第74話 心の試練、女神降臨
力の試練の広場の奥から、長い石の廊下が伸びていた。
廊下の終わりに、巨大な白い石の扉。扉の前に、五つの石の椅子が半円形に並んでいる。扉には、こう刻まれていた。
『心の試練。お前の心の、最も避けたい記憶と、向き合え』
俺たちは、それぞれ椅子に腰を下ろした。サラとサラダも、低い椅子に、ちょこんと座る。その瞬間、扉の前の空中に、五つの幻影がぱっと現れた。
アメリアの前に、若き日の彼女の母。魔王エクラインの前に倒れた、最期の瞬間の姿。
アイリーンの前に、雪の中で震える、幼少期の彼女自身。
アルテミスの前に、グレッグと話をする、若き日の彼自身。
サラの前に、かえらなかった、彼女の弟か妹の卵。
そして俺の前に――。
深夜の八畳一間のアパートで、安いスマホを握った、二十五歳の前世の俺が、ベッドの上にぐったりと座っていた。
まず、アメリアが立ち上がった。母の頬に、震える両手をそっと添えた。
「母さん、私、ちゃんと生きてるよ。いい男も見つけた」
母の幻影が、優しく微笑んで光に消えた。
アイリーンが、雪の中の自分の前にしゃがみ込んだ。
「あなたは、女神様に拾われますわぁ。温かい人と出会いますの」
幼少期の自分が、光に消えた。
アルテミスが、深く息を吐いた。
「私は、もう戻らない。今、ここに仲間がいる」
二人の幻影が、消えた。
サラが、卵をクチバシで押した。ころんと転がって、光に消えた。
◇◇◇◇
俺だけが、椅子に座ったままだった。前世の俺が、深い疲労を浮かべた顔をらして、俺を見ていた。俺は、彼の前にしゃがみ込み、彼の視線の高さに合わせた。
彼が、ぽつりと囁いた。
「なあ、お前。俺たち、もう、書くのやめないか?」
彼の声が、震えていた。
「誰にも、読まれてないじゃないか。毎晩、コンビニのバイトから帰って、深夜まで書く。なのにPV、十二。俺、もう、疲れた」
彼の頬を、涙がぽろりと伝った。
俺は、しばらく何も言えなかった。あの時、確かに俺は、書くのをやめたかった。毎晩スマホの画面のPV12を見て、惨めで仕方がなかった、あの時の絶望を、まだ覚えていた。
「お前は、確かに、誰にも読まれていなかった」
俺は、ゆっくり口を開いた。
「PV12のまま、何ヶ月も、誰にも見てもらえなかった」
「……」
「でも、お前は、書き続けた。眠くて目をこすりながら、それでも書き続けた。その『書き続けた』時間が、俺を、ここまで運んでくれた」
「お前が書き続けたから、俺は、ベルフォードの物語を書ける」
「お前が書き続けたから、俺は、ミリアの煎餅を再現できた」
「お前が書き続けたから、俺は、ゾルダンにシャボン玉の絵本を約束できた」
「お前は、間違ってなかった」
俺は、彼の肩にぽんと両手を置いた。
「ありがとうな。俺を、ここまで運んでくれて」
前世の俺が、ゆっくり顔を上げた。震える唇で、彼がささやいた。
「……ありがとう、未来の俺」
彼の体が、淡い光に包まれた。消える瞬間、スマホの画面の数字が「PV12」から「PV∞」に変わっていた。無限のマーク。俺の本が、未来の読者にまで届く、その未来を、彼が見せてくれた。
彼が、光の中にしずかに消えた。扉の上空で、白い石がぽうっと強く光った。
この冒険を通して、皆の心は、着実に強くなっていた。それは、もう過去に囚われない、前に進む力。心の試練——突破できるだけの強さを、すでに俺たちは身につけていたのだ。
◇◇◇◇
白い石の扉が、ゆっくりと開いた。奥は半球状の巨大な空間。天井から淡い金色の光が降り注いでいた。中央の白い石の台座の上に、聖光の翼が、しずかに横たわっていた。純白の二枚の翼、宝石のような物体。
俺、アメリア、アルテミスが順番に触れようとしたが、翼はそれぞれを拒絶した。アルテミスに至っては「私は元魔王だからな」と自ら手を引いた。
最後にアイリーンが両手を伸ばした瞬間、翼がひと際強く光り、彼女の背中にふわりと装着された。
「あ、あらん……」
彼女の体が、虹色の光に包まれた。背中の翼がぱっと展開して、体が地面からわずかに浮き上がった。
「タクヤさんっ、私、浮いてますわぁっ!」
「す……すごい」
空間の天井から、光の柱が降りてきた。人の形を取り、女神セレーン本人が姿を現した。長い銀色の髪、純白のローブ、優しい紫水晶の瞳。
女神が、アイリーンの前にしゃがみ込んだ。
「あなたは、聖なる力を、心の底から愛して使ってきた。どんな立派な力でも、それを愛して使う者の手にしか、本物の力は宿らないの。だから聖光の翼は、あなたを選んだ」
アイリーンの頬に、涙がぽろぽろと流れた。女神が彼女をしずかに抱きしめた。
女神が、俺の方を見た。
「勇者よ。お前のスキル、イマジナリー。あれは私が与えた力ではない」
「えっ?」
「あれはお前自身の、心の力だ。私はただ、それを解放しただけ」
俺は、しばらく言葉が出なかった。心の試練で、前世の自分と向き合った時の、あの実感。あれは、女神から授かった力ではなく——俺自身の中にずっとある力だったのだ。そして、それは心と深く繋がっている。
「これからも、自分を信じて進みなさい。イマジナリー、それは——あなたの心の強さ」
女神は優しく微笑んで、天井に上っていった。
◇◇◇◇
下山して、麓の集落に戻った。ノルスが小屋の前で待っていた。
「お前さんたち、戻ってきたか。全層突破したんじゃの」
「あなたは、どこまで行ったんですか」
「儂は、実は力の試練のゴーレム軍で引き返したわい」
「えっ!」
「『生還した』とは言ったが、『全層突破した』とは言うておらん」
ノルスが、片眼鏡をずらしてにやりと笑った。俺は肩を落とした。しかし、彼のはぐらかしのおかげで、覚悟が固まった側面もあった。
王都に戻る俺たちを、銀霧の里の住民たちが、煎餅を持たせて見送ってくれた。馬車の中で、俺は懐から王様のジャガイモを取り出す。旅の間ずっと握り続けたそれに、緑の芽がぽつぽつと伸び始めていた。
「タクヤ、それ、ダグラス倒したら、王都の中央広場に植えるのね」
「うん。絶対、植える」
馬車の窓の遠くに、王都の城壁がぼんやり見え始める。最終決戦が、近づいていた。




