9回裏 意識
夏の島根県大会開幕まで、残された時間はわずかだった。
若槻太一が正式に島大松江高校野球部の仲間となり、チームには今までになかった活気が生まれていた。
そして、新たに加わったもう一人。
メジャー通算四百二十八本塁打。
鈴木監督のライナーズ時代の盟友。
ジョージ・バーンズ。
この日、バーンズが初めて本格的な打撃指導を行うことになった。
選手たちはバックネット前に集められていた。
バーンズは二メートルの巨体でバットを握る。
そして、いきなり叫んだ。
「ホームラン!」
浜口が隣の大和を見る。
「いきなりホームランかよ。」
大和が笑う。
「バーンズさんらしいな。」
バーンズは携帯翻訳機を操作した。
機械音声が流れる。
「基本的にはホームランを狙いなさい。」
選手たちが少しざわついた。
鈴木監督は何も言わず、腕を組んでいる。
バーンズは続けた。
「ただし。」
翻訳機を置く。
そして自らバットを構えた。
「パワー、オンリー、ノー!」
両腕を必要以上に力ませ、大げさなスイングをして見せる。
選手たちから笑いが起きた。
今度はゆったり構える。
足を上げる。
体重を残す。
そして一気に振り抜く。
空を切ったバットから、風を裂く鋭い音がした。
笑っていた選手たちの顔が変わる。
バーンズは自分の胸を指差す。
「タイミング。」
そしてボールを指す。
「クラッシュ。」
翻訳機。
「力任せに打つのではありません。投手の球とタイミングを合わせ、バットでボールをクラッシュさせます。」
八雲が腕を組む。
「潰す感覚ですか。」
バーンズが嬉しそうに指を差した。
「イエス! ヤクモ! クラッシュ!」
八雲が苦笑する。
バーンズは続ける。
「ホームランにならなくてもいい。」
「最後まで振り抜けば、打球は強くなる。」
「そして。」
実際に大きく空振りしてみせる。
「ミスしても、相手投手は見る。」
投手役を指差す。
「次もこのスイングが来る。」
「怖い。」
八雲が頷いた。
投手だからこそ分かる。
鋭いスイングを見せられれば、たとえ空振りでも次の一球を慎重に投げたくなる。
バーンズは突然、自分自身を指差した。
「デモ。」
「ワタシノ、バッティング。」
満面の笑み。
「ゼンブ、マネシナイ!」
選手たちが笑う。
バーンズは鈴木監督を指した。
「スズキ。」
「コノヒト、マネスル。」
鈴木監督が苦笑する。
「俺か。」
バーンズは大きく頷いた。
翻訳機が続ける。
「私はメジャーでホームランを打ちました。しかし三振も多かった。」
「鈴木は違いました。」
「簡単には三振しない。」
バーンズが選手たちを見る。
「三振しない打者。」
「相手、何が困る?」
少し間が空いた。
最初に答えたのは八雲だった。
「投手としては嫌ですね。」
全員が八雲を見る。
「粘られるとリズムに乗れない。」
「球数も増える。」
「決め球をファウルにされたら、次に何を投げるか考え直さないといけない。」
バーンズが手を叩く。
「グッド!」
今度はさおりが手を挙げた。
「守っている野手も緊張が続きます。」
「いつ飛んでくるか分からない状態が長くなるから。」
バーンズがさらに頷く。
するとひまわりが畳み掛ける。
「ベンチもです。」
「あと一球でアウトだと思ったのに、ファウル。」
「またファウル。」
「投手だけじゃなくて、相手ベンチにも少しずつストレスが溜まります。」
こなつも続いた。
「やっと一人打ち取ったと思ったら、次の打者がまた強く振ってくる。」
「嫌ですね。」
八雲が即答する。
「最悪だ。」
笑いが起きる。
鈴木監督が前へ出た。
「いい考えだ。」
そしてホワイトボードに大きく書く。
強振
その隣に。
三振しない
さらにその下へ。
ゴロ
選手たちが首を傾げる。
浜口が言う。
「監督。」
「ホームラン狙いなのにゴロですか。」
「そうだ。」
鈴木監督はボールを一つ手に取った。
「いいか。」
「フライアウトの動作数は?」
こなつが即答する。
「捕球。」
「一回。」
「正解。」
鈴木監督。
「じゃあ、ゴロアウトは?」
糸原が答える。
「ゴロを捕って、送球。」
「二回。」
鈴木監督がすぐ言った。
「はい、間違い。」
糸原が目を丸くする。
「え?」
鈴木監督が一塁方向を指差す。
「送球しただけでアウトになるか?」
糸原が気付く。
「あ……一塁手が捕球する。」
「そうだ。」
鈴木監督は指を三本立てた。
「捕る。」
「投げる。」
「捕る。」
「三つの動作が必要だ。」
選手たちは真剣な表情になる。
「もちろん単純にエラーの確率が三倍になるという意味じゃない。」
「だが、守備側に複数の処理を要求できる。」
「握り損ねるかもしれない。」
「送球が逸れるかもしれない。」
「一塁手が弾くかもしれない。」
「足が速ければ焦りも生まれる。」
こなつがニヤリとする。
「私向きですね。」
鈴木監督も笑う。
「特にな。」
バーンズが両手を叩く。
「クラッシュ!」
「ラン!」
「プレッシャー!」
浜口が笑った。
「結局全部英語じゃないですか。」
バーンズが大声で笑う。
グラウンドに明るい空気が広がった。
しかし鈴木監督は最後に表情を引き締めた。
「夏の大会は目前だ。」
「今からフォームを大きく変えるつもりはない。」
「無理なこともさせない。」
「最後に変えるのは。」
自分の頭を指差す。
「ここだ。」
次に胸を指差す。
「そして、ここ。」
「意識を変えろ。」
「一球を簡単に終わらせるな。」
「一打席を簡単に渡すな。」
「相手に一つでも多く判断させろ。」
「それだけでも野球は変わる。」
バーンズが大きく頷く。
「グレート。」
松田も微笑んだ。
「目で見える技術だけが野球じゃない。」
「これも心眼だな。」
夏へ向けて。
島大松江高校はまた一つ、新しい武器を手に入れた。
――その日の夕方までは。
練習終了後。
さおりとこなつは制服に着替え、学校を出た。
二人が向かったのは、二年生投手・玉木の家だった。
先日の保護者会。
涙ながらに相談してきた玉木の母。
父親は会社経営者。
将来は息子に会社を継がせたい。
そのため野球部を辞めさせ、一流大学への進学に専念させようとしていた。
そして玉木本人は、
「この夏だけは、仲間と戦わせてほしい」
と願っていた。
さおりは放っておけなかった。
副主将のこなつも同じだった。
玄関先。
二人は緊張していた。
こなつが小さく聞く。
「怒られないかな。」
さおりは答える。
「たぶん怒られる。」
「でも行こう。」
呼び鈴を押した。
しばらくして、玉木の父が現れた。
事情を聞くと、表情が険しくなった。
それでも二人は頭を下げた。
さおりが話す。
「お願いがあります。」
「玉木君に、この夏だけ野球を続けさせていただけませんか。」
父親の顔色が変わる。
「君たちは何を言っているんだ。」
こなつが続ける。
「玉木君は大切な仲間なんです。」
「私たちは玉木君と――」
父親が遮った。
「では聞きます。」
二人は黙る。
「あなたたちは息子の人生に責任を負えるんですか。」
さおりの表情が止まる。
「もし野球を続けて受験に失敗したら?」
「将来、希望する仕事に就けなかったら?」
「あなたたちは責任を取れるんですか。」
こなつが口を開こうとする。
「でも――」
さおりがそっと腕を掴んだ。
止めた。
玉木の父は続ける。
「私は父親です。」
「そして会社の経営者です。」
「息子の将来に責任があります。」
「あなたたちにはない。」
何も言えなかった。
父親の考え方すべてに賛成できるわけではない。
しかし、
「責任を負えるのか」
その問いに対する答えを、二人は持っていなかった。
さおりは深く頭を下げた。
「突然押しかけて申し訳ありませんでした。」
こなつも悔しそうに頭を下げた。
二人は玉木家を後にした。
帰り道。
こなつは何度も振り返った。
「さおり。」
「うん。」
「これで良かったのかな。」
さおりも答えられなかった。
翌朝。
練習開始前。
グラウンドに玉木の姿があった。
二年生投手。
いつもよりずっと早く来ていた。
しかしユニフォームではない。
制服だった。
右手には一枚の紙。
さおりの胸に嫌な予感が走った。
こなつも足を止める。
玉木は鈴木監督の前へ歩いていく。
そして。
深く頭を下げた。
「監督。」
鈴木監督は紙を見る。
「なんだ。」
玉木の声が震える。
「野球部を辞めます。」
グラウンドが静まり返った。
八雲が顔を上げる。
「玉木?」
玉木は返事をしない。
鈴木監督が紙を受け取る。
退部届。
さおりが駆け寄った。
「待って。」
「玉木、昨日のことなら――」
玉木は首を振った。
そして、小さな声で言った。
「昨日。」
「父さんが怒りました。」
さおりとこなつの顔色が変わる。
「先輩たちが来たことを知って。」
少し間が空いた。
「母さんと俺に……手を上げました。」
こなつが息を呑む。
さおりは言葉を失った。
「だから。」
玉木は無理に笑おうとした。
「もういいんです。」
「これ以上、みんなに迷惑かけたくないから。」
八雲が歩き出そうとする。
だが松田が腕を伸ばし、止めた。
鈴木監督は玉木を見る。
長い沈黙。
そして。
退部届を受け取った。
「分かった。」
さおりが振り向く。
「監督!」
こなつも叫ぶ。
「なんで!」
鈴木監督は二人を見ない。
「受理する。」
玉木は深く頭を下げた。
「ありがとうございました。」
そして。
グラウンドへ一礼した。
背を向ける。
一歩。
また一歩。
誰も止められなかった。
さおりは拳を握っている。
こなつの目には涙が溜まっていた。
昨夜。
自分たちが玉木の家へ行かなければ。
そう思わずにはいられない。
「私たちのせいだ……。」
こなつが呟く。
さおりは何も答えられなかった。
鈴木監督は、玉木が去っていった校門を黙って見つめていた。
その手には、
一枚の退部届。
夏の県大会まで、あとわずか。
完成しつつあったはずの島大松江高校に、
突然、大きな穴が開いた。
そして。
誰もまだ知らなかった。
この退部届が、
玉木と父親の運命を大きく変えることになることを。




