第60話 魔王は眠っている
夜明けと同時に、俺たちは再び城下に出た。
昨日と同じく市民は俯きがちで、町全体が、ぴんと張り詰めた朝の空気の中に、息を潜めていた。王様も、頭巾を被って、相変わらずジャガイモを握って、俺たちの先頭を歩いていた。
アメリアが、首を振りながらぽつりと呟いた。
「子供一人のために、町全部が、こんなにひっそりしなきゃいけないなんて」
その通りだった。
俺も同じ事を感じていた。ゾルダンは、誰一人剣を抜けない相手だった。彼を倒すという言葉が、ここまで重く、苦い響きを持った魔王は、これまでにいなかった。
アルテミスが、ふと足を止めた。
「ここだ」
彼が指を差した先には、小さな水路の脇の石畳が見えた。前夜の雨で石畳が湿っていて、そこに乾いた靴跡が、ぽつんと一つ、点々と続いていた。
明らかに、子供のサイズの靴跡だった。
「東の方角だな」
アルテミスが屈み込んで、靴跡を指でなぞる。
「昨日、ヤツが消えた路地から、ずっと続いている。夜のうちに、独りでどこかへ歩いて行ったらしい」
俺は、その靴跡を見下ろした。
あの小さな少年が、夜の街を独りで歩く姿が、頭に浮かんだ。胸の奥が、ちくりと痛んだ。
◇◇◇◇
靴跡を辿って、半時間ほど歩いた。
城下町の外れ、貧民街と呼ばれる一画に出た。崩れかけた木造の長屋が並び、洗濯物が屋根から屋根へと張り渡されている。普段なら子供たちが路地で駆け回っているはずだが、今朝はその姿も見当たらない。
路地の奥に、一軒の半壊した小屋があった。
屋根の半分が抜け落ち、壁の漆喰がぼろぼろと崩れている。住む者はもう何年も前にいなくなったような、そんな佇まいの廃屋だった。
しかし、その入り口の前に、誰かが立っていた。
年老いた女性だった。
白髪を後ろで束ね、地味な麻のスカートを履いている。手には、編みかけの毛糸の靴下を持っていた。
彼女は、廃屋の入り口に立ったまま、ぴくりとも動かなかった。
目を見開いたまま、何かを言いかけて止まったような、半開きの口。靴下の編み針を、空中で握り続けている。
「やられて、いるな」
アルテミスが、低い声で言った。
「ゾルダンが、彼女に何か命じたんだろう」
俺は、その婦人にそっと近づいた。彼女の前に屈み込み、顔を覗き込まないように注意しながら、肩に手を当てた。
婦人の頬は温かく、息も穏やかに続いていた。
ただ、動かない。
「ぴーっ」
サラダがアイリーンの抱っこ紐の中から、心配そうに鳴いた。
アイリーンが、女神の杖を婦人の頭上に掲げる。
「聖光、解放」
淡い金色の光が、婦人の体を包んだ。
しばらくして、彼女の指先がぴくりと動いた。それから、肩がふっと脱力し、深い息と共に、編み針が地面に落ちた。
「あら……あら、皆様、どちら様で?」
婦人が、戸惑った顔で俺たちを見上げた。
「奥さん、覚えていますか。さっき、何かありませんでしたか」
俺が尋ねると、婦人はゆっくりと記憶を辿るような顔をした。
「ああ……そう、子供。子供がね、来たの。可愛らしい、迷子の坊や」
「その子は、何を、しましたか」
「私の家に、お邪魔したいって。私、孫が遠くにいて寂しかったから、嬉しくて、迎え入れようとしたら……あの子が私を見上げて、にっこり笑って……『おばあちゃん、ここで待っててね』って……」
婦人の声が、震えた。
「それから、私、動けなくなって。あの子が、家の中に入って行って。それきり、覚えてない」
アメリアが、剣の柄を握り直した。
「家の中、ですわね」
アイリーンが、廃屋の入り口を見上げた。
俺は、ゆっくりと一歩、廃屋の中に踏み込んだ。
崩れた天井から差し込む朝の光が、埃の舞う廊下を、薄く照らしている。床板が、ぎし、と音を立てる。
奥の部屋から、誰かの寝息が聞こえてきた。
俺は、息を呑んで、奥へと進んだ。
部屋の真ん中に置かれた古びたベッドの上で、ゾルダンが、丸くなって眠っていた。絹の服のまま、毛布も無しに、子犬のように丸まって——すうすうと、寝息を立てていた。




