った。
「しかし。」
「県大会が始まれば、佐野はベンチへ入ります」
ひまわりが顔を上げる。
「つまり。」
「スタンドには、ひまわりに代わって全体をまとめる人間が必要になります」
体育館が静かになった。
「応援団には長谷川がいる。」
「吹奏楽部には青木。」
「チアダンス部には江上。」
「合唱部には若林。」
「ITシステム部には佐々岡。」
「放送部には徳川。」
「だが。」
「その全員をつなぎ。」
「野球部員と全校生徒を一つにする人間が必要だ」
鈴木は野球部の列を見る。
登録されなかった三十八人。
その中から。
一人の名前を呼んだ。
「島崎。」
一人の三年生が顔を上げた。
「……はい?」
「前へ。」
島崎は動けなかった。
周囲の部員が見る。
「俺……ですか?」
「そうだ」
ゆっくり前へ出る。
三年生・島崎。
誰よりも練習した。
声を出した。
後輩の面倒を見た。
用具を片づけた。
調子を落とした仲間がいれば、
最後まで付き合った。
誰もが。
県大会メンバー入りは間違いないと思っていた。
だが。
怪我をした。
間に合わなかった。
六月二十一日。
ラストゲーム。
島崎はまともにプレーすることさえできなかった。
背番号は与えられなかった。
島崎は、
その事実を一度も誰かのせいにしなかった。
鈴木が言った。
「島崎。」
「はい」
「お前を、スタンドの主将に任命する。」
体育館が静まり返った。
島崎自身が最も驚いていた。
「……俺が?」
「そうだ」
「でも俺は……」
自分の足を見る。
「県大会メンバーじゃありません」
鈴木は即答した。
「だから頼むんだ」
島崎が顔を上げた。
「ベンチにいる二十人には、さおりがいる」
主将を見る。
「グラウンドには、さおりがいる。」
「だから。」
島崎を見る。
「スタンドには、お前がいてくれ。」
島崎の唇が震えた。
「三年間。」
「お前がどれだけ努力してきたか。」
「私は見てきた」
「後輩がお前をどれだけ信頼しているかも知っている」
「怪我をしたから。」
「背番号をもらえなかったから。」
「それで、お前の三年間の価値が消えるのか?」
鈴木は首を横に振った。
「消えない」
そして。
「背番号のない主将になってくれ。」
島崎の目から、
涙が落ちた。
体育館から拍手が起こった。
後輩たちが立ち上がる。
三年生も。
そして。
いつしか。
全校生徒が拍手していた。
島崎はマイクの前に立った。
しばらく。
何も言えなかった。
袖で涙を拭う。
「正直……。」
声が震える。
「悔しかったです」
静まり返る。
「三年間。」
「甲子園に行きたくて野球をやってきました」
「背番号をもらいたかった」
「ベンチに入りたかった」
「グラウンドに立ちたかった」
誰も笑わない。
「怪我した時。」
「何で俺なんだって思いました」
「ラストゲームの日も。」
「みんなが野球してるのを見るのが、本当は苦しかった」
鈴木は黙って聞いている。
「でも。」
島崎は後ろを振り返った。
仲間がいる。
「俺は。」
涙を拭った。
「こいつらが好きです。」
野球部員たちの顔が変わった。
「だから。」
「分かりました。」
鈴木を見る。
「監督。」
「スタンドの主将。」
「俺にやらせてください!」
「ベンチの二十人が戦うなら。」
「俺はスタンドで戦います!」
声が大きくなる。
「三十八人をまとめます!」
「応援団も!」
「吹奏楽部も!」
「合唱部も!」
「チアダンス部も!」
「ITシステム部も!」
「放送部も!」
そして。
全校生徒を見る。
「島大松江高校全部を、一つにします!」
大歓声。
「そして!」
拳を握った。
「二十人を、甲子園まで押してやります!」
長谷川が叫んだ。
「頼むぞ、主将!」
青木。
「一緒にやろう!」
江上も拍手する。
ひまわりは泣いていた。
そして。
さおりが島崎の前へ立った。
二人の主将。
さおりが手を差し出す。
「グラウンドは任せて。」
島崎が握る。
「スタンドは任せろ。」
固い握手。
体育館が、
再び大きな拍手に包まれた。
そして。
主将・竹内さおりが壇上へ立った。
マイクを握る。
全校生徒を見る。
「私は。」
「甲子園に行きたいです」
静かな声だった。
「夢でした。」
「女子が高校野球の公式戦に出る。」
「そんなことすら、少し前まで簡単ではありませんでした」
こなつを見る。
こなつが頷く。
「でも。」
「今は違います」
「私には仲間がいます」
「監督がいます。」
「部長がいます。」
「コーチがいます。」
「家族がいます。」
そして。
体育館全体を見る。
「皆さんがいます。」
さおりは深く頭を下げた。
「だから。」
顔を上げる。
「私たちは、皆さんと一緒に甲子園へ行きます。」
一瞬の静寂。
すると。
島崎が叫んだ。
「行くぞ!」
野球部員が応える。
「おお!」
応援団。
「行くぞ!」
「おお!」
やがて。
全校生徒。
「おお――っ!!」
体育館が揺れた。
その時だった。
放送部・徳川の声が響いた。
「野球部の皆さま。」
「少しだけ、その場から動かないでください」
八雲が首を傾げる。
「何だ?」
さおりも知らない。
こなつも知らない。
ひまわりを見る。
「ひまわり?」
「私も知らないです」
徳川が続ける。
「野球部の皆さまは、後ろのスクリーンにご注目ください。」
体育館の照明が。
ゆっくり落ちた。
「え?」
大型スクリーンが点灯する。
真っ黒な画面。
一秒。
二秒。
そして。
吹奏楽部が、
静かに演奏を始めた。
誰もが知っている旋律。
『栄冠は君に輝く』。
野球部員たちが息を呑んだ。
スクリーンに映像が現れる。
早朝。
まだ誰もいないグラウンド。
一人。
トンボを掛ける部員。
次の映像。
泥だらけになってノックを受ける選手たち。
笑っている。
転んでいる。
怒っている。
悔しがっている。
何気ない日常だった。
試合の名場面ではない。
ホームランでもない。
三振でもない。
勝利の瞬間でもない。
彼らが毎日過ごしてきた、
ただの時間。
だからこそ。
胸に刺さった。
全国合唱コンクール個人部門優勝者。
若林恵が前へ出る。
そして。
歌い始めた。
透き通った声が、
体育館を包んだ。
スクリーン。
鈴木監督が怒っている。
次。
さおりも怒っている。
なぜか二人とも同じような顔。
笑いが起きる。
次。
美佐子が呆れた顔で二人を見ている。
さらに笑い。
松田が選手たちへ語りかけている。
目を閉じる選手。
失敗して転ぶ選手。
バーンズが巨大な身体で、
身振り手振りを交えて熱烈指導。
突然、
「CRASH!」
映像だけなのに、
体育館のあちこちから笑いが漏れる。
そして。
こなつ。
さおり。
ひまわり。
三人がカメラへ向かって、
満面の笑顔でピース。
「いつ撮ったの、これ!」
さおりが叫ぶ。
こなつが笑う。
ひまわりは、
もう泣いていた。
映像は続く。
一人で素振りする八雲。
黙々と走る大和。
捕手防具を外して、
疲れ切って座り込むさおり。
その横へ水を置く山内。
後輩に声を掛ける島崎。
仲間の荷物を持つ玉木。
太一が山内と笑っている。
それを遠くから見つめる鈴木。
何気ない。
本当に何気ない映像。
しかし。
そこには確かに。
彼らが過ごしてきた時間があった。
そして。
曲が二番へ入った。
その瞬間。
若林一人だった歌声に、
別の声が加わった。
合唱部。
さらに。
応援団。
チアダンス部。
放送部。
ITシステム部。
そして――
全校生徒。
体育館を埋め尽くす歌声。
野球部員たちが振り返る。
知らなかった。
全校生徒が、
この日のために練習していた。
山内の目から涙が落ちる。
「……ずるいよ。」
隣で。
太一も泣いていた。
父を見る。
鈴木監督はスクリーンを見ている。
太一は、
何も言わなかった。
玉木も泣いていた。
一度は野球部を去った。
もう仲間と野球はできないと思った。
だが。
スクリーンの中。
自分がいる。
仲間と笑っている自分がいる。
玉木は唇を噛んだ。
「俺……。」
涙を拭う。
「戻ってきてよかった……。」
島崎も。
背番号のないユニフォームの胸を、
強く握っていた。
さおりは泣きながら笑っている。
こなつも。
ひまわりも。
慎之介も。
八雲は、
誰にも見られないように顔を伏せていた。
鈴木監督は。
何も言わなかった。
スクリーンを見つめていた。
メジャーリーグでは経験したことのない光景だった。
何万人という観客の歓声を浴びた。
世界最高峰の舞台にも立った。
だが。
今。
目の前にいる高校生たちの歌声が、
それ以上に胸へ響いていた。
その時。
右手に温もりを感じた。
見る。
美佐子だった。
何も言わず。
鈴木の右手を、
両手で優しく包んでいる。
鈴木も何も言わない。
ただ。
その手を握り返した。
少し離れたところ。
太一がそれを見ていた。
父。
母。
そして。
仲間たち。
太一は涙を拭いた。
スクリーンには。
五十八人の野球部員の集合写真。
その下に、
たった一つの言葉が映し出された。
『一緒に行こう。甲子園へ。』
歌声が、
体育館いっぱいに響いていた。
これは。
まだ回顧ではない。
彼らの物語は、
終わってなどいない。
むしろ。
これから始まる。
いつの日か。
本当の最後に振り返る時が来る。
その時。
今日のこの光景さえも、
彼らの歩いてきた道の一つになっているだろう。
だが今は。
振り返る時ではない。
前を見る時だった。
島根県大会開幕まで――
あと五日。
背番号を持つ者。
持たない者。
グラウンドで戦う者。
スタンドで戦う者。
歌う者。
奏でる者。
踊る者。
声を枯らす者。
そして。
そのすべてを支える者。
島大松江高校は、
ようやく一つになった。
甲子園へ。
五十八人ではない。
二十人でもない。
学校全員で。




