14回裏 御守り
七月。
第110回全国高等学校野球選手権島根県大会。
開幕まで、あと一週間。
島大松江高校の会議室には、再び野球部員の保護者たちが集まっていた。
以前、この場所で鈴木監督は言った。
――大切なお子さんを、私たちに預けてください。
――甲子園を目指します。
――野球だけではなく、人として成長させたい。
あの日から、チームは変わった。
いや。
変わったのは、選手だけではなかった。
保護者も。
指導者も。
そして鈴木自身も。
それぞれが、この夏に覚悟を決めていた。
壇上には鈴木監督。
その横に美佐子部長。
松田コーチ。
バーンズコーチ。
鈴木が立ち上がった。
深く一礼する。
「本日は、お忙しい中、お集まりいただきありがとうございます」
保護者たちが頭を下げる。
「先般、皆様に送信させていただいた通り、選出した二十名で県予選を戦います」
会場の空気が引き締まった。
「いよいよ一週間後、島根県予選が開幕します」
鈴木は保護者たちを見渡した。
「我が島大松江高校は大会四日目、第一試合」
一拍。
「出雲電鉄高校と対戦します」
ざわめきが起きた。
「決して気を許していい高校ではありません」
鈴木の声が強くなる。
「初戦だから。」
「自分たちの方が力があるから。」
「そんな気持ちが一秒でも生まれれば、夏は終わります」
静まり返った。
「私は初戦から、決勝戦のつもりで戦います」
そして。
「勝ちます」
短い言葉だった。
「出雲電鉄高校に勝つ。」
「次も勝つ。」
「その次も。」
「そして島根県予選を勝ち抜く」
鈴木は胸を張った。
「皆さんのお子さんを、夢の甲子園へ導きます」
拍手は起こらなかった。
それほど、保護者たちは真剣に聞いていた。
鈴木は続ける。
「ただし、もう一つ覚えておいてください」
登録メンバーから外れた部員の保護者たちを見る。
「先日の選考紅白戦。」
「私は、あの試合を皆さんのお子さんの最後の試合にしたつもりはありません」
何人かの母親が顔を上げた。
「県大会登録は二十名です」
「ですが。」
「甲子園へ行くのは二十人ではありません」
「五十八人です」
そして。
「県大会を勝ち抜いた時。」
「私はもう一度、ラストゲームを行います」
ざわめきが起こった。
「甲子園を戦うメンバーを決めるために」
「だから。」
鈴木は登録から外れた選手の保護者へ向かって言った。
「お子さんに、まだ諦めるなと伝えてください」
「終わっていません」
「始まりは――」
少し笑った。
「これからです」
今度は。
大きな拍手が起こった。
拍手が収まる。
鈴木は少し表情を緩めた。
「それから今日は、皆さんにお願いがあります」
保護者たちが顔を見合わせる。
「御守りを作ってください」
「……御守り?」
「はい」
鈴木は真顔だった。
「お子さんに、御守りを作って渡してください」
そして、さらりと言った。
「うちのマネージャーは多忙で、御守りを作っている暇がないんです」
会場から笑いが起こった。
美佐子が横から小声で言う。
「ひまわりちゃんが聞いたら怒るわよ」
「本当のことだ」
「知らないわよ」
また笑い。
しかし鈴木は続けた。
「ただし。」
「ベンチ入りする選手だけではありません」
笑いが止まった。
「登録された、されなかった。」
「そんなことは関係ありません」
「野球部員の保護者の皆さん。」
「誰かれ関係なく、ご自分のお子さんの御守りを作ってください」
そして。
「上手じゃなくていい。」
「縫い目が曲がっていてもいい。」
「格好悪くてもいい。」
「お父さん、お母さんが、お子さんのことを考えながら作ったものを渡してあげてください」
その時だった。
「監督!」
一人の父親が立ち上がった。
魚屋を営む塙の父だった。
「鈴木監督、よく言ってくれた!」
そして保護者全員を見回した。
「皆さん!」
「頑張って、子供のために作りましょうや!」
大きな拍手。
「うちは魚型の御守りにします!」
一瞬の沈黙。
そして爆笑。
「魚屋だからな!」
「鯛にしなさい!」
「めでたいから!」
「それだ!」
塙の父が叫んだ。
「鯛に決定!」
笑いと拍手に包まれる。
ただ。
その中で一人だけ。
笑えない母親がいた。
山内の母だった。
膝の上で。
両手を強く握っていた。
翌日。
御守りの話は、当然のように野球部員たちにも伝わっていた。
そして。
女子たちの周辺では、早くも妙なことが始まっていた。
佐野家。
「お母さん!」
ひまわりが宣言した。
「お兄ちゃんの御守り、私が作る!」
母親が笑う。
「慎之介の?」
「うん!」
ところが。
二日後。
母親は見てしまった。
机の上。
ひまわりが、それはそれは真剣な顔で針を動かしている。
黒。
緑。
黄色。
細部までこだわっている。
母親が覗く。
「ひまわり。」
「何?」
「それ、慎之介?」
「……。」
どう見ても違う。
デビルマンだった。
「それ、太一君のでしょ?」
「違う!」
「じゃあ誰の?」
「……デビルマン」
「太一君でしょ」
「デビルマン!」
一方。
机の端には。
慎之介用と思われる御守り。
赤い布。
丸い顔。
太い眉。
かなり雑だった。
母親が聞く。
「慎之介の方、これで完成?」
「うん」
「……ずいぶん簡単ね」
「愛情は同じです」
どう見ても違った。
後日。
慎之介は妹から渡された御守りを見て呟くことになる。
「張りぼてじゃねえか……」
石川家。
こなつの母親は違った意味で燃えていた。
「こなつの応援曲、キャッツ・アイなんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ三人よ」
「三人?」
母親が見せる。
三人の女の子をかたどった御守り。
こなつ。
さおり。
ひまわり。
「何これ!」
「三人娘」
「私の御守りじゃないの?」
「三人で一つ」
母親は満足そうだった。
「あなたたち、いつも一緒じゃない」
こなつは御守りを見る。
そして。
少し照れながら笑った。
「……まあ、悪くないか」
竹内家も負けていない。
さおりの母親は、
娘の応援曲が「ムーンライト伝説」だと聞いた瞬間から、
完全に方向性を決めていた。
「できた!」
「お母さん……」
さおりが絶句する。
セーラー服風の衣装。
だが。
頭には野球帽。
さらに。
小さなキャッチャーミットまで付いている。
「何これ……」
「セーラーベースボール」
「勝手に新キャラ作らないでよ!」
「可愛いでしょ?」
「恥ずかしいよ!」
そう言いながら。
さおりは大切そうに受け取った。
そして。
さおり自身も二つの御守りを作っていた。
一つ。
鈴木監督へ。
そこには二文字。
『信頼』
もう一つ。
美佐子部長へ。
『感謝』
自分が主将を辞めようとした時。
自分を支えてくれた二人へ。
さおりなりの恩返しだった。
そして。
阿知波ダンは。
ある場所へ向かっていた。
児童養護施設。
しんじこ苑。
門をくぐった瞬間だった。
「あ!」
小さな女の子が叫ぶ。
「ダン兄ちゃん!」
子供たちが一斉に走ってくる。
「ダン兄ちゃん!」
「遊ぼう!」
「野球しよう!」
「肩車!」
阿知波が笑う。
「おいおい、いっぺんに来るな!」
その光景を、
少し離れたところから優しく見つめる男性がいた。
村松。
しんじこ苑の園長。
阿知波は幼い頃に両親を亡くした。
親戚にも引き取りを拒まれた。
そして中学まで。
この施設で育った。
孤独だった少年に、
初めて野球を教えたのが村松だった。
現在。
村松は阿知波と養子縁組を結び、
家族として彼を支えている。
小さな女の子が阿知波の腕を引っ張る。
「ダン兄ちゃん、遊ぼ!」
村松が笑った。
「これこれ。」
「ダン兄ちゃんは野球の練習で忙しいんだ」
「アンヌ。しばらくは我慢しなさい」
アンヌが頬を膨らませる。
「ダン兄ちゃん。」
「ん?」
「野球の方が、アンヌより大事?」
阿知波は困った。
本気で考える。
「うーん……」
そして笑った。
「両方だな」
「ずるい!」
笑いが起きた。
村松が言う。
「アンヌ。」
「ダン兄ちゃんに渡すものがあるんだろ?」
「あ!」
アンヌが走っていく。
そして。
小さな手で持ってきたもの。
形の歪んだ御守りだった。
縫い目もバラバラ。
文字も少し曲がっている。
それでも。
一生懸命作ったことだけは分かった。
「ダン兄ちゃん。」
アンヌが両手で差し出す。
「これ、アンヌだと思って、頑張って。」
阿知波の顔から笑顔が消えた。
震える手で受け取る。
「……ありがとう」
すると。
「アンヌ、ずるーい!」
アキコが走ってきた。
「私も!」
もう一人。
「僕も!」
「俺も作った!」
「ダン兄ちゃん、これ!」
次から次へ。
御守り。
御守り。
御守り。
阿知波の両手では持ちきれなくなった。
そして。
とうとう涙が落ちた。
「みんな……」
顔をくしゃくしゃにする。
「みんな、ありがとう……!」
村松は何も言わない。
ただ。
大きくなった息子を見ていた。
その頃。
鈴木家。
「あなた、手伝ってよ」
「なに?」
鈴木は資料を見ていた。
「今、忙しいんだよ」
「いいからお願い」
美佐子が置いたもの。
裁縫道具。
そして。
作りかけの御守り。
鈴木の手が止まった。
「これ……」
「太一の」
美佐子は針を差し出した。
「あなた。」
「今だけは監督を離れて」
鈴木を見る。
「太一の父親として、一針入れて。」
鈴木は黙った。
やがて。
針を受け取る。
不器用な手。
メジャーで何千回とバットを握った手が、
小さな針を持つ。
「難しいな……」
「ホームラン打つより?」
「たぶんな」
美佐子が笑った。
一針。
ゆっくり。
鈴木が縫う。
そして小さく言った。
「太一。」
「期待してるぞ」
少し考え。
「監督としても。」
もう一針。
「父親としても。」
美佐子の目が潤んだ。
「メジャーに行く時を思い出すね」
鈴木が笑う。
「ああ。」
「あの時も作ってくれたな」
「うん」
「なのに。」
「せっかく作ったのに、実家に忘れてきた」
美佐子がかわいらしく手を挙げた。
「はーい。そうです」
「慌ただしくて忘れました」
「意味ないだろ」
「だから。」
美佐子は完成しかけた御守りを見る。
「幻だった御守りが。」
「今、現実になった。」
鈴木は何も言わなかった。
優しく御守りを見つめた。
その時。
「……ありがとう。」
二人が振り返る。
太一が立っていた。
「父さん。」
鈴木の目が見開かれる。
「母さん。」
美佐子の目から涙が落ちた。
次の瞬間。
太一が飛び込んできた。
二人を同時に抱きしめる。
「ありがとう……!」
美佐子は泣いた。
鈴木も。
息子の背中に腕を回した。
十年前。
離れた三人。
それが今。
一つになっていた。
その日の夕食。
三人はカレーを食べた。
「太一、肉取りすぎ」
「母さんが入れすぎなんだよ」
「成長期だからいいの」
鈴木が太一の皿を見る。
「食い過ぎると動けなくなるぞ」
「監督は黙ってて」
「家では父親だ」
「じゃあ父さんは黙ってて」
「もっとひどくなったぞ」
美佐子が笑った。
何でもない会話。
だからこそ。
三人には幸せだった。
そして。
山内家。
父親が妻に言った。
「遠慮なく作ればいいじゃないか」
母親は俯いている。
「でも……」
「何をためらっているんだ」
「だって。」
母親の声が震えた。
「私が作ったら……」
言葉が続かない。
父親が言う。
「あいつの母親は――」
その言葉と同時に。
物語は。
その日の朝へ戻る。
監督室。
「失礼します」
「山内?」
鈴木が顔を上げた。
「どうした?」
山内は立ったままだった。
いつもの笑顔がない。
「鈴木監督。」
「実は僕には。」
少し震える。
「二人の母親がいるんです。」
鈴木は黙って聞いた。
「一人は、僕を産んでくれた母です」
「僕が二歳の時に亡くなりました」
「だから……あまり記憶がありません」
「そうか……」
「そして僕が五歳の時。」
「父が再婚しました」
鈴木は理解した。
「今のお母さんか」
山内が頷く。
「はい」
「僕を育ててくれた母です」
「それで?」
山内は唇を噛んだ。
「御守りです」
「母が……」
声が震える。
「自分が作るのは、本当のお母さんに悪いからって」
鈴木の眉が動いた。
「お父さんに作ってもらいたいって言ってるらしくて」
「どうしてそれを?」
「弟が教えてくれました」
「弟?」
「はい。」
山内の表情が少しだけ優しくなる。
「七つ下です」
「大好きな弟です」
だが。
すぐに涙が浮かんだ。
「昨日。」
「弟が泣きながら言うんです」
山内の声が詰まる。
『だったら僕が作る』
「兄ちゃんの御守り。」
**『僕が作るから』**って。
山内は俯いた。
涙が床へ落ちる。
鈴木はしばらく何も言わなかった。
そして聞いた。
「山内。」
「はい」
「お前は。」
「誰からの御守りが欲しいんだ?」
山内は顔を上げた。
迷わなかった。
「みんなです」
「父さんからも。」
「母さんからも。」
「弟からも。」
涙を拭う。
「家族みんなから欲しいです。」
そして。
「それに……」
山内は笑おうとした。
「僕に野球を教えてくれたの。」
「今の母なんです。」
鈴木の表情が変わった。
「キャッチボールも。」
「バットの握り方も。」
「最初に教えてくれたのは母でした」
鈴木は立ち上がった。
山内の肩に手を置く。
「だったら。」
「何を悩んでる」
山内が見る。
「今のお母さんが、本当のお母さんじゃない?」
「違うだろ」
力を込める。
「お前をここまで育てた母親だ。」
「産んでくれたお母さんも、お前の母親。」
「育ててくれたお母さんも、お前の母親だ」
山内の涙が止まらない。
「どちらかを選ぶ必要なんてない」
「家族からの御守りが欲しい。」
「そう伝えなさい」
そして。
少し笑った。
「お前をここまで立派に育てたお母さんだ」
「きっと、いい御守りを作ってくれる。」
山内は袖で涙を拭った。
深く。
深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
そして時間は。
再び山内家へ戻る。
父親が妻を見つめている。
母親の前には。
まだ何も縫われていない布。
そこへ。
玄関のドアが開いた。
「ただいま」
山内が帰ってきた。
母親が慌てて裁縫道具を隠そうとする。
山内は母親の前へ座った。
「母さん。」
「……なに?」
「俺。」
一度、息を吸う。
「母さんの御守りが欲しい。」
母親の手が止まった。
「でも……」
「母さん。」
山内は笑った。
いつもの。
優しい笑顔だった。
「俺には母さんが二人いるんだ」
「産んでくれた母さん。」
そして。
目の前の女性を見る。
「俺を育ててくれた母さん。」
母親の目から涙が落ちた。
「どっちも。」
「俺の母さんだよ。」
父親が顔を背ける。
その目にも涙があった。
すると。
隣の部屋から。
「兄ちゃん!」
弟が飛び出してきた。
手には。
ぐちゃぐちゃに縫われた小さな御守り。
「僕も作った!」
山内が笑った。
「知ってるよ」
「え?」
「母さん。」
「父さん。」
「それと、お前。」
山内は三人を見る。
「三人とも作ってよ。」
「俺、三つ持って試合に行くから」
弟が叫んだ。
「じゃあ僕のが一番強い!」
「なんでだよ」
「一番頑張って作ったから!」
「母さんも負けないわよ」
父親も笑った。
「俺も作るのか?」
三人が同時に言った。
「作るの!」
笑い声。
その真ん中で。
山内は思った。
家族とは。
血だけで決まるものではない。
一緒に笑った時間。
叱られた時間。
泣いた時に抱いてくれた腕。
初めて握った野球ボール。
毎朝作ってくれた弁当。
試合に負けて帰った夜。
何も聞かず、
夕食を温め直してくれた人。
そのすべてが。
自分を作っている。
机の上。
三つの御守りが、
少しずつ形になっていく。
上手なもの。
不器用なもの。
小さな手で作られたもの。
全部違う。
でも。
込められた願いだけは。
同じだった。
――無事に帰っておいで。
――そして、大好きな野球をしておいで。
県大会開幕まで。
あと一週間。
島大松江高校野球部五十八人。
その一人一人のもとへ。
世界に一つしかない御守りが、
届けられようとしていた。
勝つためだけではない。
甲子園へ行くためだけでもない。
そこには。
親から子へ。
家族から家族へ。
言葉では伝えきれない思いが、
一針ずつ、
縫い込まれていた。
そして彼らはまだ知らない。
その小さな御守りを握りしめたくなるほどの戦いが、
もうすぐ始まることを。




