第81話 ダグラスの選択
ダグラスが、床に片膝をついたまま、ふっと顔を上げた。彼の白い瞳の奥に、深い疲労が宿っている。しかし彼は、まだ意識を失ってはいなかった。
「勇者よ、剣士よ。お前たちの絆、見事だ」
彼が低くつぶやいた。
「しかし、ワシも千年の魔王だ。この程度では、簡単には滅ばぬ」
彼が両手を、ゆっくり胸の前に寄せた。三魔王の鎖が絡んでいたが、彼は無理矢理、両手を寄せた。掌の間に、黒い霧の残りが、じわりと集まり始めた。
「まだ、力は残っている。最後の一撃で、お前たちを道連れにしてやる」
俺は、深く息を吸い込んだ。彼をこれ以上戦わせても、勝敗はもう決まっている。だが、俺は彼を、殺したくはなかった。
俺は、懐からヘレナのレシピノートを両手で取り出した。最初のページを開き、優しい丸文字を、しっかり目に焼き付けた。次に、目を閉じた。ロストシティの食堂で見た肖像画の女性を、頭の中に強く思い浮かべた。優しい笑顔の若い王妃。純白のドレス。長い銀色の髪。そして、両腕に抱いた五歳の男の子。
俺は、集中する。絵心がなく、召喚したのはガラクタばかり。しかし、それは確かに前へ進む力をくれた。この冒険のラスト、今度こそ、その想いが——そのまま形になりますように……!
「イマジナリースキル」
俺は、静かに告げた。
「いでよ、ヘレナと、アレン」
◇◇◇◇
ダグラスの掌の間で集まっていた黒い霧が、ふっと動きを止めた。彼の白い瞳が、ぱっと俺の指す方向を追いかけた。
彼の傍の空間に、二つの淡い金色の光が灯る。その光は、徐々に人の形を取り始めた。その姿は——若い王妃、ヘレナ。純白のドレス、長い銀色の髪。優しい菫色の瞳。その傍には——五歳の男の子、アレン。金色の柔らかい髪、絹の白い服、薔薇色の頬。
千年前の、あの家族の姿。イマジナリーは、ついに思ったものを、確かな姿に変える。
ダグラスが、ぴたりと動きを止めた。彼の白い唇が震え始めた。白い瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
二人が、ゆっくり彼の方に歩み寄った。
「ダグラス」
ヘレナが、優しくささやく。
「お帰りなさい」
「ヘ、ヘレナ……」
ダグラスの声が震えた。彼の手がヘレナに向かって伸びかけたが、三魔王の鎖に縛られたままだった。
「ヘレナ……ヘレナよ……」
アレンが、ダグラスの片手をぎゅっと握った。
「お父さん、お疲れさま」
ダグラスの体が大きく震えた。
「アレン……」
彼の白い頬を、涙がぽろぽろと流れ落ちた。千年ぶりの、涙。
◇◇◇◇
俺は、ダグラスの前にしゃがみ込んだ。
「ダグラス」
「うむ……」
「お前は、千年、苦しんだ。……もう十分だろう。これから、選んでもらう」
「……」
「死ぬか、生きるか」
ダグラスが、しばらく無言だった。ヘレナとアレンが、しずかに微笑んで見ていた。
「生きるなら、お前の力を、すべて捨ててもらう」
俺は続けた。
「ただの人間として、残りの人生を生きろ。お前が殺した人々、お前が壊した世界。その償いと、共に」
ヘレナがダグラスの傍にしゃがみ込んで、彼の頬に両手をそっと添えた。
「ダグラス、あなたがいつも言っていた、あの言葉、覚えてる?」
「……」
「『どんな苦しい日でも、次の朝、ジャガイモのスープが、私たちを待っている』」
「……」
「もう、絶望の道は、終わりよ」
「お父さん、また、いつか会えるから。その時まで、頑張って」
アレンが父の手をぎゅっと握り直した。
ダグラスの目から、涙がぼろぼろと流れ続けた。彼は長く長く、無言のままだった。やがて、彼は、ふっとうなずいた。
「我……償う」
彼が両手を床について、深く頭を垂れた。次の瞬間、彼の体から、黒い霧がぐぅんと放射状に放たれた。彼が自ら、自分の魔王の力を、すべて放棄した。
◇◇◇◇
放たれた黒い霧の波が、玉座の間の四方に広がった。波はそのまま、城の壁を、天井を、ぱあっと貫いて——外へと抜けていく。玉座の間全体が大きく揺れ始めた。
「城が、崩れるぞっ!」
アルテミスが叫んだ。
ヘレナとアレンの幻影が、優しい光に包まれた。
「ダグラス、私たちは、あなたが償いを終える日を、いつまでも待ってるわ」
ダグラスは、顔を上げてぼそりとつぶやく」
「ヘレナ……お前は……我を許してくれるのか……」
「当たり前よ。愛してるわ、ダグラス」
二人の姿が、光に溶けて、天井の方へ上っていった。同時に、三魔王の鎖もふっと消えた。ベルフォード、カミラ、ゾルダンの幻影も、俺に深く一礼して光に溶けた。
俺はダグラスに駆け寄った。彼は魔王の力を全て放棄した瞬間、千年分の時間を一気に取り戻したかのように、老いていた。もう、八十代のただの老人だった。
「タクヤ殿……我を、地上に連れて行ってくれ。これからの余生は……償いの書を、書いて過ごす」
「わかった」
俺たちは崩れかけている玉座の間を脱出した。サラが俺たちを乗せて、崩れる城の廊下を駆け抜けた。城門を飛び出した瞬間、漆黒の城が、後方で崩れ始めた。ロストシティも、白い大理石の街並みが、光の粒として空に消えていく。
虚無の荒野を抜け、階段を上に上って地上へ。大書庫の入り口にたどり着いた瞬間、そこに人影が立っていた。
王様だった。両手にジャガイモを一個握りしめて、階段の出口で待っていた。
「勇者殿ぉぉっ! 儂、待っておったぞぉぉぉっ!」
彼が両腕を広げて駆け寄ってきた。俺は、深く一礼した。
「王様、ヤツ、生かして、連れてきました」
「うむ。それでよい。お前の判断、信じておったぞ」
◇◇◇◇
その夜、王宮の中央広場で、俺と王様は——二本のジャガイモを、しずかに土に植えた。俺のしなびたジャガイモと、王様の新しいジャガイモ。二本並んだ、王都のジャガイモ畑——それは、王様と勇者、絆の証。
アメリアが俺の傍に来て、手をぎゅっと握った。
「タクヤ、指切り、有効だったわね」
「うん」
「結婚、するわよ!」
「もちろん」
夜風が、王都の広場を優しく通り抜けた。桜の花びらが、遠くの方から、ふわりと舞ってきた。まるでゾルダンが、優しく見守っているようだった。




