第一章 #3『その名を呼ぶ声』
クラトの目に飛び込んできたのは、磨き上げられた白い石の廊下だ。
高い天井には無数のシャンデリアが煌めき、壁を彩る金縁の旗が連なる。
その中央には空中戦艦都市ルミゼルディアの紋章が輝いていた。
両腕を気にしながら、落ち着かない様子で周囲を見回す。
香油と花の香りが鼻をくすぐり、まばゆい装飾に圧倒される。
「なんだここ……別世界か?」
「よそ見しないで。転ぶよ」
歩くたびに靴の音が響き、ギプスの紐がじりじりと鎖骨に食い込む。
「なぁリオ、やっぱ帰らねぇ?」
「帰らないよ」
「……今なら、まだ帰れるだろ?」
「無理」
即答されて、観念したように肩を落とす。
侍従に導かれ、大理石の廊下を何度も曲がった。
やがて女神のレリーフが刻まれた巨大な扉の前で、足を止める。
「クラト・ガルダ殿、リオ・カナリス殿。姫様がお待ちです。こちらへ」
扉脇に控えていた侍従が一礼し、重厚な扉が開かれる。
そこに立つのは、鮮やかな紅いドレスを纏った若い女性だ。
陽光を宿した金色の髪は編み込みとリボンで飾られ、銀のティアラがきらめく。
静かな茜色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
背後の大窓から午後の陽光が差し込み、彼女の輪郭を金色に縁取る。
空気に漂う微細な塵さえ、宝石のように輝いて見えた。
「私はアリア・フィリス・ルミゼルディア。このルミゼルディアの姫よ」
アリアは優雅にドレスの裾をつまみ、ふわりと一礼して見せた。
「会えて本当に嬉しいわ、クラト。どうしてもあなたに会いたくて、無理をさせてごめんなさい」
彼女はまっすぐにクラトの目を見つめ、両手を胸の前でそっと組む。
「昨日のあの勇姿が、脳裏に焼きついて離れなくて……来てくれて、本当にありがとう」
背筋をまっすぐ伸ばし、屈託のない笑みを浮かべながら告げた。
近づくと、華奢な肩から豊かな胸元へ流れる曲線に、大粒の紅玉が息遣いに合わせて静かに煌めくのが見えた。
「……本当はベッドで寝てたかったけどな」
ぶっきらぼうな返答に、アリアはふふっと微笑む。
「リオ、あなたにも会えて良かった。彼をここまで連れてきてくれて感謝してるわ」
「それに、あのギアを作ったのも、あなたなのでしょう?」
「そうです。知ってくださってたんですね」
「ええ、あなたのことは彼については、すこし調べさせてもらった時に知ったわ」
「もちろん、良い意味で、ね」
そう言うとリオに向かって、右目でウィンクをする。
「……それで、俺に話したいことって何なんだよ」
「あなたに今夜の晩餐会に出席してほしい」
「……俺、今この状態なんだけど」
両腕をわざと揺らして見せる。
「構わないわ。あなたの勇気を、この都市の人々に伝えたいの」
「勝ってねぇし、ギアは壊れるし、腕はこんなのだしで結果はボロだけどな」
その抵抗にもアリアの表情は揺るがない。
「それでも。誰よりも先に動いたのは、あなたよ」
「あれはたまたま俺がそこにいただけだ」
「そのたまたま命を張って動ける人が、どれほど希少か。あなたはその大切なひとりよ」
アリアはゆっくりと振り返り、真剣な瞳でクラトを見据える。
「あなたがこれからのルミゼルディア、そして私に必要な人材だと感じているの」
「買いかぶりすぎだ。そんな立派じゃねぇよ。俺は」
王族の放つ圧倒的な威圧感と、これ以上不敬を重ねたらクラトの立場が悪くなるという焦りから、黙っていたリオがたまらず口を開いた。
「クラト、姫様もこう言ってくれてるんだし、晩餐会に行くくらいはさ、ね? それに、滅多に食べられない豪華な料理もあるし! ……たぶん」
「……どうせ、断れねぇんだろ」
大きくため息をついて肩を落とす。
アリアが肯定するように優しく微笑んだ。
◇
夜。
クラトは晩餐会の会場の前に立っている。
扉の向こうから、軍楽隊の演奏と大勢の話し声が混ざり合う。
華やかな空気が、すき間から僅かに漏れてくる。
「……本当に行くのかよ」
「行くの! 姫様に失礼のないように、ちゃんと背筋伸ばして!」
リオがぴしりと背を押し起こす。
「痛ぇっ! 俺、折れてんだぞ!」
「文句はあとでまとめて聞くから! ほら、行くよ!」
侍従が一礼する。
「では、開門いたします」
重厚な扉が軋むように開き、王城最大の大広間が姿を現す。
シャンデリアの光が白亜の柱を照らし、天井まで伸びる。
壁には整然と金飾りが並び、真紅の絨毯が一直線に敷かれていた。
その上には、晩餐テーブルが果てしなく延びている。
煌びやかなドレスを纏った貴族たち。
正装の軍人たち。
談笑と品位に揺れる空気。
本当に別世界だ。
「俺みたいなのが来る場所じゃねぇよ……」
ふと顔を上げると、壇上の姫がこちらを微笑みながら見ていた。
視線が合った気がして、慌ててそらす。
それが合図だったかのように、アリアが立ち上がった。
ティアラが光を反射し、場内の空気が吸い込まれるように静まる。
「皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます。アリア・フィリス・ルミゼルディアです」
アリアは凛とした声で、広間全体に語りかける。
「今宵の晩餐会は、地上に挑む戦士たちへの感謝と敬意を伝える場として設けられました。空を安らぎの居場所にできるのは、地を命懸けで支えてくれる方々がいるからこそです」
「……十三年前。かつて地上奪還の要であった防衛要塞が、たった一夜で神格種に飲み込まれました」
アリアは伏し目がちに語り、痛ましい過去を思い起こすように言葉を紡ぐ。
「多くの命が失われ、私たちは再び空へと逃げ帰るしかなかった。今のルミゼルディアは、あの時の恐怖に蓋をして、偽りの平和を享受しているに過ぎません」
「あの悲劇を二度と繰り返さないために、そして私たちを護るために戦ってくれる者たちへ、目を向けなければならないのです」
アリアは一礼し、ひとりひとりを確認するように場内を見渡す。
短い静寂の中、拍手の音にグラスが触れ合う響きが重なる。
やがて、彼女の視線が、ひとつの点に留まった。
「そして今宵は、特に大きな勇気を示した人物を皆さまへご紹介します」
その目はまっすぐクラトを捉えていた。
「クラト・ガルダ。こちらへ来ていただけますか」
場が静まり、無数の視線が一斉にクラトへと注がれる。
「はやく行く! 胸張って! 姫様が見てるんだから!」
隣のリオが、外腿を手の甲で強く叩いた。
「勘弁してくれよ……」
足元の絨毯を睨む。
周囲から無数の目が突き刺さるようだった。
「彼が……」「モグラ叩き屋の……」「……地上の泥の匂いがするわ」
あからさまに軽蔑している貴族。
「本当に両腕が……?」「まるで、見せしめみたいじゃないか」
憐れむような目で見てくる者。
好奇心と侮り、そしてどこか冷笑めいた空気が皮膚を這っていく。
見上げれば、この王城を、そして煌びやかなシャンデリアを輝かせているのは、俺たち叩き屋が命懸けで地上から持ち帰った動力核だ。
その光の下で、何も知らずに笑って飯を食う連中に見下されている。
忘れていたはずの痛みが蘇った。
吊られた両腕が、まるで晒しもののように思える。
(……見世物じゃねぇぞ……)
顔をしかめつつ、一歩ずつ前へ進む。
壇上の前で立ち止まり、アリアは静かに観衆の視線を受け止めた。
「私は昨日、地上の現状を知るべく飛行船で視察に赴きました。しばらくは異常はなく、ただ、叩き屋として獲物を落としてゆく彼の姿が、点のように見えているだけでした」
「視察を終え、引き返そうとした瞬間です。前触れなく、世界の理に亀裂が走ったかのように神格種が現れ、待ち構えていたかのように、青白く燐光する顎を私の乗る船へと向けたのです」
語られるひとつひとつの言葉に場内の空気が徐々に引き締まっていく。
聴衆は息を潜め、音楽の余韻が遠ざかった。
「彼は迷いなく踏み込み、神格種へ立ち向かったのです」
壇上の光が長く床に影を伸ばす。
数人の貴族がざわめきを押し殺し、軍人たちは鋭く目を細めた。
「誰からの命令も指示もなく、誰にも咎められないはずのあの場で」
「両腕を折られながらも放った彼の一撃は、神格種のブレスの軌を逸らし、船を守り、私たちの命を繋ぎました」
彼女は言葉に熱を込め、壇上から一歩前へ踏み出す。
「その英雄の名は、クラト・ガルダ」
「迷いも誇りも打算もなく、ただ動いたという事実が、私の目に、そして心に憧憬として焼きつき、離しません」
「……ちょ、待ってって。英雄とか、マジで勘弁してくれ……」
かすれた声で、短くぼやいた。
小声の反論は誰にも届かず、壇上の光がその肩に重く降りかかる。
顔には、逃げ場のない緊張が張り付いていた。
彼女はひと呼吸置き、凛とした視線を広間全体へと巡らせた。
「もちろん、命じられた任務を全うする者への敬意は揺るぎません。しかし私は、誰に命じられずとも動いた者。恐れと孤独の先に、一歩を踏み出した者。その勇気にも、敬意を示したいのです」
場内の空気が静まり返る。グラスを持つ手が止まり、誰もが姫の次の言葉を待っていた。
「クラト・ガルダ。あなたに正式にお願いがあります」
(何か変なことを言い出すんじゃ……)
予感に反して、アリアの瞳には冗談めいた色はなかった。
そして、彼女はまっすぐ瞳を見つめ、言葉を繋ぐ。
「私の護衛騎士になってほしいのです」
場内が、一瞬息を呑んだように静まり返る。
クラトは目を見開き、顔を引きつらせた。
「はぁ!? 俺がか!? ただのモグラ叩き屋だぞ! 護衛なんか無理に決まってんだろ!」
「姫様! クラトはまだ両腕が折れてるんですよ!」
壇下のリオの声が響く。
胸元で手を組み、その白い指先は固く結ばれていた。
次は絶対に壊させない。そう誓ったばかりだ。
護衛騎士なんてなれば、また危険な矢面に立たされる。
それも、あたしの手が届かない遠くへ行ってしまう。
言葉にならない焦りが、強く胸を締めつける。
アリアはやさしく頷く。
「分かっています。それでも、あなたを私のそばに置きたいのです」
そして一歩、クラトへ近づき耳元で声を潜める。
「昨日のあの光、神格種のブレスが、市街からも見えたと報告があったわ」
「そのせいで、市民の間に動揺が広がっているの。……あなたのような、自分の信念で動ける真の強さが、この国、なによりも私には必要なの」
その切実な色を浮かべる瞳と声は揺るがない。
クラトは眉間にしわを寄せ、不自由な腕をかばいながら上体を丸める。
昨日感じた神格種の熱風が、一瞬だけ皮膚の奥で蘇った。
「勘弁してくれ。俺はただ、モグラを叩いて日銭を稼いできただけなんだ……」
固定された腕が、妙に重く感じた。
逃げることも、拒むこともできない自分を、皮肉のように突きつけてくる。
「英雄なんて呼ばれたら、周りからもいろいろ言われるし、地上での狩りもやりづらくなるだろうし……」
「第一、俺、そんな立派なもんじゃねぇんだよ……」
声は低く、抑え込んだ怒りと諦めが混ざり合う。
誰にも届かないように、ただ自分の中で燻っていた。
アリアはじっと顔を見つめたあと、ふっと微笑む。
そして、ためらうことなく耳元へと唇を寄せた。
ほのかに漂う香油の香りが鼻先をくすぐる。
「考えておいて。今は、それだけでいいから……」
会場に、先ほどとは違う――明確な敵意や戸惑いを含んだざわめきが波のように広がった。
王族である姫が、どこの馬の骨とも知れない泥臭い少年に、人前で親しげに顔を寄せたのだ。
アリアは顔を離すと、そんな空気を意に介さず、再び広間へ向き直る。
「彼と地上で戦う人々の勇気を讃え、皆さまとの絆を深めるひとときとなりますよう――どうぞ、美酒と共に誇りある夜をお過ごしください」
大広間に拍手と歓声が広がり、楽団が華やかな旋律を奏で始める。
グラスが触れ合う音が重なり、宴の熱気が再び広間を満たしていく。
拍手の音が遠くに感じた。
誰のために、何のために、ここに立っているのか。
答えは見つからず、分からないままだ。
◇
リオはクラトの背中を見つめていた。
手の届かない場所へ行ってしまうような気がして、胸が苦しい。
あたしだけが、そばにいたいのに。




