13回表 20番
六月二十四日。
県大会登録メンバー二十人が発表されて、一夜が明けた。
島大松江高校野球部のグラウンドには、いつものように部員たちが集まっていた。
五十八人。
県大会のベンチに入れるのは二十人。
だが、鈴木監督は登録から外れた三十八人にも、これまでと変わらず練習へ参加するよう命じていた。
甲子園へ行けば、もう一度ラストゲームを行う。
だから。
誰の夏も、まだ終わってはいない。
しかし――。
一つだけ。
昨日とは違うものがあった。
背番号。
「1」
「2」
「3」
県大会を戦う選手たちの背中には、それぞれの数字が刻まれていた。
八雲の「1」。
さおりの「2」。
こなつの「8」。
大和の「9」。
山内の「3」。
太一の「19」。
だが。
一つだけ、その番号を背負う選手がいなかった。
20。
二年生投手。
玉木。
鈴木監督は昨日、確かにその名前を読み上げた。
しかし。
本人はまだ、野球部に戻っていない。
ブルペンにもいない。
ベンチにもいない。
さおりが校門を見る。
こなつも見る。
出雲は何も言わず、キャッチボールを続けていた。
太一が山内に小声で聞いた。
「山内先輩。」
「はい?」
「来ますかね。」
山内は少し考えた。
そして笑った。
「来るよ。」
「根拠は?」
「ないよ。」
「ないんですか。」
「でも。」
山内は校門を見た。
「仲間だから。」
太一は何も言わなかった。
その言葉を聞いて。
少しだけ笑った。
その時だった。
「……あ。」
山内が声を上げた。
全員が校門を見る。
一人の少年が立っていた。
右手には野球バッグ。
左手にはグラブ。
スパイクを履いている。
そして。
島大松江高校野球部のユニフォーム。
ただし。
背中には何もない。
背番号はなかった。
少年が歩き始める。
一歩。
また一歩。
誰も声を出さない。
さおりが見つめる。
こなつが見つめる。
出雲も。
八雲も。
大和も。
太一も。
山内も。
五十八人が、その少年を見ていた。
玉木だった。
玉木はグラウンドへ入る直前。
足を止めた。
そして。
帽子を取った。
グラウンドへ深く頭を下げた。
それから、ゆっくり土を踏んだ。
鈴木監督の前まで歩いてくる。
そして。
部員全員の前に立った。
「……すみませんでした。」
深く頭を下げた。
誰も答えない。
玉木は頭を上げない。
「俺……。」
声が震えた。
「勝手に辞めました。」
「みんなが夏に向かって練習している時に。」
「俺だけ逃げました。」
拳を握る。
「それなのに。」
「戻りたいなんて……。」
言葉が詰まった。
涙が地面へ落ちた。
「都合がいいって分かってます。」
それでも。
顔を上げた。
「でも。」
「やっぱり。」
唇を噛む。
そして。
言った。
「野球がしたい。」
こなつの目から涙が落ちた。
「俺。」
「一人で家にいる時も。」
「みんなが練習している時間になると。」
「今頃、出雲が投げてるのかなとか。」
「さおりが怒鳴ってるのかなとか。」
さおりが涙を浮かべながら睨む。
「誰が怒鳴るのよ。」
小さな笑いが起きた。
玉木も泣きながら笑った。
しかし。
すぐに真顔に戻った。
「グラウンドの近くまで何度も来ました。」
さおりとこなつの表情が変わった。
二人とも知っていた。
練習を遠くから見つめる玉木の姿を。
鈴木監督も知っていた。
三人とも見ていた。
だが。
誰も声を掛けなかった。
玉木自身が戻ることを選ぶまで。
「みんなを見ていました。」
「本当は。」
「ずっと入りたかった。」
そして。
「悔しかった。」
「寂しかった。」
「でも。」
玉木は胸を張った。
「もう逃げたくありません。」
「俺は――」
声を振り絞る。
「みんなと野球がしたい!」
さらに。
「甲子園に行きたい!」
「みんなと行きたい!」
玉木は再び頭を下げた。
「お願いします!」
「もう一度。」
「俺を――」
涙声になった。
「仲間にしてください!」
静寂。
誰も動かなかった。
玉木の肩が震える。
その時。
ザッ。
土を踏む音。
一人の選手が歩いてきた。
出雲だった。
玉木の前に立つ。
「遅い。」
玉木が顔を上げる。
「……ごめん。」
「違う。」
出雲は玉木の胸を軽く叩いた。
「背番号20。」
「いつまで監督に持たせてるんだよ。」
玉木の顔が崩れた。
八雲が後ろから叫ぶ。
「泣いてる暇があるならブルペン入れ!」
玉木が振り返る。
「まだ復部認められてないだろ。」
「じゃあ早く認めてもらえ!」
大和も笑った。
「お帰り。」
糸原も。
「待ってたぞ。」
浜口も。
「また投げろよ。」
そして。
山内が歩いてきた。
いつもの笑顔。
「玉木君。」
「はい。」
「お帰り。」
玉木は唇を噛んだ。
「……ただいま。」
その隣から。
太一。
「玉木先輩。」
「何だよ。」
「俺より後から入部するんですね。」
「お前だって再入部だろ。」
「俺は正式な入部テストを突破してます。」
八雲が言う。
「お前、一回不合格だっただろ。」
「そこは言わなくていい!」
笑いが起きた。
玉木も笑った。
涙を流しながら。
笑った。
そして。
最後に二人が歩いてきた。
主将。
竹内さおり。
副主将。
石川こなつ。
さおりが玉木の前に立つ。
何も言わない。
ただ。
右手を差し出した。
玉木がその手を見る。
さおりが笑った。
「背番号20。」
そして。
「お帰り。」
玉木の目から、また涙が溢れた。
右手を握る。
「……ただいま。」
次の瞬間。
こなつが二人まとめて抱きしめた。
「遅いよ!」
「うわっ!」
「こなつ!」
「心配したんだから!」
こなつが泣いていた。
「ずっと待ってたんだから!」
「……ごめん。」
「謝るな!」
「どっちだよ。」
三人が泣きながら笑う。
すると。
一人。
また一人。
仲間が集まってきた。
県大会登録選手だけではない。
登録されなかった選手も。
一年生も。
二年生も。
三年生も。
気づけば。
玉木は五十八人の真ん中にいた。
その時。
玉木は初めて分かった。
自分は野球をするためだけに、
ここへ戻ってきたのではない。
帰ってきたのだ。
自分の居場所へ。
「玉木。」
声がした。
全員が振り返る。
鈴木監督だった。
手に一枚のユニフォームを持っている。
玉木が前へ出る。
鈴木監督がユニフォームを広げた。
その背中には。
20。
「第110回全国高等学校野球選手権島根県大会。」
「島大松江高校登録選手。」
少し間を置く。
「背番号20。」
「玉木。」
玉木は直立した。
「はい!」
鈴木監督がユニフォームを差し出す。
「受け取れ。」
玉木は両手で受け取った。
背番号20を見る。
指で触れる。
しかし。
すぐには着なかった。
「監督。」
「何だ。」
「父には……。」
言葉が止まる。
しばらくして。
「言ってません。」
グラウンドが静かになった。
「復部すること。」
「まだ父には言ってません。」
鈴木は黙って玉木を見る。
やがて。
「そうか。」
それだけだった。
玉木が驚く。
「監督……。」
「今はそれでいい。」
しかし。
鈴木の声が厳しくなる。
「ただし。」
「はい。」
「逃げるな。」
玉木の表情が変わった。
「いつか必ず。」
「自分の口で父親に話せ。」
「野球をしたいことも。」
そして。
「父親の会社を継ぎたいことも。」
玉木が顔を上げた。
鈴木は知っていた。
あの投票用紙に書かれた玉木の夢を。
皆と一緒に野球をしたい。
将来、父親の会社を継ぎたい。
「どちらも。」
「お前の夢なんだろ。」
「……はい。」
「だったら。」
鈴木は玉木の胸を指差した。
「どちらからも逃げるな。」
玉木の目から涙が落ちた。
背番号20のユニフォームに落ちる。
「はい!」
大きな返事だった。
そして。
玉木はその場でユニフォームを着た。
背中に。
20。
五十八人から拍手が起こった。
最初は小さかった。
だが。
次第に大きくなる。
グラウンドいっぱいに響いた。
玉木は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「ありがとうございます!」
そして。
グラブを持った。
出雲がボールを投げてよこす。
玉木が受け取る。
出雲が言った。
「投げられるか。」
玉木はボールを握った。
少し笑った。
「誰に言ってんだよ。」
「じゃあ行くぞ。」
「おう。」
二人がブルペンへ向かう。
さおりが叫ぶ。
「玉木!」
振り返る。
「お帰り!」
こなつも叫んだ。
「今度は勝手に辞めたら許さないから!」
玉木が笑う。
そして。
大きな声で答えた。
「ただいま!」
その声が。
グラウンドいっぱいに響いた。
同じ頃。
玉木の父親は会社にいた。
息子が野球部へ戻ったことを。
まだ知らない。
重要な書類に目を通している。
ふと。
ペンを止めた。
右胸に手を当てる。
スーツの内ポケット。
そこには。
一枚の紙が入っていた。
息子が書いた県大会メンバーの投票用紙。
そして。
そこに記された二つの夢。
父親は紙を取り出さなかった。
ただ。
内ポケットの上から、
そっと押さえた。
父親はまだ知らない。
今。
その息子の背中に。
20
という数字が戻ったことを。
そして。
玉木も知らない。
自分の夢が今も、
父親の心臓に一番近い場所にあることを。
二人の距離は、
まだ遠い。
けれど。
ほんの少しだけ。
同じ方向を向き始めていた。




