第78話 全能力バトル、絶望の底
ダグラスの周囲の黒い霧が、ぐぅんと濃く膨らんだ。床全体に薄く広がり、漆黒の石に赤い光の線が、幾筋も浮かび上がる。線は次第に繋がり、大きな円を描いた。
俺は、その光景に見覚えがあった。
「これは……アルテミスさんの、漆黒陣」
アルテミスが眉根を寄せた。
「うむ。だが、私のそれとは、規模が違う」
アメリアが咄嗟に地を蹴って、ダグラスに突進した。しかし彼女の足が赤い線に触れた瞬間、ぴたりと止まった。
「動けないっ!」
ダグラスがふっと唇を緩めた。
「ワシは、四魔王の術を、全て上位互換で使える」
次にダグラスの右手が持ち上がった。彼の掌の前に、真っ黒な渦を巻いた球が生まれた。ベルフォードの黒い波動だった。
彼が右手をぱっと振ると、黒い球が巨大な波として、押し寄せてきた。
「アイリーンッ!」
「はいっ!」
アイリーンが聖光の杖を頭上に構えた。背中の翼がぱっと虹色に展開する。
「聖光の壁、解放!」
金色の壁が、真正面からぶつかった。ずどぉぉぉんっと玉座の間が揺れた。しかし黒い波動は消えず、ぐぐぐと押し続けてくる。
「重い、ですわぁっ!」
◇◇◇◇
続けて、ダグラスの周りの黒い霧に、紅い色が混ざり始めた。
「クリムゾン・キス」
紅い霧が、玉座の間全体にふわりと広がった。俺の頭が、ぐらりと霞んだ。カミラのそれよりも、はるかに強い。俺の足がふらふらと、勝手にダグラスの方に引き寄せられた。
その時、俺の懐から、ころんと何かが転がり落ちた。
王様のジャガイモ。芽の出たあのしなびたジャガイモが、床の上に落ちた。
俺の頭の中に、王様の姿がぱっと蘇った。
「——儂、生きておれば、毎日水をやりに行く」
王様の声が俺の頭に蘇り、視界がふっと晴れた。俺は、ジャガイモを両手でしっかり拾い上げる。
「王様……あなたの支え、絶対、守り切る」
ダグラスが、俺の変化に気づいた。
「ふむ。ジャガイモか」
「野菜じゃない。絆だ。あんたが、千年前に失ったものだ」
ダグラスの白い瞳が、ふっと揺れた。しかし彼はすぐに、その揺れを打ち消した。彼の口が、ゆっくり開いた。
「ワード・オブ・コマンド」
深く低い声が、玉座の間全体に響き渡った。
「ひざまずけ、勇者よ」
俺の膝が、勝手に地面に向かってつこうとした。アルテミスだけが、まっすぐに立っていた。
「私には効かぬ」
しかし彼以外の三人が、徐々に屈しかけていた。
◇◇◇◇
俺の膝が、床にずるりとついた。
その時、アメリアが、漆黒陣に縛られたまま、剣を、ダグラスにまっすぐ向けた。
「ダグラス、あんたのその言葉、私には届かないわよっ!」
彼女が地を蹴ろうとした。しかし床の赤い線が、彼女の足をぐいと引き止めた。それでも彼女は、剣を握ったまま、上半身だけでぐっと前に体を乗り出した。
「ファイナル、三段斬り、烈っ!」
彼女の剣が円の軌道を描き始めた。しかし床の漆黒陣の力が、その軌道に絡みついてきた。剣の軌道が歪み、次の瞬間、彼女の剣が根元から、ぱきりと割れた。
「アメリアッ!」
彼女の体が、ぐらりと傾いた。剣の破片を握ったまま、その場に崩れ落ちた。
彼女の隣で、アイリーンの聖光の杖も、ぐらりと傾いた。二発目の黒い波動が、金色の壁をついに突き破って、彼女の体をずどんっと直撃した。彼女の体が、後ろに吹き飛ばされた。
「皆さん、ごめんなさい……」
アイリーンの背中の翼が、ぼんやりと薄くなって、消えかけていた。
唯一、動けるアルテミスは、両手から火球をぼろぼろと放ち続けていた。しかし、その火力は、もうほとんど尽きていた。
「私の力では、足らんか……」
いつの間にか、彼の膝も、地面についていた。その顔には、汗の粒がぽたぽたと流れている。残っているのは、俺だけだった。しかも俺自身、ワード・オブ・コマンドで、膝をついたまま動けない。
ダグラスが、玉座の前でふっと笑った。
「勇者よ、これで、終わりか」
彼の手のひらに、巨大な絶望の球が、ぐぅんと集まった。全ての魔王の力を合わせた、最終攻撃。これを浴びたら、俺たちは皆、跡形もなく消える。
◇◇◇◇
俺は、地面に膝をついたまま、目を閉じる。頭の中に、これまでの旅の光景が、走馬灯のように流れ始めた。
トマトヴィレッジでの出会い。北の漆黒の塔で、俺の本を読んで呻いたアルテミス。東の霧の森で送ったベルフォード。銀霧の里でミリアの煎餅を焼いた祭り。西の紅蓮の薔薇園で送ったカミラ。桜の木の下で抱きしめたゾルダンの、初めての笑顔。神話の山で「ありがとう」を告げた前世の自分。
王様の顔。ジャガイモを握る手。アメリアの月明かりの下のキス。そして、結婚の約束。
全部、全部、頭の中にぱっぱっと流れていった。
俺は目を開けた。地面についた膝を、ぐっと持ち上げようとした。しかしまだ、ワード・オブ・コマンドの力が、俺の膝を縛り付けていた。俺の手の中のジャガイモが、ぶるぶると震え始めた。芽の柔らかい感触が、俺の掌の中で、ぐんぐんと脈打った。
次の瞬間、玉座の間の空気が、ふっと変わった。




