第二章 #2『届く笑声』
市場の喧騒を抜け、三人は裏通りへと足を踏み入れた。
低い建物が並び、華やかな表通りとは一転、石畳は泥で黒ずんでいる。
一歩踏むごとに、靴裏に微かな粘りが伝わった。
外壁や道に染み付いた煙草と油の匂いが、咽せるように漂っている。
「こっから先が……ギルドだ」
クラトが先頭で、年季の入ったドアを押し開ける。
――ギィ。
むせ返るほどの熱気が中から流れ出す。
酒、焼けた肉、機械油、金属の焦げ。
ジョッキがぶつかる乾いた音と、椅子を引く軋みが混じっていた。
「うわっ……」
リオが顔をしかめる。
アリアも一瞬たじろぐが、すぐに目を輝かせて周囲を見渡す。
飾り気のない木椅子、油染みの床、荒く笑う男たち。
「これが……ギルド、なのね」
興味深げに呟く。
「まぁ、いつもこんな感じだな」
クラトが両肩を小さく上げた瞬間――
「おぉーい!! クラトじゃねぇか!!」
奥のテーブルから豪快な声が響き渡る。
ギルド内の視線が一斉に集まった。
「マジでクラトだ! 王城勤めの英雄様が、ご来店だってよ!」
「しかも両手に女の子連れてよ! ヒューヒュー!」
「ちげぇよっ!!」
全力で否定するが、場内はどっと笑いの渦に包まれた。
「英雄様が来たってこたぁ、今日は宴だな!」
「クラトの快気祝いだ!」
「まだ治ってねぇっつの!!」
癖のように右腕を振りかけ、顔を引きつらせる。
「はいはい! アンタら、姫様がいるんだから少しは大人しくしなってば!」
リオが腰に手を当てて制する。
「そこのスゲェ美人なネェちゃん、姫様なんか?」
声の大きい男が目をむく。
アリアはいたずらっぽく笑い、ケープの端をつまんでわずかにずらした。
紅いドレスの胸元には、王家の紋章がきらりと光る。
「本物の姫様だよ。見りゃわかんだろ?」
水を打ったように、場が静まり返る。
――次の瞬間。
「ひ、姫さまぁーーー!!」
ギルド員たちは椅子を蹴倒し、土下座する勢いで床に額を擦りつけた。
「やめろ! 頭下げるな! 地面汚ぇから!!」
「大人しく座ってろってば!!」
クラトとリオが同時に叫ぶ。
「……で、姫様はふたりのこと、どこまで知ってんだい?」
騒ぎが落ち着いた頃、奥で黙っていた髭面の男が、腕を組んでニヤついた。
「彼らのことを、まだ全部は知らないのよ。だから、もっと知りたくて……今日、こうして連れてきてもらったの」
アリアが微笑むと、叩き屋たちは一斉にニヤリと悪戯っぽく笑い合った。
「じゃあ全部話してやるか!」
「やめろ! マジでやめろ!!」
クラトが顔を真っ青にして叫ぶ。
「英雄クラトはなぁ、命知らず中の命知らずで、無茶しぃの代表だ!」
「ハンマーぶっ放して、地面が五メートル凹んだこともあるんだぜ!」
「しかも、叩いた本人もよく怪我すんだよな!」
「オレが初めてこいつを見たときゃ、生意気なヒョロガキで……」
次々と暴露話が飛び出し、クラトは冷や汗をかく。
「おい! 余計なこと言うな!!」
「しかもギアを作ってるのがリオだから、尚おもしれぇ!」
「ちょっと! あれは出力が予定より高くなっただけで!」
「出力が高くなっただけで骨裂けるかぁ!?」
「ギアの冷却材で、モグラみたいに腫れたところを鼻水垂らしながら冷やしてよォ……」
「包帯代わりに自分の服を破ってたわよ」
「それで、王城までおぶって行ったんだよな」
次々に明かされるエピソードに、リオは顔を赤くしてうつむいた。
アリアの目が見開かれる。
「それは……本当なの?」
リオは小さく頷き、先ほど市場で買った「共振コイル」が入った袋を、胸元でぎゅっと握りしめた。
「だって……クラトが死ぬのは、絶対イヤだから」
男たちの野次がピタリと止まった。
ジョッキを持つ手が止まり、誰もがリオを見つめている。
「……リオ」
クラトが呆然と声を漏らす。
「な、なによ! 整備士として当然でしょ!」
リオは照れ隠しに慌てて叫ぶ。
「ほぉ〜? なーんか違う気がするけどなぁ〜」
「ひゅ〜ひゅ〜!!」
男たちが再び冷やかし、リオは真っ赤になって拳をぶん振る。
「違うったら!!」
その賑やかなやり取りを眺めていたアリアが、ふっと表情を和らげた。
「ふふっ……いいな、あなたたちは」
アリアの目が、どこか遠くを見るように柔らかくなる。
「え?」
「王族は、誰かを疑ってもいけないし、すがることも許されない。いつも完璧な笑顔でいなければならないの。だから、時々分からなくなるのよ。――誰が私を『姫』じゃなく、『アリア』として見てくれているのか」
クラトは黙ったまま、アリアを見つめる。
「私は、大事な子を失って以来、ただ私を称賛するだけの空虚な場所に疲れていたのかもしれないわ」
その言葉が、胸の奥に静かに響いた。
(今なら少しわかる。英雄として見られたくはねぇからな……)
「だから……クラトが私を助けるために飛び込んでいったのを見たとき、すごく眩しかったの」
「俺は……ただ飛び込んだだけだ」
クラトは視線を逸らして、ぶっきらぼうに答える。
「……前にも言ったわよね。『ただ』とか『たまたま』って、当たり前みたいに言えることが、私には一番難しいの。誰かを信じて飛び込む自由が……心の底から羨ましいのよ」
その柔らかな笑みに、クラトはまた黙り込む。
「きっと、それがあなたがここで慕われている理由じゃないかしら……」
ギルドの空気がすっと柔らいでいく。
男たちは、アリアの言葉に静かに耳を傾けていた。
その穏やかな空気を破るように、髭面の男がふっと声を潜めた。
「……ま、お前が慕われてるってのは認めるがな、クラト。怪我するタイミングが悪かったぜ」
「あん?」
「最近、南方の廃坑から変な振動がするって依頼が増えてんだ。今週で三件目だ。掘った跡はあるのに、モグラの痕跡が残ってねぇんだとよ」
男は周囲を警戒するように目を細めた。
「しかも、王城の上層部からの極秘案件で、俺たち叩き屋は立ち入り禁止になってる」
その言葉に、クラトの顔つきがスッと変わった。
市場で耳にした噂は、やはり本当のことだ。
リオとアリアの瞳が、すっと細くなる。クラトと視線が交差する。
城の中の不穏な動きと、南方の振動。二つの点が、嫌な形で繋がりつつあった。
◇
ギルドを出る頃には、外は夕日に染まっていた。
空の色が、まるでアリアの瞳の色を映したかのように輝きを放つ。
裏門では門番が青い顔で待っていた。
アリアは夕空を見上げながら、ケープの端をそっと握る。
「今日は……自由になれた気がする」
不穏な情報を得た緊張感はあるものの、その横顔は、さっきまでの喧騒を噛みしめているようだ。
「……そっか。ま、たまには……悪くねぇな」
クラトはうつむくように言ったあと、一度だけ空を見上げる。
リオがクラトの顔をのぞき込む。
「……ねぇ、次はさ。姫様をこっちの整備工房にも、案内してみない?」
「工房は修理中だろ? お前の試作ギアのせいで」
「クラトが『ちょっと火力足して』とか言うからだよ!」
夕空の下、三人はわい言い合いながら王城へ帰っていった。
◇
――そして夜。
「姫様! どちらへ行かれていたのですか!!」
烈火のごとく怒る侍女長の声が、城の廊下に響き渡った。
ただの大声ではない。長年戦場を渡り歩いてきた者だけが放つ、肌を刺すような本物の「殺気」が混じっていた。
「わ、私、ちょっと外の空気が吸いたくて……」
歴戦の叩き屋であるクラトですら思わず背筋を伸ばすほどのプレッシャーに当てられ、アリアは身を縮めてたどたどしく答える。
「外の空気!? お忍びで街などに出かけないようにと、何度申し上げればお分かりになるのですか!!」
「ご、ごめんなさい……」
アリアはぺこりと頭を下げる。
「クラト様! リオ様! なぜ報告しなかったのですか!」
鋭利な刃物のような視線がふたりに向けられる。
「うっ……」
「す、すみません……」
リオも素直に謝罪した。
「三人まとめて叱りますからね!!」
(モグラの群れに囲まれるより恐ろしい……)
侍女たちに囲まれてぺこぺこするアリア。
その姿は、もうただの年頃の少女そのもの。
ふたりは顔を見合わせて、同時にため息をつく。
「俺たち……なんで怒られてんだろうな」
ぼそりと呟く。
「知らないよ……」
リオは首を横に振った。
アリアはそっと頭を下げたまま、ちらりとこちらを見て、口だけを動かす。
――楽しかった。
(『楽しかった』じゃねぇよ!)
クラトの口元は意図せず、ゆるんでいた。
◇
その後、部屋に戻ったアリアは、窓辺に立っていた。
外はもう闇に染まり、遠くの空船だけが、点になって瞬いている。
彼女は窓を開け、夜風に頬を撫でさせる。
少し冷たい風に、賑わいの余韻が混ざっている。
「……今日の私には、ちゃんと笑い声が届いてた」
ぽつりとこぼした独り言は夜の帳へ、そっと沁み込んでいった。




