第61話 魔王は豹変する
俺は、廃屋のベッドの傍で、立ち尽くしていた。
ゾルダンの寝顔は、本物の子供そのものだった。長いまつ毛が、頬に薄い影を落とし、薔薇色の唇から、規則正しい寝息が漏れている。彼の小さな指は、毛布の代わりに、自分の胸元の絹の服を、ぎゅっと握りしめていた。
後ろから足音が近づいてきた。アメリア、アイリーン、アルテミス、そして王様の四人が、足音を殺して、俺の隣に並んだ。
「……寝てる」
アメリアが、囁いた。
「無理。寝てる子供を、刺せない」
「分かる」
アイリーンも、両手を口元に当てていた。
「あらまあ、こんなに可愛らしい寝顔で……困りましたわぁ」
王様が、頭巾の下から、しんみりと呟いた。
「儂、王として、こやつに、何と語りかけるべきか、迷うわい」
彼の頬には、いつものおちゃめな笑みは、もう無かった。
その時、ベッドの上のゾルダンが、ぴくりと身じろぎした。長いまつ毛が震え、ふっと持ち上がる。深い青色の瞳が、寝ぼけたように——ふらりと俺たちの顔を、順に見上げた。
「あれぇ……?」
間延びした、寝起きの声だった。
「勇者おにいちゃんと、おねえちゃんと、まおうのおにいちゃん……それから、じいちゃんも来てくれたの?」
彼は、ゆっくりと体を起こした。絹の服の皺を、小さな手のひらで、ぱたぱたと払う。
「ぼく、いつ寝ちゃったんだろ……あ、そうだ。おばあちゃんのおうちに、お邪魔したんだった」
彼は、にっこりと笑った。
「ねえ、おにいちゃんたち、ぼくと、遊んでくれるの?」
言葉の力が発動する前に——彼の興味を、別のものにそらさなければならない。
俺は、咄嗟に、両手を空に向かって突き上げた。
「イマジナリースキル! いでよ、子供の心を奪う、何かっ!」
ぼん、と空中に何かが現れた。
いや、何か、ではなかった。いくつもの色とりどりのものが、ふわりと、ぱらぱらと、ぼたぼたぼたぁっと廃屋に降り注いだ。
毛むくじゃらの大きなクマのぬいぐるみ、テディベア。木製の積み木が五十個ほど。色とりどりの絵本、二十冊。シャボン玉用の石鹸液の瓶と、輪っかの棒。木のお馬さんの揺りかご。布製のボールが、十個。
その中に、ひときわ目を引くものがあった。
ブリキ仕掛けの兵士たちだった。手のひらサイズの、銀色のブリキでできた歩兵が、十体ほど。背中のぜんまいを巻くと、自分で歩き出す仕掛けのおもちゃだった。
まるで、おもちゃ屋の倉庫が一棟分、丸ごとぶちまけられた、そんな光景だった。
ゾルダンの目が、ぱあっと、開いた。
深い青色の虚ろさが、初めて消えた。その奥で、本物の子供の輝きが、ふわりと灯った。
「うわぁぁぁっ!」
彼が、両手を広げて、おもちゃの山に飛び込んだ。
◇◇◇◇
ゾルダンは、最初の半時間は、夢中だった。
テディベアを抱きしめて、頬擦りをした。積み木をぐるぐると並べて、城のような形を作った。絵本を開いては、絵を指でなぞって、にこにこ笑った。
ブリキ兵士のぜんまいを巻いて、床に並べた。十体の兵士がかちゃ、かちゃ、と歩き始めるのを見て、手を叩いて喜んだ。
俺たちは、廃屋の壁際で、息を殺してその光景を見守っていた。
アメリアが、ぽつりと囁いた。
「ね、ねえ、タクヤ。これで、もう、終わってよくない?」
「終わって、よくない? とは」
「だってあの子、いま、ふつうの子供よ。剣を抜く理由が、もう無いじゃない」
「……」
俺も、同じ事を考えていた。
ゾルダンの絹の白い服が、テディベアの毛にまみれて、子供らしく汚れ始めている。それを、彼はまったく気にしていない。むしろ、嬉しそうに、ぬいぐるみと頬擦りを続けている。
このまま、彼を、ただの子供として……保護する事はできないだろうか。
しかし、その淡い期待は、すぐに崩れる事になった。
ゾルダンの動きが、急に、ゆっくりになる。彼は、テディベアを膝に乗せたまま、ぼんやりと、天井を見上げ始めた。
絵本の方には、もう目もくれない。積み木も、すでに崩されて、床に散らばっている。ぜんまいの切れたブリキ兵士たちが、横倒しに転がっていた。
「……つまんない」
彼の口から、ぽつりと、その言葉が漏れた。
「全部、おなじ」
深い青色の瞳に、また、虚ろさが忍び込んできた。俺は、咄嗟に息を呑んだ。マズい。彼が、飽き始めている。
「ぼく、退屈になっちゃった」
ゾルダンが、テディベアをぱっと、床に放り出した。
その瞬間、彼の口元がぐにゃりと歪んだ。可愛らしい子供の顔のはずなのに。その歪みは、まるで別の何かが、彼の表情を借りているかのように——不自然だった。
「うわぁぁぁぁんっ!」
ゾルダンが、突然、子供らしい大声で泣き出した。
しかし、その泣き声は、最初の数秒で、子供のそれを超えていった。彼の声に、ねっとりと粘る、ヒステリックな響きが混じり始めた。床に膝をついて、両拳で床を、どんどん、と叩く。
「つまんない、つまんない、つまんない!」
彼は、泣きながら叫び続ける。
「ぼく、もっと、楽しい遊びが、いいっ!」
彼の絹の服の袖が、ぴくっと、空中にぐにゃりと立ち上がった。風も無いのに、布が、何かに引っ張られるように、ふわふわと彼の周りで揺れ始めた。
俺の背筋に、ぞわりと、悪寒が走った。
彼が、初めて、自分の中の魔王の力を、本気で解き放ち始めていた。
「ねえ、おもちゃたち」
ゾルダンが、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、にっこりと笑った。
その笑顔は、もう、子供のものではなかった。深く、深く、底のない井戸の底から、何かが這い上がってきたような——ぞっとする笑顔だった。
「君たちも、起きて、ぼくと遊ぼう?」
その瞬間、廃屋の床に散らばっていた、おもちゃ全てが、ぴくりと震えた。




