10回表 空白
玉木が退部届を提出した翌日。
島大松江高校野球部のグラウンドには、いつもと違う重さが残っていた。
二年生投手・玉木。
春季大会三回戦では主力を外したチームを背負って完投し、県大会決勝でも重要な役割を期待されていた投手。
その玉木がいない。
ブルペンの一角が、妙に広く見えた。
八雲は何度もそこへ目をやった。
さおりも。
こなつも。
誰も玉木の名前を口にはしなかった。
だが、全員が考えていた。
誰が、この穴を埋めるのか。
練習開始前。
鈴木監督が投手陣を集めた。
八雲。
出雲。
そして三年生左腕・大野納。
さらに。
若槻太一。
太一が驚く。
「俺もですか。」
鈴木監督は頷いた。
「今日から投手練習をやれ。」
グラウンドがざわつく。
太一自身も予想していなかった。
「俺、投手なんて……。」
「昔やってただろ。」
太一の表情が止まる。
鈴木監督はそれ以上言わない。
幼い頃。
ロサンゼルス。
父と何度もキャッチボールをした。
投げ方も。
握り方も。
軸足の使い方も。
全部、父から教わった。
太一は無言でボールを受け取った。
ブルペン。
捕手として座ったのは山内だった。
竹内さおりが正捕手になる前まで、島大松江高校のマスクを被っていた三年生。
派手さはない。
だが投手の気持ちを受け止めることに関しては、誰にも負けなかった。
山内が笑う。
「太一君。」
「思い切って投げていいよ。」
太一はマウンドから山内を見る。
「捕れるんですか。」
「たぶん。」
「たぶんって。」
山内は笑った。
「投げてみないと分からないよ。」
太一も少しだけ笑った。
セットポジション。
深呼吸。
足を上げる。
そして。
投げた。
――ズバン!
ミットが弾けるような音。
山内の右腕が少し後ろへ押された。
周囲にいた選手が振り向く。
ひまわりがスピードガンを見る。
言葉が出ない。
こなつが覗き込む。
「何キロ?」
ひまわりが数字を見せた。
148km/h
全員が固まった。
浜口。
「……一年生だよな?」
八雲が目を細める。
出雲も思わずブルペンへ近づいた。
太一本人が一番驚いている。
「そんな出てた?」
山内はミットを振る。
「手、痛い。」
グラウンドに笑いが起きた。
久しぶりの笑いだった。
鈴木監督がマウンドへ歩く。
太一からボールを受け取った。
「握ってみろ。」
太一がフォーシームの握りを作る。
鈴木監督はその指先を見る。
そして少しだけ修正する。
「深い。」
「え?」
「少し浅く持て。」
ボールと指の間に、ほんのわずかな隙間を作らせる。
「力を入れて握れば速くなると思ってるだろ。」
太一は黙る。
「違う。」
鈴木監督はボールを指先で回してみせた。
「大事なのは、最後だ。」
「リリースでどれだけきれいに回転を与えられるか。」
選手たちが集まってくる。
鈴木監督は続けた。
「メジャーに行った日本人投手が、向こうで球速を上げることがある。」
「もちろん身体作りもある。」
「トレーニング環境も違う。」
「ボールの違いもある。」
少し間を置く。
「だが、それだけじゃない。」
ボールを握る。
「握り。」
「指の掛け方。」
「腕から指先まで、どこで力を解放するか。」
「回転効率。」
太一が真剣な目で父を見る。
「ほんの少し変えるだけで。」
「同じ力でもボールは変わる。」
バーンズが横から大きく頷く。
「スピン!」
「ベリーインポータント!」
浜口が笑う。
「今日も英語だけは分かりやすい。」
鈴木監督は太一へボールを返した。
「もう一球。」
太一が構える。
さっき教えられた握り。
強く握らない。
最後に指を走らせる。
投げる。
――ズバン!
ひまわりがスピードガンを見る。
150km/h
今度は声が上がった。
「百五十!?」
太一も目を見開く。
山内が立ち上がる。
「太一君。」
「ちょっと休憩しよう。」
「手がなくなる。」
笑いが起きる。
しかし。
一人だけ笑っていない男がいた。
出雲だった。
鈴木監督に近づく。
「監督。」
「俺もやった方がいいですか。」
鈴木監督は即答した。
「お前はいらない。」
出雲の顔が曇る。
「球速を上げたくないんですか。」
「違う。」
鈴木監督は出雲からボールを受け取る。
「お前の球は今の方がいい。」
出雲は黙って聞く。
「速ければいいわけじゃない。」
「お前はすでに回転がいい。」
「打者の手元で伸びる。」
「今そこをいじれば、その良さまで壊す可能性がある。」
八雲が頷く。
投手だから意味が分かる。
鈴木監督は続けた。
「球速だけ上がっても、打者が軌道を読みやすくなることがある。」
「速いけど見やすい球はある。」
「逆に数字以上に速く感じる球もある。」
出雲を見る。
「お前の球は後者だ。」
出雲の表情が少し緩む。
「だから。」
「数字を追うな。」
「今のお前の球を完成させろ。」
「はい。」
そして鈴木監督は、もう一人を見る。
三年生左腕。
大野納。
細身。
最速131km/h。
派手さはない。
左打者には抜群の制球を見せる。
しかし右打者が立つと一変する。
四球。
抜け球。
死球ぎりぎりの投球。
心眼練習で以前より改善したものの、まだ課題は大きかった。
持ち球も、
フォーシーム。
カーブ。
スライダー。
三種類。
相手に的を絞られやすい。
大野が少し自嘲気味に笑う。
「俺には150キロは無理ですね。」
鈴木監督。
「必要ない。」
大野が顔を上げる。
「大野。」
「お前に必要なのは球速じゃない。」
鈴木監督がホームベースを見る。
「右打者を怖がらないことだ。」
大野は黙る。
図星だった。
右打者の内角へ投げ切れない。
当てることを恐れる。
だから外へ逃げる。
そして球数が増える。
松田がゆっくり近づいた。
「大野。」
「はい。」
「目を閉じろ。」
大野が目を閉じる。
「右打者が立っていると思うな。」
「ミットだけを感じろ。」
大野が深呼吸する。
「人を見て投げるな。」
「場所へ投げろ。」
「心眼だ。」
大野はゆっくり頷いた。
ブルペンには四人の投手。
八雲。
出雲。
大野。
太一。
それぞれ全く違う。
八雲は速球と気迫。
出雲は球威と完成度。
大野は左腕特有の角度。
そして太一は、未知数の才能。
玉木が抜けた。
その事実は変わらない。
誰も玉木の代わりにはなれない。
しかし。
鈴木監督はブルペンを見ながら思う。
空いた穴を、一人で埋める必要はない。
練習終了後。
太一は山内と二人で残っていた。
山内がミットを外しながら言う。
「太一君。」
「うん。」
「投手、楽しい?」
太一はしばらく答えなかった。
そしてマウンドを見る。
「……楽しい。」
山内が笑う。
「良かった。」
太一も笑った。
その笑顔を。
少し離れた場所から鈴木監督が見ていた。
何も言わない。
だが。
ほんの少しだけ。
父親の顔になっていた。
そしてブルペンの端。
使われていない一つのマウンドを見つめる。
そこに立っていたはずの男。
二年生投手・玉木。
鈴木監督は小さく呟いた。
「まだ終わってないぞ。」
夏の県大会まで、あとわずか。
島大松江高校の投手陣は、新たな形へ変わろうとしていた。




