12回裏 発表
六月二十三日。
朝。
島大松江高校野球部のグラウンドには、五十八人の部員が集まっていた。
だが――
鈴木監督の姿がない。
昨日。
鈴木監督は確かに言った。
「県大会登録メンバーの発表は明日。」
その「明日」が来た。
三年生にとっては、最後の夏になるかもしれない。
二年生にとっても、譲れない夏。
一年生にとっては、初めての夏。
県大会を戦えるのは二十人。
誰もが自分の名前が呼ばれることを願っていた。
だが、その名前を発表する鈴木監督がまだ来ない。
さおりが時計を見る。
こなつも校舎の方を見る。
太一は何も言わず、グラウンドを見つめていた。
美佐子部長だけは知っていた。
夫が今、どこへ向かっているのかを。
玉木の父のもとへ
同じ頃。
鈴木監督は、県内でも知られる企業の本社を訪れていた。
受付で名乗る。
「島大松江高校野球部監督の鈴木と申します。」
受付の女性の表情が変わった。
「鈴木……監督?」
その知らせは瞬く間に社内へ広がった。
かつてメジャーリーグで活躍した名選手。
今は島大松江高校を率いる鈴木監督。
廊下ですれ違う社員たちが、恐縮したように頭を下げる。
鈴木も、その一人一人に丁寧に一礼した。
やがて応接室。
正面に座ったのは――
二年生投手・玉木の父だった。
「わざわざお越しいただき、恐縮です。」
父親は立ち上がり、深く頭を下げた。
鈴木も頭を下げる。
「突然申し訳ありません。」
二人が座る。
しばらく沈黙。
鈴木が口を開いた。
「今日は玉木君のことで参りました。」
父親の表情が少し硬くなる。
「そうですか。」
鈴木は真っすぐ相手を見る。
「玉木君を、野球部へ戻していただきたい。」
父親は黙っていた。
「これは私一人の希望ではありません。」
「昨日、選手たちに県大会を戦う二十人を選ばせました。」
「誰と夏を戦いたいのか。」
「甲子園へ行くために誰が必要なのか。」
鈴木は静かに続ける。
「仲間たちは。」
「玉木君が戻ってくることを信じています。」
そして。
「私も、県大会を戦う上で彼の力が必要だと思っています。」
鈴木監督は深く頭を下げた。
「もう一度、野球をさせていただけませんか。」
長い沈黙。
玉木の父はゆっくり口を開いた。
「鈴木監督。」
「あなたほどの方が、息子のためにここまでしてくださる。」
「父親として感謝しております。」
そして深く頭を下げる。
しかし。
「だからこそ、失礼のないよう、はっきり申し上げます。」
顔を上げた。
「息子を野球部へ戻すつもりはありません。」
鈴木は黙って聞いている。
「私は、将来この会社を息子に継いでほしい。」
「大学へ進み、経営を学んでほしい。」
「私は父親として、息子の将来に責任があります。」
鈴木が言う。
「玉木君はまだ二年生です。」
「だからこそです。」
父親は即答した。
「今なら、まだ将来へ向けて準備できる。」
「私はそれが息子のためだと信じています。」
鈴木監督はもう一度頭を下げた。
「この夏だけでも。」
「お願いします。」
父親も深く頭を下げた。
「申し訳ありません。」
「お断りします。」
どちらも息子のことを考えている。
だが。
信じる答えが違っていた。
鈴木はゆっくり立ち上がった。
「分かりました。」
「お時間をいただき、ありがとうございました。」
そして会社を後にした。
玄関を出た鈴木が空を見上げる。
「……仕方ないか。」
その時だった。
「鈴木監督!」
女性の声。
振り返る。
玉木の母親が走ってきた。
息を切らしている。
「会社の専務から連絡をもらいました。」
「鈴木監督が主人に会いに来ているって。」
母親は鈴木を見る。
「玉木君に戻ってきてもらいたくて、お父様にお願いしました。」
母親の目から涙がこぼれた。
鈴木は続ける。
「選手たちも玉木君を必要としています。」
「私もです。」
「県大会を戦う二十人に――」
少し間を置いた。
「彼を入れたい。」
母親は両手で口を押さえた。
そして。
その場に膝をついた。
「お願いします。」
「お母さん!」
母親は地面に手をつく。
「息子を戻してください。」
「責任は私が持ちます。」
「主人を許してください。」
「父親として未熟なんです。」
涙が地面へ落ちる。
「でも、あの人もあの人なりに息子を愛しているんです。」
「会社を継がせたいのも、息子に自分の築いたものを残したいからなんです。」
そして。
「でも。」
「高校二年生の夏は、今しかありません。」
「どうか。」
「皆さんと野球をさせてください。」
鈴木は何も言えなかった。
目の前の母親に。
十年前の自分が重なる。
ロサンゼルス。
幼かった太一。
父親が有名選手だったために孤立し、傷ついた息子。
鈴木夫妻は息子を守ろうとした。
そして。
太一だけを日本へ帰した。
美佐子の実家である若槻家へ。
あの時は。
それが最善だと思った。
だが。
太一は言った。
「あなたの子供に生まれたくなかった。」
胸が痛む。
そして昨日の紙。
太一の夢。
甲子園で、鈴木監督としてだけじゃなく、父さんとして、俺を応援してほしい。
鈴木は目を閉じた。
親は子供のために最善を尽くす。
だが。
親の考える最善と、
子供が望む幸せは、
本当に同じなのだろうか。
鈴木は母親の前にしゃがんだ。
「お母さん。」
「立ってください。」
手を差し出す。
「親は。」
「子供のために一番良い道を選ぼうとします。」
「でも。」
鈴木は苦笑する。
「それが正しかったのか。」
「私にも、今でも分からないことがあります。」
母親が鈴木の手を取る。
鈴木は立たせた。
そして頭を下げた。
「承知しました。」
母親の目が大きくなる。
「玉木君をお預かりします。」
「この夏を。」
「二十人の一人として一緒に戦わせます。」
母親は声を上げて泣いた。
一枚の忘れ物
その頃。
会社の応接室。
玉木の父親は机の上に一枚の紙が残っていることに気づいた。
「鈴木監督の忘れ物か。」
手に取る。
県大会登録選手選考用紙。
二十人の名前。
そして注意書き。
『必ず二十名の中に自分自身の名前を記入すること』
父親は何気なく文字を追った。
そこで手が止まる。
見覚えのある字。
幼い頃から何度も見た。
息子の字だった。
もう一度、二十人の名前を見る。
だが。
そこには――
玉木自身の名前がない。
父親は注意書きをもう一度見る。
『自分自身の名前を必ず記入すること』
それでも。
息子は自分を書かなかった。
退部した自分には資格がない。
そう思ったのだろう。
そして。
父親の視線が、その下へ移る。
あなたの夢。
そこには。
二つの文章。
皆と一緒に野球をしたい。
父親の指が止まる。
そして。
将来、父親の会社を継ぎたい。
父親の目が見開かれた。
野球か。
会社か。
自分はずっと、
どちらか一つだと思っていた。
だが。
息子は違った。
野球がしたい。
そして。
父の会社も継ぎたい。
父親はゆっくり椅子にもたれた。
天井を見上げる。
長い沈黙。
やがて。
その紙を丁寧に折った。
そして。
右胸。
スーツの内ポケットへ。
心臓に最も近い場所へ。
静かにしまった。
二十人
午後。
島大松江高校グラウンド。
五十八名が整列していた。
そこへ鈴木監督が現れた。
手には県大会登録メンバー表。
「待たせたな。」
誰も話さない。
「これから。」
「第110回全国高等学校野球選手権島根県大会。」
「島大松江高校登録選手二十名を発表する。」
空気が張り詰めた。
「呼ばれた者は前へ。」
「はい!」
鈴木監督が名簿を見る。
「背番号1。」
「出雲。」
「はい!」
出雲が前へ出る。
「背番号2。」
「竹内さおり。」
「はい!」
「背番号3。」
「和田八雲。」
「はい!」
「背番号4。」
「佐野。」
「はい!」
「背番号5。」
「浜口。」
「はい!」
「背番号6。」
「梶谷。」
「はい!」
「背番号7。」
「阿知波。」
「はい!」
「背番号8。」
「石川こなつ。」
こなつは一度目を閉じた。
そして。
「はい!」
「背番号9。」
「竹下大和。」
「はい!」
九人が並ぶ。
鈴木監督は続けた。
「背番号10。」
「山内。」
山内は目を丸くした。
「……僕?」
太一が横から小声で言う。
「山内先輩。」
「呼ばれてる。」
山内は慌てた。
「はい!」
周囲から小さな笑いが起きる。
「背番号11。」
「大野。」
「はい!」
「背番号12。」
「糸原。」
「はい!」
「背番号13。」
「三沢。」
「はい!」
「背番号14。」
「梨田。」
「はい!」
「背番号15。」
「錦織。」
「はい!」
「背番号16。」
「小村。」
「はい!」
「背番号17。」
「世良。」
「はい!」
「背番号18。」
「芦田。」
「はい!」
十八人。
残り二人。
グラウンドの緊張が一段上がった。
鈴木監督が名簿を見る。
「背番号19。」
少し間を置いた。
「若槻太一。」
太一の身体が固まった。
返事をしない。
鈴木監督も動かない。
もう一度。
「若槻太一。」
それでも。
太一は黙っていた。
山内が太一の隣へ少し寄る。
小声で言った。
「太一君。」
「返事しないと。」
「本当に登録されなくなるかもしれないよ。」
そして困った顔。
「なんで返事しないの?」
太一は俯いている。
拳を握る。
そして。
ようやく。
「……はい。」
小さな返事だった。
だが。
前へは出ない。
全員が太一を見る。
太一が顔を上げた。
鈴木監督を見つめる。
そして。
「鈴木監督。」
グラウンドが静まり返る。
「僕は――」
一度、息を吸う。
「若槻太一ではありません。」
美佐子の表情が変わった。
鈴木監督は何も言わない。
太一は続ける。
「今まで。」
「若槻家に守ってもらって。」
「若槻太一として生活してきました。」
「その名前にも感謝しています。」
「でも。」
声が震え始める。
「高校野球の正式な登録は。」
「本当の名前ですよね。」
誰も言葉を発しない。
太一の目に涙が浮かぶ。
それでも。
監督から目を逸らさない。
「鈴木監督。」
「これからは。」
そして。
はっきりと言った。
「僕は――」
「鈴木太一です。」
美佐子の目から、
一粒の涙が落ちた。
さらに。
次から次へと溢れる。
口元を押さえる。
太一は続けた。
「逃げません。」
「あなたの息子であることからも。」
「野球からも。」
「もう逃げません。」
グラウンドは静まり返ったままだった。
鈴木監督が太一を見る。
十年前。
泣きながら日本へ送り出した小さな息子。
自分を拒絶した息子。
同じ学校にいても、
口も利かなかった息子。
その息子が今。
自分から。
鈴木
を名乗った。
鈴木監督は目を閉じた。
一度。
深く息を吸う。
そして名簿を見た。
ゆっくり。
はっきりと。
もう一度読み上げる。
「背番号19。」
声が少しだけ震えた。
「鈴木太一。」
太一の目から涙が落ちた。
今度は。
迷わない。
「はい!」
大きな返事だった。
そして前へ出る。
その瞬間。
山内が号泣した。
「太一君……。」
鼻をすすりながら泣いている。
太一が振り返る。
「なんで山内先輩が泣くんだよ。」
「だって……。」
「良かったねえ……。」
太一も泣きながら笑った。
「先輩が一番泣いてるじゃん。」
周囲から笑いが起こる。
こなつも目を擦る。
さおりも笑っていた。
ひまわりは美佐子の隣で泣いていた。
バーンズは空気を読んだのか、
今日は叫ばなかった。
ただ。
静かに拍手していた。
鈴木監督と太一の目が合う。
言葉はない。
それで十分だった。
十九人。
残るは――
あと一人。
鈴木監督が名簿へ視線を戻した。
「背番号20。」
沈黙。
「玉木。」
誰も動かない。
本人は、そこにいない。
しかし。
次の瞬間。
「はい!」
さおりだった。
「はい!」
こなつ。
出雲。
八雲。
大和。
山内。
太一。
一人。
また一人。
「はい!」
「はい!」
「はい!」
やがて。
五十八人の声が重なった。
「はい!!」
まるで。
その場にいない仲間の返事を、
全員で届けるように。
鈴木監督は静かに聞いていた。
そして言った。
「二十人。」
「これが島大松江高校の夏のメンバーだ。」
登録された二十人。
そして登録されなかった三十八人。
鈴木監督は全員を見る。
「だが。」
「今日、名前を呼ばれなかった者。」
「お前たちの夏が終わったわけじゃない。」
全員が顔を上げる。
「私は。」
「もう一度ラストゲームを行う。」
ざわめき。
「県大会を戦い抜いて。」
「甲子園へ行くことができた時。」
「もう一度。」
「甲子園を戦うメンバーを決める。」
登録から外れた選手たちの目に光が戻る。
「だから。」
鈴木監督は笑った。
「諦めるのは。」
「全部終わった時だ。」
そして。
「いや。」
「まだ何も始まっていない。」
「俺たちの夏は――」
「これからだ。」
五十八人。
一斉に。
「はい!!」
その声がグラウンドいっぱいに響いた。
そしてその頃。
会社の社長室。
一人の父親が、
右胸の内ポケットにそっと手を当てていた。
その胸には。
息子の夢がある。
皆と一緒に野球をしたい。
将来、父親の会社を継ぎたい。
父親はまだ何も言わない。
ただ。
ゆっくり目を閉じた。
ほんの少しだけ。
その表情が変わっていた。




