第65話 壊れる玩具
ゾルダンを抱きしめたまま、俺は、しばらく空に舞うシャボン玉を見上げていた。
虹色の球は、ふわふわと、貧民街の上空にいくつも漂い続けている。
ブリキ兵士の体を閉じ込めたシャボン玉は、屋根の高さよりも、はるかに上に、舞い上がっていた。やがて、それらは、一つ、また一つと、ぱちんと小さな音を立てて、空中で弾けていった。中に閉じ込められていたブリキ兵士は、もう、ただの銀色の人形に戻っている。彼らの体は、ふわふわと、紙吹雪のように地面に降り注いだ。
「シャボン玉、消えちゃう」
ゾルダンが、ぽつりとつぶやいた。
「うん」
「でも、きれいだったね」
「ああ」
「ぼく、覚えとくよ。シャボン玉、きれいだったって」
「うん。覚えてて」
俺の腕の中で、ゾルダンの小さな体が、しずかに頷いた。
ちょうど、その時――。
彼の体が、突然、ぴくりと震えた。
「あ、あれ……?」
彼の小さな手が、俺の背中から、ふっと、離れた。
「お腹が、なんか、変……」
俺は、咄嗟に彼の肩を掴んだ。
「ゾルダン、どうした!?」
「お腹の中が、ぐるぐるって、まわって……」
彼の体が、ぐらりと傾いた。
俺が抱きとめると、彼の体は、さっきまでより、はるかに軽くなっていた。それなのに、その内側から、奇妙な脈動が伝わってきた。とくん、とくん、と人間の鼓動とは違う、何か――別の生き物のような脈打ちが、彼の小さな体の中で、暴れていた。
「タクヤ、何が、起きてるの!?」
アメリアが、剣を握り直しながら、駆け寄ってきた。
アイリーンが、女神の杖を構えた。
「聖光、解放!」
淡い金色の光が、ゾルダンの体を包んだ。
が、その光は、彼の体の表面で、すうっと弾かれた。まるで、彼の内側の何かが、外部の干渉をはっきりと拒否しているようだった。
「効きませんわっ!」
アイリーンの顔が、青ざめた。
ゾルダンの口が、ぱっくりと開いた。
彼の小さな唇から、深く、低い、男の声が響き始めた。
『お前が……ワシの計画を……邪魔する勇者か」
俺の背筋に、氷の塊を押し当てられたような感覚が走った。
その声は、ゾルダンの可愛らしい声色とは、まったく違っていた。数十、数百歳の重みを孕んだ、深い、深い男の声。
大魔王ダグラス。
彼の声が、ゾルダンの口を借りて響いていた。
『ゾルダンよ……お前は、もう……ワシの玩具としての、価値もない』
その声が、続けた。
『……実に、見苦しい……見苦しいぞ……」
「やめろっ、ダグラスっ!」
俺は、思わず叫んだ。
『黙れ……壊れた玩具は……捨てるまでだ』
ゾルダンの体が、内側から、ぼろぼろと崩れ始めた。
絹の白い服の下で、彼の薔薇色だった肌が、灰色に変わっていく。彼の頬がこけて、瞳の輝きが急速に薄れていく。
「ゾルダンっ!」
俺は、彼を、しっかりと抱きしめた。
彼の体は、もう、頬の温かみさえ失い始めていた。
「あ、あれ……痛いよ、お父さん……」
ゾルダンが、震える声で呟いた。
今度は、自分の声で。
「お父さん、ぼく、悪い、コト、したの……?」
彼の深い青色の瞳が、何かを必死に探すように、虚空を見上げていた。
「ぼく、いい子に、なろうとしたんだよ……? 勇者おにいちゃんが、ぼくに、いい子だね、って言ってくれたよ……? お父さん、ぼく、いい子に……なれたんだよ……?」
その問いに、答える声は、もう聞こえなかった。
ダグラスは、もう、ゾルダンの口を借りる必要すら、なかった。
彼は、自分の作った子供を、玩具として捨てた。
それだけだった。
王様が、両拳をぐっと握りしめた。
「儂、これほど、許せぬ親を見た事がない」
彼の頭巾の下から、深い、怒りの声が漏れた。
「我が王国の地下深くに、千年潜む亡霊め。儂、王として、必ず貴様を裁いてやるぞ!」
彼の青い瞳には、燃えるような深い炎が宿っていた。
ゾルダンの目から、もう一筋、涙がこぼれる。
「勇者の……おにいちゃん……」
彼が、震える声でささやいた。
「うん」
「ぼく、もう……長くないって、わかるよ」
「……」
「最後に、お願いがあるの」
俺は、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「ああ。お前の、お願いを聞かせてくれ」
「うん」




