第85話 書斎の老人
◇◇◇◇
アメリアを送ってから、また数年。
俺は、七十代の老人になっていた。白髪の混じり始めた頃が、いつだったか、もうはっきりとは思い出せない。気がつけば、鏡に映る自分の顔は、皺と白髪の完全な老人の顔に変わっていた。
王都の家の書斎で、俺は、机に向かう日々を送っていた。
書斎の壁一面には、これまでに書いた書物が、ずらりと並んでいた。『東の魔王の最後の煎餅』から『大魔王ダグラスの千年の絶望』まで。数十冊にも及ぶ、俺の仕事の全て。
書斎の窓からは、王都の街並みが見えた。ジャガイモ畑の緑が、遠くにぼんやり広がっていた。王様が亡くなった後も、王国が大切に守り続けていた、あの畑。
書き続けた。一日、また一日と、原稿用紙が少しずつ増えていった。
息子ベル(王国軍の総帥になっていた)と、娘リリィ(王都図書館長になっていた)が、時々様子を見に来てくれた。
「お父さん、無理しないで」
「大丈夫だ。書きたいから、書いてる」
俺は、微笑んで彼らを送り出した。
最後の章「大魔王ダグラス、千年の絶望」を書き終える朝が、ようやく来た。窓の外は、穏やかな晴天だった。春を告げる優しい風が、書斎の中をふわりと通り抜けていた。
俺は、机の上の古いペンを、両手で握り直した。このペンは、王様が俺を専属作家に任命した時、贈ってくれたものだ。銀の細工が少し色褪せていたが、書き味は、今も変わらずしっかりしていた。
最後の数行を、書き始めた。
『大魔王ダグラスは、千年の絶望を、初めて涙で洗い流した。妻ヘレナと息子アレンの、幻の前で、彼はようやく人間に戻った。そして、王国の地下牢で、千冊の贖罪の書を書き終えて、静かにこの世を去った』
俺は、ペンをしばらく止めた。
ふと、目を閉じる。脳裏に、これまでの旅の、全ての人が次々と浮かんできた。じいさんとばあさん。王様。マダム・セレス。ノルス。アメリア。アイリーン。アルテミス。サラ。サラダ。ベルフォード。リーラ。ミリア。カミラ。四薔薇。ゾルダン。ダグラス。ヘレナ。アレン。
皆、俺の、大切な物語の住民たちだった。
◇◇◇◇
俺は、目を開けた。
最後の一行を、原稿用紙に書いた。
『これは、一人の作家の、本物の物語である。誰かに、届け』
ペンを静かに置いた。原稿用紙の束を、両手でそっと……ぱさりと閉じる。白紙のページに、「著者 東タクヤ」と書き添えた。窓の外を見上げると——午後の光が、書斎の中に優しく差し込んでいる。遠くのジャガイモ畑の緑が、風に、静かに揺れていた。
俺は、椅子の背もたれに、深く体を預けて、再びそっと目を閉じる。アメリアの最後の笑顔が、頭に浮かんだ。
「タクヤ、あなたに出会えて、本当に幸せだった」
その声が、聞こえた気がした。
俺の唇が、かすかに動いた。
「アメリア……」
窓の外で、桜の花びらが、季節外れなのにふわりと舞っていた。ゾルダンが迎えに来てくれたのかもしれない。
俺の呼吸が緩んでいく。そのまま、俺は静かに……息を引き取った。
夕方、書斎にベルとリリィが入ってきた。二人とも、机にもたれかかったままの父の姿を見て、しばらく無言だった。ベルの頬に涙がぽろりと伝った。リリィが原稿を両手でそっと抱えた。
「お父さん、書き上げたのね……」




