第一章 #2『傷痕と招待状』
意識の底に、じんわりと光が滲む。
重たい瞼がゆっくりと持ち上がり、ぼんやりと光景が広がった。
それは叩き屋になってから、嫌というほど目にしてきた天井だ。
微かに響く機械の駆動音と、鼻をつく消毒液の匂い――。
「……病室、か……」
乾いた喉から漏れる声は掠れている。
首だけをわずかに動かすと、両腕は分厚いギプスと包帯に覆われ、首から無骨に吊り下げられていた。
「うっ……」
体を起こそうとして、すぐに止めた。
右腕が鉄塊のように重く、寝返り一つ打つのにも背中から脂汗が滲む。
左腕の添え木を庇いながら、どうにかシーツを掴む。
それだけで指先に走る電撃のような痛みに、奥歯を噛み締めた。
「……マジでやっちまったな」
コトリ、と小さな音。
ベッド脇のテーブルにカップが置かれ、ほのかなコーヒーの香りが漂う。
「クラト、起きたんだね」
声の主はリオだ。
覗き込むその顔は瞼が赤く腫れ、泣き腫らした跡と徹夜の疲れが色濃く刻まれている。着ている服には、ギアの冷却水か何かの黒い油シミがいくつも飛んでいた。
「……お前、ずっと付き添ってたのか?」
「当たり前でしょ。クラトが倒れて、それで……」
言いかけた言葉を飲み込み、顔を伏せる。
「悪い」
「『悪い』じゃないよ……」
小さく息を吐き、カップの隣に置かれた皿とスプーンを手に取る。
「はい、口開けて。スープ、まだ温かいよ」
「自分で食える」
「その震えてる左手で?」
反論できなかった。
クラトは胸元を忌々しげに見下ろす。
重たい包帯がわずかに揺れるたび、奥歯を噛みしめる。
「……これじゃあ、ハンマーも握れねぇ……」
嘆きをよそに、リオはベッドの縁に身を乗り出した。
そのままクラトの耳元まで顔を寄せ、吐息が触れる距離で囁く。
「いいじゃん。あたしがずっとお世話してあげるね」
「やめろ……耳元で言うな。恥ずかしいだろ」
顔を赤らめてそっぽを向く。
リオが嬉しそうに笑う。
「クラトの顔、赤くなってるよ」
「そりゃあ、お前……」
言葉を飲み込む。
「ふふっ。いいから、ほら、あーん」
「……うまい」
「なら、黙ってお世話されてなさい」
「情けねぇ……」
スプーンが口元に運ばれ、クラトは素直に口を開けた。
ゆっくりと、時が流れていく。
スープの湯気がふたりの間に立ちのぼる。
この怪我の功名とも言うべき温かさが、かけがえのないものに感じられた。
コンコン。
病室の静けさを破る、硬く控えめなノック音。
「失礼します。クラト・ガルダ殿。姫様からのお手紙を、急ぎお届けに参りました」
「げ……」
胸に嫌な予感が走る。
入ってきた王城の兵士は、泥臭い叩き屋が寝ている病室には不釣り合いなほど立派な鎧を着ていた。
彼は機械油と消毒液が混ざった空気を嫌うように微かに鼻先を歪めると、赤い蝋で封じられた一通の書簡を、指先だけでつまむようにして差し出した。
「ありがとうございます」
リオが受け取り、すぐに開こうとする。
兵士は無言で一礼し、足早に病室を後にした。
「……開けんなよ」
制止するが、リオは聞く耳を持たない。
「姫様からのお手紙なんだから、開けるに決まってるでしょ」
パチン。
赤い封蝋が割れる音が妙に大きく響く。
「えっーと……」
中からぴらりと一枚の便箋を取り出す。
ちらとクラトに目をやり、小さく咳払い。
姿勢を正し、わずかに顎を上げる。
まるで“物語のお姫様”ような、気取った口調で読み上げた。
『クラト・ガルダ殿。
突然のご連絡をお許しください。
神格種の襲撃より私をお救いくださり、心より感謝申し上げます。
その際、お怪我をされたと伺い、胸が痛めております。
ささやかながら痛みを和らげる薬をご用意いたしました。
つきましては、本日、王城へお越しいただけないでしょうか。
あの時、あなたが見せてくださった勇気がどれほど私の支えとなったか――
ご負担とは存じますが、その思いをどうか、直接お伝えさせてください。
勝手なお願いではございますが、お会いできますことを心よりお待ちしております。
アリア・フィリス・ルミゼルディア』
「……なんでそんな読み方してんだよ」
「え? だって、お姫様っぽく読まないと雰囲気出ないでしょ」
「雰囲気って、お前な……」
天井を仰ぐ。
あの飛行船にいたのは、やはり姫だと納得する。
「つーか今、両腕吊ってんのに……」
「王族からのお呼びだもん。簡単には断れないよ」
「はあ……もうちょっと寝てぇんだけどな……」
全身の疲労に顔を歪ませながら、足をベッドから外に向ける。
ベッドから降りるだけで、ひと仕事だ。
腕で支えを作れないため、クラトの体がグラリと前に傾く。
「っと、危な……!」
すかさずリオが滑り込み、自身の細い肩でクラトの胸元を受け止めた。
「……わりぃ。腕の重さで重心が狂ってやがる」
「もう、ほんとにあたしがいないとダメなんだから」
呆れたようにため息をつきながらも、リオの腕はしっかりとクラトの背中を支えている。彼女の髪から微かに香る機械油の匂いが、鼻先をかすめた。
リオは器用な手つきで、ギプスの上からクラトに上着をふわりと羽織らせる。
だが、ふとその手が止まった。
彼女の視線が、テーブルに残された赤い封蝋の便箋へと向く。
「……ねえ、クラト」
「あ?」
「王族が、ただのお礼と薬を渡すためだけに、わざわざ城の奥まで怪我人を呼びつけると思う?」
「……」
底冷えのするようなリオの問いかけに、クラトの背筋に冷たいいやな汗が伝う。
ただの感謝状ではない。
この招待には、間違いなく『裏』がある。
「……めんどくせぇ」
「せいぜい、首を刎ねられないように気をつけなよ」
リオは悪戯っぽく笑うと、クラトの背中をポンと叩いた。
***
午後。
昼下がりの眠気が体をゆるく包み込む時間帯。
クラトはリオに背を押されながら、王城へと足を向けていた。
「ふぁぁ〜……あ……痛ぇ」
一歩踏み出すごとに、首から吊った両腕の骨がズキリと脈打つ。
鎧のように重たい包帯が、じわと体力を奪っていくのがわかった。
「頼むから、今日は静かに終わってくれ……」
「あの手紙の感じだと、姫様、クラトのことすっごく気にしてるし、何かあるんだと思うよ」
「勘弁してくれ……」
そんなぼやきをこぼしながら、気づけばふたりは王城の門へと辿り着いていた。
見上げるほど巨大で、白亜に輝く門扉。自分たちの泥臭さが嫌でも浮き彫りになる。
城門の兵士が無言で手を差し出す。
リオが懐から書簡を取り出し、兵士の手にそっと渡す。
男は封を確認し、短く頷いた。
「通れ」
「ありがとうございます。……行くよ、クラト」
「なんでこんなことになってんだよ……」
「文句言わないの!」
深いため息を吐き、門をくぐる。
門が重たく閉じられ、その音が遠ざかる。
クラトは深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。




