第66話 最後の願い
ゾルダンの体は、もう、ほとんど崩れかけていた。
絹の白い服の下で、彼の腕が、足が、薄く透けていく。貧民街の路地に、桜の花びらが、夜風に運ばれてきて、彼の肩にふわりと一枚、降りた。彼が、震える指で、その花びらをつまもうとした。
しかし、その指は、もう、花びらに触れるだけの力を失っていた。花びらは、彼の指の隙間から、ふっと、地面に滑り落ちた。
「勇者おにいちゃん」
ゾルダンの、ささやくような声。
「うん」
「お願い、二つあるんだ」
「ああ。何でも聞く」
彼は、震える声で続けた。
「一つは、シャボン玉の絵本」
「絵本?」
「うん。シャボン玉が、いっぱい出てくる絵本。子供のために、書いてほしい」
「……」
「ぼく、もう、シャボン玉、見られないけど。他の子供たちが、それを見たら、笑えるかなって」
俺は、奥歯を噛みしめた。
「すごく……すごく、きれいだったから」
「ああ。約束する」
「うん」
ゾルダンが、ふっと嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
「もう一つは何だ?」
ゾルダンは、しばらく、迷うように……視線を宙に彷徨わせた。
やがて、ぽつりと囁いた。
「教えて欲しいの。ぼくの、本当のお父さんは……ぼくを大事にしてくれた?」
その問いが、俺の胸の真ん中にぐっと刺さった。
彼がゾルダンの元へやってきた経緯はわからない。おそらく彼の人生は、最初から最後まで……誰かに「ちゃんと」愛された瞬間が無かったのだろう。
でも――。
俺は、息を吸い込んで、彼の頬を両手で、そっと包み込んだ。
彼の頬の温度は、もう、ほとんど無くなりかけていた。
「ああ、ゾルダン」
「うん」
「お前の本当のお父さんは、お前を、ちゃんと大事にしてた」
「……」
「お前が、いい子だって、ちゃんと知ってた。お前の頭を、撫でて、抱っこして……毎晩、おやすみのキスをして、子守歌を、歌ってくれた」
「……」
「お前が悲しい時には、胸の中にぎゅっと抱きしめて、一緒に泣いてくれた。お前が笑った時には、一緒に大声で笑ってくれた」
「……」
「お前は、ずっと、ずっと、お父さんに愛されてたんだ」
それは、もう……本当かどうかは、どうでもよかった。ただ俺は、小説家として、創作する。最後に彼の心が休まるように。
ゾルダンの口元が、ふっと、柔らかくほころんだ。彼の深い青色の瞳に、薄く、最後の輝きが灯った。
「そっか……」
彼は、ささやいた。
「ぼく、愛されてたんだ……」
「ああ」
「良かった……」
彼の頬を、もう一筋、涙がゆっくりと伝った。
「ねえ、おにいちゃん」
「うん」
「ぼくね……悲しいっていう気持ちが、わかったよ。胸が、ぎゅって痛い感じ」
「うん。それが、悲しい気持ちだよ」
「それと、嬉しい、っていうのもわかった」
「うん」
「いま、ぼく……悲しいと、嬉しいが、両方……いっぱいなの」
彼が、ふっと、子供らしい本物の笑顔を見せた。
その笑顔は、もはや、彼の瞳にあった虚ろさを、完全に、洗い流していた。
「ふしぎだね」
「ああ。ふしぎだ」
◇◇◇◇
その瞬間、彼の体がふわりと、淡い、青みがかった光に包まれた。
優しい光は、彼の体の輪郭から、ふわふわと、いくつもの粒となって立ち上っていく。
ゾルダンの小さな体が、俺の腕の中で、徐々に軽くなっていった。
「ぼく、消えるね」
「うん」
「最後に……抱っこしてくれる?」
「もう、抱っこしてるよ」
「あ、そっか」
彼は、ふっと笑った。
「……ありがとう」
彼の小さな手が、最後に、俺の胸元をぎゅっと握った。
「勇者おにいちゃん」
「うん」
「またね」
その言葉と共に、彼の体が、すうっと光に変わった。
俺の腕の中に、残されたのは、絹の白い服だけだった。
その上に、小さな青い宝石が、ぽとんと転がっていた。月の欠片のような、ぴかぴかした青い宝石。
俺は、その宝石を、震える手で拾い上げた。
握り込むと、宝石は、ほんのり温かかった。
まだ、ゾルダンの、最後の体温が残っていた。
「ゾルダン」
俺は、空を見上げてつぶやいた。
「またな」
空に、桜の花びらが、ふわふわと、舞い上がっていた。その向こうに、淡い青い光が、ふっと、ひと際強く、瞬いて、それから、ゆっくりと、消えていった。
俺の隣で、アメリアが、ぐっと、唇を噛んで泣いていた。アイリーンが、声を殺して、すすり泣いていた。アルテミスが、無言で、空を見上げていた。サラとサラダが、低く「クワッ……」と「ぴーっ……」と、悲しげに鳴いた。
王様は、両拳を、握りしめたまま、誰にも見えない一点を、じっと睨んでいた。
彼の頭巾の下から、ぽつりと、低い声が、漏れた。
「ダグラス……必ず、貴様を、儂が裁く」
◇◇◇◇




