11回表 序曲
五月七日。
島根県高等学校野球連盟より、
第110回全国高等学校野球選手権島根大会要綱
が発表された。
抽選会は六月十日。
開幕は七月七日。
甲子園への戦いが、いよいよ始まろうとしていた。
翌日の練習前。
島大松江高校野球部の全員がグラウンドに集められた。
鈴木監督は静かに選手たちを見渡した。
その表情は厳しくもあり、どこか楽しそうでもあった。
「六月二十一日。」
選手たちが顔を上げる。
「紅白戦を行う。」
ざわつく部員たち。
「ただの紅白戦じゃない。」
「県大会登録二十名を決める選考試合だ。」
空気が一変した。
笑顔が消える。
全員の背筋が伸びる。
「今日から一か月。」
「一球。」
「一振り。」
「一歩。」
「全てを見せてもらう。」
「レギュラーも補欠も関係ない。」
「最後に背番号を勝ち取るのは、努力を続けた者だ。」
静まり返るグラウンド。
「以上だ。」
「練習を始めろ。」
「はい!」
選手たちの声が響いた。
その日から練習はさらに熱を帯びた。
出雲は誰よりも投げた。
八雲は誰よりも走った。
大和は一心不乱にバットを振った。
太一は投手練習と打撃練習を繰り返した。
山内は誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った。
そして。
グラウンドの外から、
その光景を見つめる一人の少年がいた。
玉木だった。
制服姿。
フェンス越し。
何も言わない。
ただ黙って見ている。
その姿に最初に気づいたのは鈴木監督だった。
「……。」
だが何も言わない。
別の日。
さおりも気づいた。
フェンスの向こう。
玉木が立っている。
声を掛けようとした。
しかし。
やめた。
玉木自身が決めるべきことだから。
さらに別の日。
こなつも気づいた。
夕暮れ。
誰もいなくなったグラウンド。
フェンス越しに立つ玉木。
こなつは唇を噛んだ。
だが。
やはり何も言わなかった。
鈴木監督。
さおり。
こなつ。
三人とも見ていた。
しかし。
三人とも口にはしなかった。
六月の風が吹く。
帰り道。
さおりとこなつが並んで歩いていた。
「いよいよだね。」
さおりが空を見上げる。
こなつが笑う。
「夢だったんだ。」
「甲子園。」
「テレビで見てたあの場所。」
「まさか自分が目指すなんてね。」
さおりも笑う。
「その前に。」
「選手に選ばれなきゃね。」
「そうだった。」
二人が笑い合う。
その時だった。
「先輩ー!」
後ろから元気な声。
佐野ひまわりだった。
両手にはコンビニ袋。
「はい、アイス!」
「またアイス?」
「またアイスです!」
こなつが呆れる。
「なんでこの子、いつもアイスなんだろ。」
「幸せになれるからです!」
三人は笑った。
そして自然に歌い出す。
♪ 雲は湧き 光あふれて
♪ 天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ
「栄冠は君に輝く」
だった。
すると。
後ろから低い声が聞こえる。
♪ 若人よ いざ
振り返る。
八雲だった。
さらに。
山内も歌っている。
そして。
太一まで歌っていた。
「お前も歌えるのか。」
さおりが驚く。
「覚えた。」
太一が答える。
最近の太一は変わった。
美佐子部長とは完全に親子に戻った。
ただ。
鈴木監督に対してだけは少し違う。
尊敬している。
感謝もしている。
だが。
照れくさい。
父親として接するのがまだ少し苦手だった。
それを知るひまわりがニヤリと笑う。
「太一ってさ。」
「一番鈴木監督のファンだよね。」
「は?」
「違うし。」
「絶対そうだよ。」
「お前だって兄貴のファンじゃん。」
太一が言い返す。
「この前も熱心にバッティング理論聞いてたし。」
ひまわりが即座に反論した。
「太一。」
「お前アホだろ。」
「え?」
「あれ説教だよ。」
「見てて分からなかったの?」
「え?」
周囲が爆笑する。
太一が固まる。
山内が慌てて間に入る。
「まあまあ。」
「二人とも。」
額に汗を浮かべる山内。
その様子を見て出雲が笑った。
そして不意に言った。
「俺さ。」
全員が八雲を見る。
「みんなが好きだ。」
静かになる。
「少しでも長く。」
「この仲間と野球がしたい。」
夕陽が差し込む。
誰も笑わなかった。
本音だと分かったから。
さおりが照れ隠しに言う。
「そうだね。」
「甲子園に連れてってね。」
「八雲さん。」
八雲が苦笑する。
するとこなつがニヤニヤし始めた。
「ねえ。」
「あんたたち付き合ってる?」
「はあ!?」
出雲とさおりが同時に叫んだ。
全員大爆笑。
「だってさ。」
「キャッチャーって女房役って言うじゃん。」
「二人見てると最高のカップルだよ。」
八雲が即答した。
「なわけないだろ。」
「さおりは女房じゃない。」
「亭主だ。」
「亭主関白。」
「こらー!」
さおりが飛びかかる。
「私はか弱い女の子キャッチャーだぞ!」
「誰が亭主じゃ!」
さらに笑いが広がる。
山内がまた止める。
「まあまあ。」
その時。
太一が真顔で言った。
「だったら。」
「俺の女房は山内先輩。」
一瞬の沈黙。
「おかまじゃん。」
「おえ~。」
全員が吹き出した。
山内だけが笑顔だった。
「ひどいなあ。」
「でも太一君なら許す。」
「なんでだよ!」
夕焼け空の下。
笑い声が響く。
だが。
誰も知らない。
この笑顔が。
この時間が。
永遠ではないことを。
六月二十日。
運命のラストゲームが、
静かに近づいていた。




