第一章 #7『喧騒と甘味の宮廷劇』
朝。
雲海を割るように朝日が昇り、白い光が部屋の中へ注ぎ込む。
差し込む明かりに目を開けると、視界いっぱいにリオの寝顔があった。
(ち、近っ……!)
鼻先が触れそうなほど近い。
規則正しい微かな寝息が、直接肌を撫でてくる。
無防備すぎる寝顔に、心臓が不規則に跳ねた。
(なんでこんなに近いんだよ……俺、昨夜は何もしてねぇよな? 下着も、大丈夫だよな?)
しかもリオの胸元が少しはだけていて、白い肌がちらりと見えた。
慌てて顔を背ける。
どこに目をやればいいのか困り、とりあえず天井の一点を凝視した。
「……ん……あれ? クラト、もう起きてたの?」
寝ぼけ眼でリオが身じろぐ。
「あ、ああ! お、おはよ!」
声が情けないほど上ずってしまった。
「顔赤いよ? 熱でもあるの?」
リオが無防備に額へ手を伸ばそうとする。
「な、なんでもねぇ!」
反射的に大きく顔を引く。
リオは不思議そうに首をかしげたが、すぐにふにゃっと笑った。
「じゃあ、朝ごはん食べよ! 今日から下半身のトレーニングがあるってセリカさんが言ってたし、頑張んなきゃね!」
呆然としたまま、クラトはリオに引っ張られるようにベッドを抜け出した。
◇
王城の朝は容赦なく早い。
広い食堂の高い天井に光が満ち、ステンドグラスの色彩が床に鮮やかに映る。
少し寝ぼけたまま椅子に座る際、うっかり右腕をぶつけて顔を歪めた。
「……なんでこんな早ぇんだよ……」
ぼそりと呟く。
目の前の朝食は、まるで宴のようだ。
焼きたてのパンやソーセージの香りが鼻をくすぐる。
ガラス鉢に浮かぶ果物たちは、朝の光を受けて煌めき、目を奪った。
「これ……全部、俺の朝飯かよ……」
「クラト殿には精力を付けてもらわないと、姫様が困りますので」
「ほら、口開けて! 冷めちゃうよ!」
リオがニコニコしながらフォークを突き出してくる。
その手には、湯気を立てるふっくらとしたオムレツがのっていた。
「俺はこんな洒落たもん、別に――」
「はい! あーん!」
「……やめろっての!」
赤面しながらも抵抗しきれず、結局フォークを受け入れる。
口に入れた瞬間、ふわっとバターの香りと濃厚な旨みが広がった。
あまりの美味しさに、思わず目を見開く。
「……うまい」
「でしょー! 姫様のお城のご飯なんだから!」
リオはパンをかじりながら、きょろきょろとあたりを見回す。
目がきらきらしてて、まるで遠足に来た子供のようだ。
「ねぇ、クラト。昨日から思ってたけど、王城ってやっぱすごいね! 食器もキラキラだし!」
「お前、完全に観光客だな……」
呆れ顔で呟いた。
重厚な扉がゆっくりと開いた。
「おはよう、ふたりとも」
金糸の髪が朝の光を受けて輝き、アリアが優雅に現れる。
茜色の瞳は、朝日に照らされて一層深く、気品に満ちていた。
「姫様! おはようございます!」
リオが元気いっぱいに挨拶する。
「ふふ、おはよう、リオ。クラトも」
「……おう」
そっけなく答えたが、アリアは気にする様子もなく微笑んだ。
「ちゃんと食べてる?」
「食ってるよ……量が多すぎるんだよ、ここの飯は」
満腹感を訴えるように、腹をさすった。
アリアがくすりと笑う。
「残すなんてもったいないわよ。リオ、手伝ってあげて」
「はーい!」
アリアの言葉に、リオはさらに勢いよくフォークを手に皿へ向かう。
「おい、待て! 手伝うって何を――」
抗議の声は、リオには届かない。
「はい、ソーセージ! あーん」
「もう無理だって!」
「ダメ! しっかり食べないと回復しないよ!」
必死に抵抗するが、リオは容赦なく次々に料理を押し込む。
「姫様、クラト殿はまだ余裕あるようです」
セリカがアリアに報告する。
「ふふ、頼もしいわね、クラト」
「姫様まで乗っかるなぁぁ!」
悲鳴に近い叫びが、食堂に響き渡った。
朝食の騒ぎが収まる頃には、腹は限界まで膨らんだ。
◇
その後は、軽装に着替えさせられたうえでトレーニングが行われた。
動きやすいとはいえ、腹回りがひどく苦しい。
(……出そう……っぷ……)
セリカに案内され、ふらつきながらも厚いマットの上に立つ。
胃の圧迫感と腕の重みで、猫背になっていた。
周囲には医師や看護師たちがずらりと並んでいる。
背後ではリオが腕を組み、わずかに腰をかがめて待機していた。
「……俺、なんでこんなに囲まれてんだよ……」
居心地悪そうに呟く。
「ほら、背中丸めないの! まっすぐ立つ!」
リオが後ろから腰を押さえる。
「う、うぅ……お前が無理やり食わせたんだろ……」
恨めしそうにリオを睨む。
ふと、背にふわりとした柔らかい感触が当たった。
リオが姿勢を正すために、背中にぴったりと寄り添ってきたのだ。
(う、うおぉお……!)
服越しでも伝わる体温に、顔が一気に熱くなる。
ギプスの縁が脇に食い込んで、息が詰まった。
「深呼吸! 息止めちゃだめだよ!」
リオが明るい声で促す。
「む、無理だっつーの!」
リオが正面に回り込み、膝を曲げ、腰を落とす。
「いい? 次はこうやって、お尻を突き出して――」
「ちょ、近い、近いって!」
リオの顔が間近に迫り、慌てて後ずさりする。
その瞬間、彼女の胸元がひらりと開きかける。
(気づけって! おまえ、いろいろと危ねぇんだよ!)
リオは真剣な表情で説明を続ける。
「ちゃんと見てってば! 次はこうやって太ももを――」
(どこを見ろってんだよ!)
「ね、これでバッチリでしょ?」
リオはにこりと微笑んだ。
(そんな顔で言わないでくれっ……!)
見学している医師たちが熱心にメモを取り始めた。
こんな醜態を大勢に晒していると思うと、穴があったら入りたくなる。
「あんた達は一体何を真面目に書いてんだよっ……!」
「ねぇ、なんで始める前よりも猫背になってるの? やる気ある?」
「うっさい!」
背後から鈴を転がすような声が響いた。
「ふふっ……ふたりとも、ご苦労さま」
紅いドレスのアリアが現れ、茜色の瞳が柔らかな光を帯びる。
「姫様!」
医師たちは一斉に頭を下げた。
アリアはそっと片手をあげ、彼らの頭を上げさせた。
「ご苦労さま」
そう微笑むと、部屋に光が満ちたようだ。
アリアは歩み寄り、クラトの両肩にそっと手を乗せた。
そのまま耳元へ顔を寄せ、甘い香りを漂わせながら囁く。
「ねえ、どうしてこんなに囲まれてるのか知りたい?」
「そりゃ知りてぇに決まってんだろ……!」
「あなたは今、この国の“宝”ですもの」
一拍置いて、耳元に吐息が触れた。
「……私にとっても」
(や、やめろ……耳に息が……!)
あまりにも甘い感触。
しかしクラトは、その吐息の裏にある微かな震えと、すがるような指先の冷たさを直感した。
この城のどこかに裏切り者がいる。
誰も信じられない孤独な檻の中で、彼女は本当に、自分の意志で命を張ったクラトだけを拠り所にしている。
(あの姫様がいつまた狙われるか分からないってのに……俺はこんなとこで、何やってんだ……!)
背中の奥まで痺れるような甘さと、胸を締め付ける重さに、魂がちぐはぐに揺れる。
(反則だろ、こんなの……)
クラトの硬直を楽しむようにくすりと笑い、アリアは顔を上げた。
リオはそんな二人を、胸元でぎゅっと拳を握りしめながら、複雑な眼差しで見つめていた。
「クラトの経過観察、引き続きよろしくお願いします」
アリアが医師たちに向かって告げる。
「は、はっ!」
医師たちは敬礼し、再びメモを取り始めた。
(……頼むから、早く終わってくれ……!)
◇
リハビリを終え、一息ついた午後。
王城の訓練場の一角。
陽射しが差し込み、石畳の床を白く照らしていた。
壁際のベンチに腰掛け、腹をさすりながら息を吐く。吊ったギプスが重くて肩がずきずきする。
「ったく……こんなの毎日やってたら肩が壊れるわ……」
木製の器具がきしみ、遠くで兵士たちが剣を交える音が聞こえる。
その騒がしさの中に、ひときわ柔らかな気配が近づいてくる。
「お疲れさま、クラト。腕、痛む?」
訓練視察を終えたアリアが白いハンカチを手に近づく。
「いや……まあ、だいぶ慣れた。けど、ギプスが邪魔でいろいろやりにくくてさ……王家の秘術とかでパッと終わったりしねえか?」
「絵本の中の魔法があったら良かったのだけどね」
アリアは手で口元を隠し、くすっと笑った。
「それに、仮に体が治っても、それだけじゃ王城の中ではやっていけないわ」
「……なんだよ、それ」
「王城ではね、ただ動ければいいわけじゃないの。立ち居振る舞いも、言葉遣いも、全部見られているのよ。私の護衛騎士ともなれば、特にね」
アリアはクラトの肩にそっと手を置いた。
「へ?」
「さ、行きましょう。次は礼儀作法のお勉強よ」
「う、嘘だろ……!?」
のけぞり、椅子から転げ落ちそうになる。
アリアは肩に添えた手を、ためらうことなく背中へ回した。
その穏やかな圧と同時に、セリカが椅子を引く。
優雅な所作に導かれるように、身体は無理なく立ち上がっていた。
「騒がないの。見苦しいわよ」
涼しい顔で言いながら、アリアは背を押して歩き出す。
「えっ、ちょ、えええっ!?」
情けない叫びが、訓練場に響き渡った。
◇
王城の一室。
高天井に透かし彫りの梁。
至る所に金が施され、陽を受けて煌めいていた。
重厚な机には分厚い書物が積まれ、紙とインクの香りが漂う。
「……なんで俺が、こんな目に……」
座り心地は良いのに、妙に背筋が伸びる椅子に座らされていた。
目の前には厳格そうな中年の女性――
王城の侍女長が仁王立ちしている。
その隙のない構え、そして袖口からチラリとのぞく古い刃傷。
ただの教育係ではない。
かつて王城近衛の修羅場をくぐり抜けてきた“本物の戦士”の気配を察知し、クラトは貴族の綺麗事と侮っていた心を改め、思わず背筋を硬直させた。
「クラト様、“紋章礼”はそうではありません。まずは右手を胸の前に。左手をその上に添えて――肘は締めすぎず、背筋をまっすぐに、目線はやや下方へ」
「無理に決まってんだろが!」
痛みに耐えられず叫ぶと、侍女長は微動だにせず鋭い眼光を向けた。
「ギプスだからといって、甘えは許されません。式典では、怪我も含めて身だしなみの一部と見なされます。できる範囲で美しく。それが王城の流儀です」
「“できる範囲”にギプスが入るかよ……!」
不自然に体を揺らし、頭を椅子の背に預けてうなだれる。
向かいに座る姫が、くすくすと笑っている。
「礼儀は大事よ。護衛騎士になれば、周囲から注目されるもの」
「だから、護衛騎士になるつもりねぇって言ってんだろ……!」
苛立ちまじりに言うと、アリアはわざとらしくしょんぼりしてみせた。
「……私のこと、守ってくれないの?」
「うっ……」
言葉に詰むと、すかさずリオが追い打ちする。
「ほら! 姫様が悲しそうじゃん! クラトちゃんとやんなって!」
「お前までそっち側かよ!?」
「だってさ、クラトが城でアタフタしてるのを見てると、なんかこっちが恥ずかしくなるんだもん」
リオはあっけらかんと言い放つ。
アリアが声を上げて笑い出した。
「クラトは私を助けてくれた英雄だもの。王城の中でも胸を張ってほしいわ」
「英雄とかって呼ぶもやめろっての……!」
深々と天井を見上げる。
広がる天井画の天使たちが、苦境を嘲笑っているかのようだった。
(……これ、どこで引き返せばよかったんだ……)
束の間の沈黙を破るように、カツッと侍女長の靴音が床を打った。
アリアとリオは笑いを噛み殺していた。
だが、侍女長の鋭い視線が走ると、二人の顔から即座に笑みが消えた。
「これは王城騎士としての見せかけではありません。地上の崩落した足場を駆け上がり、体幹を保つための実戦的な基礎訓練でもあります。ここで気を抜けば、摩天楼はあなたを裏切るでしょう」
その言葉の重みに、クラトは息を呑む。
やはりこの人は、叩き屋の戦い方を知っている。
「――では、気を取り直してもう一度。“紋章礼”の復習に入ります。……クラト様、よろしいですね?」
「よろしくねぇ……!」
腕の重みと首の痛みに呻くように声を絞り出す。
その隣で、アリアとリオが再び笑いを噛み殺している。
「肘の角度を二度ほど内側へ。背筋を伸ばして、そう……それで“やる気”を見せていただければ完璧ですわ」
――やる気になるわけねぇんだよ!
……と、言うわけにもいかず、クラトは無言のまま、深いため息をついてギプスを見つめた。
(……やっぱ、城ってのは向いてねぇ……)




