第二章 #1『甲板に吹く、賑わいの風』
数日後の午後。
王城の高窓から射し込む陽光が、廊下の赤絨毯を淡く照らしている。
埃一つないその空間は、外界の喧騒とは無縁のようだ。
アリアとリオとの三人で侍女長の待つ図書室へ向かっていた。
一歩先を行くアリアが、扉の前でくるりと振り返る。
「今日はもう勉強はおしまいにしましょう。三人、お忍びで街へ行くわよ!」
「はあっ!? ちょ、姫様!? それ、冗談……だよな!?」
間の抜けた声を上げてしまう。
王城の暮らしが馴染んだわけではない。
まさかこんな提案が飛び出すとは思ってもみなかった。
「城の外って、ただの散歩じゃ済まねぇぞ!? 見つかったら洒落になんねぇって!」
必死に止めようと、声を荒らげる。
「……」
アリアは不満そうに、小さく唇を尖らせた。
「毎日、礼法に地理に政治に報告書……さすがに気が詰まるわよ。少しくらい外の空気を吸っても、罰は当たらないでしょ?」
切なげな瞳で見つめられると、反論に窮した。
「だからって俺まで巻き込むなって……! いでっ」
不意に頭を抱えようとした瞬間、硬いギプスが額にゴツンと当たった。
その衝撃に体が揺れ、ジンと痛みが広がる。
「あなたも、ずっと城の中じゃ息が詰まるでしょ?」
アリアは言いながら、クラトに向けて意味深に片目をまたたかせた。
クラトは、アリアの茜色の瞳の奥に宿る、微かな鋭さに気づいた。
ただの息抜きではない。数日前の夜にセリカが落としていった情報――
兵站総監ライルの裏の動きを探るため、城の監視網を出し抜こうとしているのだ。
そんな王族としての聡明な真意が透けて見え、クラトはそれ以上言葉を続けられなくなった。
「姫様がそんな全開で出てったら、逆に目立つだろ」
「大丈夫よ。ちゃんと変装するし、護衛にはクラトがいるもの」
自信たっぷりに胸を張る。
その拍子に紅いドレスの胸元が揺れ、どこに視線をやればいいのか困り、そっと顔を背けた。
「街に行くの?」
リオが顔をぱっと輝かせ――
『これであなたもギアマイスター! 最新工具カタログ百選』
と、ギラギラした表紙の雑誌を鞄から取り出した。
「このレンチと、共鳴石の磁場に耐えられる伝導ケーブル! たしか今日が市場への入荷日なんだよね。行っていい!?」
「お前もかよ……。せめてもうちょっと、可愛いもんとか目的にしてくれよ……」
ぐったりと肩を落とす。
「あたしがリボンとかドレスに興味ないの、クラトも知ってるでしょ?」
リオは得意げに笑う。
その笑顔の裏に、ドレスの似合うアリアへの、ほんの少しの劣等感が隠されているのをクラトは察した。
アリアも楽しげに笑った。
「ほら、クラト。リオの武装開発の買い出しもあることだし、少しぐらい羽を伸ばしてもいいんじゃない?」
「……はぁ」
観念するように短くため息をついた。
王城の裏門へ向かうその背に、楽しげな三つの影が揺れていた。
*
市場は、まるで空に浮かぶ巨大な船の甲板のようだった。
板張りの通りを色とりどりの天幕が覆い、香辛料の甘さに機械油の匂いが混じっている。
足元の石畳から伝わる振動が、巨大な船体の存在を主張していた。
ケープを羽織って街に降りたアリアは、どこか浮き足立って見えた。
「わぁ……」
髪を揺らしながら布屋の前で立ち止まる。
艶やかな絹、繊細な刺繍、異国の文字が踊る反物たち。
「見てクラト! この織り、すごく細かいの! 一流の職人の技よ!」
興奮したように、アリアはきゅっと腕を引いた。
細い指先がギプス越しでもはっきりと感じられた。
人混みを避けようと体をひねると、吊ったギプスが脇腹に当たってうずいた。
「姫様、お忍びの自覚あるのかよ……」
「大丈夫よ。民の暮らしを知るのも大事だもの」
アリアは無邪気に微笑んだ。
屋台では男が香辛料をすくって掲げる。
「シナモン! アカネ! 夜のお供にどうだい!」
遠くで子どもたちが笑い声を上げ、通りを走り抜けていく。
果物屋からは柑橘の香りが漂っていた。
「賑やかね……みんな、自由で楽しそう。笑い声って、こんなにも響くものなのね」
その声には、ほんのわずかな感傷が滲んでいた。
「それはそうだけどよ……」
じわと集まってくる視線に気づき、眉をひそめる。
通りすがりの子供が指をさし、布屋の主人が二度見して手を止めた。
周囲からひそひそ声が漏れる。
「姫様じゃね?」「護衛はギプスの男だけか?」
――まずい、注目されてきてる。
「目立つのはごめんだってのに……」
「英雄様だもの、仕方ないわよ」
アリアは楽しそうに見上げ、くすくすと笑った。
「やめろって!」
慌てて小声で制する。
屋台の親父が豪快に叫んだ。
「おぉっ! 両腕折った英雄様のお出ましか!」
その声は市場中に響き渡る。
「だからやめろっての!」
思わず、顔を覆いたくなった。
「楽しそうじゃない、クラト?」
「楽しくねえって!」
必死に否定するが、その顔は既に真っ赤だ。
一方、リオは金属部品の屋台に貼り付いていた。
「クラト見て! このスパナ、重さ半分で摩耗率も三分の一なんだって! 握り心地が最高!」
「もう工具の話はいいって」
「工具はあたしの生きがいなんだよ!」
リオは胸を張って言い切った。
「それにさ」
リオは、ふっと悪戯っぽい笑みを消し、真剣な表情をみせた。
「……セリカの言っていた通りなら、ライルはまたあの共鳴石を使う。それが次にどんな特異なモグラを呼ぶか分からないでしょ。だから、相手がどんな周波数の鱗を持ったユニーク個体でも、その場で出力を最適化してブッ叩ける『可変式のギア』が必要なの。絶対に、クラトの腕をもう二度と壊さないためのやつがね」
アリアのように美しく隣に立つことはできない。
クラトの身体を、その命を守ることだけは誰にも譲らない。
それはリオなりの、静かで強固な戦いであり、祈りだった。
その不器用で真っ直ぐな優しさと覚悟に触れ、クラトは胸の奥を鋭く突かれたように痛めた。
「リオ……お前……」
言葉が喉に詰まる。
リオはそんなクラトに照れくさそうに笑ってみせ、共鳴石の高出力に耐えうる特殊なコイルを一つ、そっと買い物袋に入れた。
通りの角の酒場から漏れ聞こえた荒っぽい声に、クラトの耳がピクリと反応した。
「最近、地上の旧区画で軍の連中が妙な動きをしてるらしいぜ」
「ああ、兵站総監のライルって野郎の息がかかった部隊だろ?」
同業者の匂いがする。
男はジョッキをドンと机に置き、声を潜めた。
「俺たち叩き屋の立ち入りを禁じて、モグラじゃねぇ何かを探してやがる。上からの極秘案件だってよ」
(――何だと?)
それまでの賑やかな空気から一転、クラトの「叩き屋」としての本能が跳ねた。
セリカの言っていた通りだ。
ライルは正規の軍を使えば足がつくため、息のかかった一部の部隊だけでコソコソと動き、神格種に関わる実験データを集めようとしているんだ。
アリアもまた、ふと布を撫でる手を止め、その目がきらっと冷たく光った。
やはり、彼女も今の会話を聞いていたのだ。
「ねえ、クラト。私、ギルドにも行ってみたいわ」
「はあ!? ギルドって、傭兵とか叩き屋が集まる、ガラの悪いところだぞ!? 情報を集めるにしても――」
「高貴な姫が行く場所じゃない、って言いたいのかしら?」
アリアの声はどこか低く、挑むような色を孕んでいた。
「そりゃ……まあ、そうだけど……」
「私、知らないことばかりなの。世の中のことも、ふたりのことも、もっと知りたい。ライルの企みを暴くためだけじゃない。クラトがどんな場所で生きてきたのか、リオがどんなふうに生きてきたのか。……二人のことを、ちゃんと知っておきたいのよ」
真剣な瞳に、言葉を失う。
リオがぽかんと口を開き、呟く。
「クラトだけじゃなく、あたしのことも……?」
アリアはやさしく笑った。
「ええ。だって同世代のお友達は少ないもの」
少し寂しげな響きが、その声に混じった。
アリアの脳裏に、かつて常に傍らにいて、あの日、親石の暴発によって失われた高潔な侍女、セリスの姿がよぎったのをクラトは見逃さなかった。
お忍びゆえに言葉を濁してはいるが、その横顔に刻まれた深い喪失感は隠しきれていない。
「だから……私をお友達だと思ってくれるなら、すごく嬉しいわ」
その言葉に宿る、痛烈なまでの孤独を受け止めたリオは、一瞬の躊躇もなく、満面の笑みで力強く頷いた。
「もちろんです! あたしで良ければ! ぜひお友達に! 姫様のことも、もっと知りたいです!」
その純粋な言葉に救われたように、アリアはリオをそっと抱き寄せた。
「ありがとう、リオ」
「……姫様にとっちゃ、俺もすっかり身内ってわけかよ」
クラトは自嘲気味に呟き、観念したように肩を落とした。
軍の裏切り者を追うという危険な目的を孕みながらも、彼女の願いはどこまでも真っ直ぐで、切実だ。
「私は、あなたたちを知りたいもの」
アリアの瞳は、未来を見据えるように揺るがなかった。
リオはアリアに抱きしめられたまま、目を輝かせている。
その姿はまるで、新しい居場所を見つけたかのように、まぶしく見えた。




